バルコの航海日誌 Ⅲ◆香料図書館《1》
Ⅲ◆香料図書館
《1.図書館のある街》
青空に白い光をちりばめたように海鳥が舞う。
船が港に近づくにつれてその数は増していく。船と並走しつつ飛び交う彼らは、白くなめらかな翼で潮風を切り、ときに軽やかに船を追い抜いてゆく。
翼が大きく、声がしわがれているのがカモメ、やや小ぶりで啼き声が甲高いのが海猫だ。高く低く、彼らが啼き交わす声は、あいにく鈴を振るような美声というわけにはいかないが、長らく海の上で旅を続ける船乗りたちにとっては待ちに待った上陸の合図であり、セイレーンの歌声にもまさる歓喜の歌声にも聞こえる。
前方の岸壁に、小さく赤くなにか動いているのが見えてきた。船が進んでいくにつれ、それは入港の信号旗を振る人の姿をとった。旗の指示に従い、船はゆっくりと港に入っていく。視界に徐々に岸壁が迫り、甲板から身を乗り出すバルコの目からも、摩耗した石積みの岸壁に牡蠣殻がびっしりと付着しているのが見える。
船は最後に大きく水面をたわませて接岸した。波がおさまり、安堵の空気が甲板を包む。
あたりには、タールの匂いと陽に温んだ海水の入り混じった磯くさい匂いが立ち込めている。日向くさいこの匂いは大きな港ならではのものだ。久しぶりの上陸にバルコは胸を弾ませていた。
「わあ、見てよ、あの高い建物。マッテオ、あれはなに?」
きしみをたてるはしけを踏みしめ、港の石畳に降りたったバルコは、さっそく大きな声を上げた。指さす先には赤褐色の尖塔がそびえている。バルコに続きはしけから降りたマッテオは額に手をかざした。
「ああ、あれは鐘楼だ。この街で一番古い建物らしいぜ」
上陸したバルコ達を迎えるように、正午を知らせる鐘が鳴り響いた。
こころのところずっと小さな島伝いに旅をしてきたバルコたちにとって、これほど大きな街に寄るのは久しぶりのことだ。
歴史ある建築物に、石畳で舗装された道路、伸びやかな街路樹と、落ち着いた街並みはどこを見ても豊かさが感じられる。街は秋の装いとなりかけており、青い空に、赤や橙に色づき始めた樹々のコントラストが美しい。
今日はこの土地の休日にあたるらしく、目抜き通りは多くの人で賑わっている。
「この街は古くから香料の交易で栄えてきた。商いの要所として、俺たちのじいさんの、そのまたずっと前の時代から、旅の途中では必ず立ち寄ることに決まっているんだ」
「そうなんだ」
「この石畳は、当時の有力者が私財を注ぎ込んで敷いたもので、当時としては最高級の石材が使われている」
「うん、うん」
街の歴史を語るマッテオの言葉にバルコは相槌を打っているが、華やぎを見せる街のあちこちに眼を奪われ、実のところは心ここにあらずだった。
「聞いてるのか、バルコ」
「うん、聞いているよ」
あわててマッテオに向き直ったバルコの鼻先を、ふわりと甘い香りがかすめた。振り返ると、家族連れの子どもが紙に包まれた菓子を頬ばっている。菓子は揚げたてらしく、揚げ油と香辛料の入り混じった香ばしい香りを周囲に漂わせている。
「ねえ、マッテオ、あれは」
「現金だな、お前も。あれはここの名物だよ。小麦粉の生地をねじって揚げて、香料入りの砂糖をまぶしてあるんだ。休みの日になると屋台が出る。ほら」
言われてみると、通りのところどころに幌を掛けた屋台が出ており、菓子が揚がるのを待つらしき人が小さい列を作っている店もあった。
「香料の調合は店によって違うから、みんな自分の好みの店を見つけてひいきにするんだよ」
話を聞いているうちにバルコは我慢できなくなった。
「ねえ、俺たちも買いに行こうよ」
「さっき昼飯を食ったばかりじゃないか」
「おやつは別腹っていうよ。きっとうまいよ」
「しょうがねえなあ、バルコは」
堅物のマッテオと駄々をこねるバルコの間に、ダッカが割って入った。
「わかったから俺が奢ってやるよ。これでひとつ買ってきな」
ダッカは財布から小銭をつまみだしてバルコに与える。
「え、いいの」
「いいって、行ってこいよ。俺たちはそこいらをぶらついてるからゆっくり食べてくるといいさ。夕飯までには船に戻れよ」
ダッカは後ろ手に手を振り、一同は行ってしまった。
ひとりその場に残ったバルコは、小さな幸運に頬をほころばせて辺りを見渡した。さっそく木陰に庇を出す屋台を見つけ、そこに決めた。先客の子どもたちが菓子を手にしてちょうど去ったところだった。、菓子売りの男が子どもたちを笑顔で見送っている。
「こっちにもひとつおくれよ」
艶のよい赤い頬をした男にバルコは声を掛けた。
「よしきた。今揚げるからね。うちの店は初めてかい」
機嫌の良い声で男が応える。
「うん、この菓子を食べるのも初めてなんだ」
