見出し画像

転シバ 第8話:前世回想とベルばらの記憶

ジャンヌ……オスカル……
なぜ、そんな名前が夢に出てくるのでしょう。

わたくしは柴犬。
今は、ただの柴犬……のはずですのに。

けれどこの名だけは、どうしても……
「アン・フランソワ・ド・ジャルジェ」
聞き覚えがあるのですわ。


金剛山ふもとの静かな夜。津村家の一軒家では、ひとつの小さな異変が、物語の核心へとつながっていく。


「ジャンヌ……逃げなさい……」

アンちゃんが、うなされながら寝言をつぶやいたのは、そんな雨の夜だった。

しとしとと降りしきる雨の音。カーテンの隙間から漏れる街灯の光に照らされて、柴犬の寝顔が不穏に歪む。

「……血が……赤い……!」

「空が、燃えて……オスカル……行かないで……!」

「撃たないで……ジャンヌ……!」

低くかすれた声。アンちゃんの体が小刻みに震え、肉球が畳をかすかに引っかいた。

「うわあっ! アンちゃん!? なに!? どしたん!?」

リビングに寝落ちしていたあいこが飛び起きた。

ソファの上、アンちゃんは丸くなっていたが、全身に緊張が走っていた。

「犬も夢見るんやな〜。かわい〜!」

母・静花がのんきにのぞき込み、父・忍が突然立ち上がる。

「今のは……フランス語だったぞ……!」

「違うよ! ジャンヌって誰!?」

「くっ……まさか、アンちゃんの正体は……フランスから潜入した王族型スパイ犬――!」

「出た、スパイ妄想!」

「ちょっと屋根裏に監視塔作ってくる! バラのシンボルも掲げとくべきか……!」

「深夜に工具使うのやめて!!」

だが、あいこは気づいていた。

アンちゃんの寝言は、いつもの“芝居がかった悪役令嬢口調”ではなかった。

もっと、悲しげで、誰かを守ろうとするような、切実な声だった。

──その夜、雨の音が止んでも、アンちゃんのしっぽは微かに震えていた。


朝、忍のスパイ行動はヒートアップしていた。

「耳の内側を調べろ……尻尾の振り方がモールス信号になっている可能性がある」

「やめてよ! アンちゃんのしっぽを振らせるな!」

「いや、昨日の寝言も気になる。“ジャンヌ”……“砲撃”……明らかにフランス革命期の記憶だ!」

「なんで確定するの!? 妄想が年表レベルに入ってきたよ!?」

「これはもう……念のため、家中に革命対策結界を貼らねば……! 国家レベルの記憶潜伏例……もしや“転生型記憶保持体”……いやまさか……!」

「急にリアルっぽいワード入れないで! 家、燃えるからやめて!!!」

静花がニコニコしながら言う。

「でもさ〜、ほんまに前世でお姫様やったのかもしれへんね? ほら、ベルばらとか読んでたし、なんか雰囲気あるよ〜?」

「わたくし、ベルばら読んだことありませんわ」

「やっぱりアンちゃん、貴族の記憶あるやろ!? わたしの乙女センサーがビンビンや〜! てか、名前も似てへん? アンちゃんって、“アン・ド・なんとか”みたいな感じっぽいやん?」

「……乙女センサー、感度がおかしいですわ」

あいこはそのやりとりを見ながら、なんとなく胸がざわついていた。


その日の夕方。

学校から帰ると、アンちゃんは一人、縁側でじっと外を見ていた。

「……アンちゃん?」

声をかけても振り返らない。

(どうしてだろう……こんな姿、はじめて見る)

ふと、あいこの脳裏に今までのアンちゃんの姿がよみがえる。

ソファに座る姿は女王様のようで、風呂に入るのを拒否する態度はまるで貴族の気品。

食事のマナーは異常にうるさく、寝る場所には異常なこだわり。

(この子……ほんとは、どこか別の世界にいて……でもそこから引き離されて、今も帰れずにいるのかもしれない)

そっと、アンちゃんの横に座る。

「アンちゃん、見てるとさ……なんか、不思議と落ち着くんだよね。楽しいっていうか、あったかいっていうか」

「……」

「でも、どこか寂しそうなときもあるよね。……何があったの? 本当は、何者なの?」

アンちゃんは、目を伏せたまま、小さくつぶやいた。

「……わたくしは……犬などでは……」

「えっ?」

「……わたくしは……お笑い草……? いいえ……わたくしは……でも、もう帰る場所など……」

あいこは静かに息をのんだ。

(……うちは、ただの飼い主なんかじゃないのかも)

その時、玄関の方から忍の声がした。

「おーい! 肖像画が届いたぞー!」

「……は?」

リビングに戻ると、なぜか通販で注文したらしい中世風の肖像画が、段ボールから現れた。

「これは……十八世紀フランスのとある貴族の肖像……アンちゃんに似てる気がしてな?」

「あんた、何買ってんの!?」

しかし──アンちゃんは、じっとその肖像画を見つめ、そして──

「……わたくしに……似ておりますわね……」

あいこが、息を呑む。

アンちゃんは、夢の中でつぶやく。

「……アン・フランソワ・ド・ジャルジェ……」

その名を聞いた忍が、凍りついたように目を見開く。

「ジャルジェ……まさか……いや、そんなはずは……でも……!」

アンちゃんは、首を傾げながら、自らの口元に違和感を覚えたようにこう呟いた。

「……この名前……なぜ、わたくしの口から……?」

雷鳴が鳴り響く。雨の夜、ふたたび。

その瞳に、再び、あの血とバラの記憶がよみがえろうとしていた。

To Be Continued…