バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《2》
Ⅲ◆香料図書館
《2.第一の壜》
おそるおそる栓を抜いた途端、壜の口から強い香りが立ち上がる。
先ほどの失敗に懲りて、バルコは用心深く香りを吸い込んだが、今度は問題なさそうだ。選んだ壜は、濃厚な甘みのなかにかすかなほろ苦さの入り混じった複雑な香りのものだった。包み込まれるような甘い香りに身をまかせ、目を閉じて深く呼吸するうちに、バルコは身体がふわりと浮きあがるような錯覚を覚えた。
安楽椅子にもたれ、香りにひたって陶然と目を閉じていると、うしろから誰かに軽く肩をつつかれた。椅子から身体を起こし、肩越しに振り返ったが、視界には誰もいない。今度は逆側の肩がつつかれた。
素早く振り向いたが、誰かが飛びのく気配があり、くすくすと忍び笑いが聞こえた。からかっているのか、とバルコが軽いいらだちを覚えかけたその時に
「こっちだよ」
正面に現れたのは褐色の肌をした少年だった。細い腰に、高い声。華奢な体つきからは、少年とも少女ともその性別をにわかには判別しがたいが、むき出しになっている薄い胸は少年のものだろう。褐色の肌に映える紅や翠の宝石が頸飾りとなってはだかの胸を飾っている。
少年はまだ含み笑いをしている。
「何がおかしいんだ」
「だってさ、これっぱかしの量でもう効いちゃってる」
少年は卓上の小壜を取り上げて軽く振ってみせた。中身の粉末を掌に出すと、さらに強い香りがあたりに広がった。少年が軽く唇をとがらせて掌をふっと吹くと、粉末は舞い上がり、バルコは粉末をまともに吸い込んだ。
噎せるバルコの姿を見て少年は甲高い声で笑い転げる。
「いきなり何をするんだ」
声を荒げたバルコの頸に、
「でも、いい匂いだろ」と少年は細い腕を巻き付けた。
「離れろ」
からみつく腕を引きはがそうとしたが、つかんだ腕はぬるりと滑ってのがれる。香油でも塗っているのだろうか。艶めいた肌は甘い香りがする。
細い手頸や足頸にも宝石飾りが巻き付けられ、少年が動くたびにシャラン、シャランと鈴のような音を立てる。
揉みあっているうちに、少年の瞳が異様に輝きだした。
「不思議なものを見せてやろうか」
琥珀色の瞳が正面からバルコの目を捉えた。少年の身体が熱を帯び始めたのが分かる。それと同時に甘ったるい香りがさらに濃厚に立ち込めはじめた。バルコはむせかえりそうになる。さきほどは香油の匂いかと思ったが、香りを放つのは少年の肌そのものなのか。濃厚な甘さの奥に、刺激と辛みの棘すら感じるほどに香りは強くなってきている。喉がひりつき、息が苦しくなってきた。
少年の発する熱がバルコに伝わり、バルコの身体も熱を持ち始めていた。体温が上がり、奥底で血が沸騰する。身体の奥は耐えがたいほど熱いのに、肌の表面はぞくぞくとした寒気で粟立つようだ。
やがて視界の中で万華鏡のように、色鮮やかな宝石や、褐色にぬめる肌、香料の壜たちが回り始める。
「ほら、見てみたかったら眼を閉じてごらんよ」
バルコを見据える少年の瞳は妖しく光を放つ。琥珀色の虹彩の中心で、闇のように黒い瞳孔が小さく引き絞られた。くらりと眩暈がしてバルコはまぶたを閉じた。
白い光が瞼を刺す。真上から太陽が照りつけているようだ。じりじりと肌が灼けつくのを感じる。乾いた草と土埃の匂いがし、バルコはうっすらと眼を開けた。どこかの草原に横たわっているようだが、強すぎる陽射しが乱反射してよく見えない。
熱い風が草原を吹き抜けていった。風の起こった方角から薄い金属片が触れ合うようなささめきが響いた。横になったまま顔を向けると、ゆらめく蜃気楼のなかから一羽の大きな鳥が姿を現した。
鳥の身体は碧と翠の羽毛に覆われ、日光を浴びて宝石のように輝いている。長く優美な頸のさきには小さな頭が高慢にそらされ、冠のような羽根飾りを頂いている。切れ長の眼は人間の女のように睫毛が長く、濃紺の隈取が施されていた。鳥は軽く体をゆすると、豪奢な羽根を扇のように誇らしげに広げた。一枚一枚が極彩色に輝く尾羽の先には、蒼い瞳の模様が瑪瑙と碧玉で象嵌されたようにまたたいている。ゆったりと羽根が打ちあおがれるたび、瞳の数が増えていくような錯覚を覚える。無数の瞳に凝視されているうち、バルコの思考は催眠術にでも掛けられたように麻痺してきた。視界が蒼と碧の輝きに埋め尽くされてゆく。
羽根の輝きに魅入られたようにもうろうと身体を起こすと、バルコは鳥の後をついてふらふらと歩きだした。
こちらを確かめるように振り返った鳥は、艶然と流し目をくれたかと思うと、二、三度、大きく羽ばたいた。熱い空気が渦となり、鳥は空中に舞い上がった。強烈な陽射しに、金属質の輝きを放つ羽根が燦爛と反射し、炎の柱が燃え立ったようだ。
気付けばバルコもまた鳥に化し、彼彼の鳥の後を追って飛翔している。みるみるうちに高度は上がり、眼下にはエメラルドグリーンの浜辺が広がる。
赤茶色の大地と、そこに茂った原生林の濃い緑も小さくなっていく。二羽はどこまでも舞い上がっていく。前を飛翔する鳥の姿が日輪に重なった。目がつぶれるような輝きのなか逆光となった影が黒くはばたいていく。疲れを知らずどこまでも上昇し続ける影に置いて行かれまいとして、バルコは必死に翼を動かしたが、どうしても追いつけない。さらに高度が上がり、すでに雲も眼下にある。遮るもののない虚空で太陽の熱が身体を灼く。
バルコの羽根に太陽の炎が燃え移った。熱い、熱い、羽毛や肉の焼け焦げる臭いがする。バルコは黒い塊となって海に堕ちていった。
叫び声をあげながら眼を開くと、思いがけず近くに少年の顔があった。
「どう、見たかい。奇麗だったろう」
甘い吐息が熱く頬に掛かる。
「孔雀、というんだよ。この鳥は男のほうが美しいんだ。誘うのも男の方からさ」
悪夢からようやく放たれ、息を荒げているバルコに、少年の額が触れそうに近づいた。
「そこをどけ」
「どかないよ」
切れ長の眼は底意地の悪い微笑を浮かべている。抵抗できないバルコの上に覆いかぶさった少年は、バルコの反応を楽しむかのように眺めている。ことさらゆっくりと瞬きをするたび、少年の眼には長い睫毛がばさりとかぶさる。瞳孔の小さいその眼は、鳥のものだ。冷酷な鳥の眼から逃れきれなくなったバルコは目を閉じて顔をそむけた。暗闇の中にもまだ、無数の蒼い瞳の残像が揺れている。
ねっとりとからみつくような甘い香りが一段と強くなり、なにかが唇に触れた。最初は羽根に柔らかく擽られるような感触だったが、身動きできずにいるうちに、力は段々強くなった。押し開かれた唇のすきまから、けば立つ羽根が押し込まれる。苦しい、息ができない。同時に頭痛がするほど甘い香りに噎せそうになる。なんとか身体を起こそうとするが、全身が痺れて動けない。
金属音を思わせるようなけたたましい笑い声が起こり、辺りは闇に沈んだ。
***
「大丈夫ですか」
両肩を揺り動かされてバルコは意識が戻った。司書が戻ってきたのだった。顔を上げようとして、
「痛い」
バルコは頭を抑えた。頭の芯に鈍痛が残っている。
司書は、白手袋をした手で卓上の壜を取り上げると、きゅっと栓をした。
「いまの壜は“ナツメグ”といいます。独特の刺激が肉料理などに合うとされる高価な香辛料で、世界四大香辛料のひとつともされています」
コトリ、と壜を卓上に置き、司書は説明を続ける。
「そうそう、ひとつつご注意を。ナツメグは、ごく微量の毒を含んでいます。少しだけなら問題ありませんが、過剰に摂取すると幻覚作用を引き起こします。量によっては死ぬこともあります。ああ、だらしない。こんなに粉をこぼして」
「教えてくれるのが遅いよ。ひどい目に遭った。そんな危険な壜なら先に言っておいてくれよ。それに、粉をこぼしたのはぼくじゃない」
「おや、すみません、でもそういう強い刺激がお好みの方もいるので」
司書は涼しい顔だ。
「次はどうされますか」
(続く)
【バルコの航海日誌】
■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b
■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855
■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56
■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00 ☆この話
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841