「初っ端がうちとは運がいいね。うちの菓子はこの街でいちばんうまいよ。あんまりうまいもんで、揚げるはじからついつい摘まみ食いしてたらこんなに腹が出ちまった。さあ揚がった、そら」
軽口を叩きながらも男は手際よく菓子を揚げ、香辛料の茶色い粉をまぶすと紙に包んで小窓越しに差し出した。揚げたての菓子は手に持てないほど熱く、香ばしい香りを立てている。
バルコはさっそくかぶりついた。油と砂糖の濃厚な甘さに、香辛料の複雑な香りが絡みあう。
「うまい」
「そうだろう」
男は笑みを浮かべた。
「うちのは秘密の調合だからね、特別うまいのさ」
砂糖をこぼしながら夢中で食べきったバルコは、服をはらうと満足げにあたりを見回した。
「さて、腹ごなしの散歩といくか」
***
街路樹が列をなす大通りの先には、ひときわ立派な赤茶色の建物が目を惹く。
「なんだろう。役所にしては街の中央から離れているようだし」
建物を半分に区切って、午後の和らいだ光が降り注いでいる。
「見に行ってみるか」
ややあってたどり着いたのは煉瓦造りの古い建物だった。門も鋳物づくりの立派なものだ。閉じられている門の隙間からのぞくと、奥には手入れの行き届いた前庭が見える。バランスよく植え込みがあしらわれた芝生には短い小径がカーブを描き、建物の正面まで続いている。正面玄関には数段の石段が設けられている。玄関の扉は緑青が浮いた重厚なものだ。扉の把手には神話の怪獣の頭部があしらわれ、いっそうのいかめしさを感じさせる。
そこまで見届けて、バルコは視線を戻した。門扉に嵌め込まれた真鍮板が鈍い光を放っている。彫り込まれた文字は『図書館』と読めた。
正門は閉ざされているが、すぐ脇にある通用門らしき小さな扉は開いている。バルコは一瞬ためらったが、好奇心のほうがまさった。見とがめる人もいないようなので、くぐり戸のような入口を通り、敷地内に歩を進める。前庭には噴水がしぶきを上げ、午後の陽光を弾いている。あたりに人影はなく、噴水の水音が響いているだけだ。石段を登り、扉の前にたどり着いたバルコの目に小さな張り紙が映った。
「施設管理のため臨時休館」
あたりに誰も見当たらなかったのはそういうわけだったのか。小さく落胆しかけたバルコの背後から、高い声が掛けられた。
「本日は休館日ですが、希望者には特別に入館を許可しています。入館をご希望されますか?」
肩越しに振り返ると、そこには図書館員の制服とおぼしきジャケットを身に付けた係員が立っていた。
赤みがかった茶色のジャケットは少年の身体にぴったり合っている。おそらく誂えたものだろう。金の縁飾りやひだ飾りがあしらわれた装飾の多い仕立ては、どこか時代がかった雰囲気を醸し出しているが、少年の身のこなしが軽やかなせいか、全体的にあか抜けた印象を与える。
係員とは言っても、彼はまだ、ほんの少年のようだ。バルコはいぶかしんだ。
「このあたりを通りがかって気になったのですが、中に入れてもらえるのですか。あなたは……」
「ぼくはここの司書です。特別入館の権限を預かっているので。ほら、これが司書の証しとなるバッジです」
なるほどジャケットの胸には、積み重ねた本を象った金色のバッジが光った。細い顎を、くいっと得意げに上げた少年の髪は濃い茶色の巻き毛だが、光の加減で赤く透ける。
「ではお願いします」
「承知しました。いま鍵を開けます」
司書の少年は、長い睫毛を伏せてポケットをさぐると鍵を引き出した。凝った意匠が施されているが、時代の色がついて地金の色はくすんでいる。形も風変りだ。持ち手の部分が半球の形にくぼんでいる。どうやら古い匙ではないか、とバルコは怪しんだが、鍵は少年の手元の陰に入って見えなくなってしまった。ガチャリと音がして鍵が開いたようだ。
少年の華奢な手では、怪獣の頭部が彫り込まれた大げさな把手は持て余し気味のようだ。把手にのしかかるようにして扉を開ける。扉は重くきしる音を立てた。
「こちらへどうぞ」
わずかに開いた扉の隙間から、少年は細い身体を滑り込ませる。バルコも後に続いた。
明るく晴れた庭園から鎧戸の閉ざされた室内に入り、目が慣れるまでにしばらく掛かった。
閉めきられた館内は、きっと黴臭く静まっているだろうと予想していたが、目が慣れてくると意外にも明るさは事足りた。控えめではあるが、館内を歩くには不自由しない程度の灯りは燈されている。新鮮な空気も流れているようだ。バルコは立ち止まって辺りを見渡した。木の床はよく磨き込まれて天井の照明が映り込んでいる。壁掛けの照明が壁にも曖昧な光の円を映していた。書架には革張りの書物がずらりと並び、館内のところどころには優美な曲線を描く木製の書見台が設置されている。
正面には時代がかった大階段が設けられ、上の階へゆったりと続いていた。上階は、舞台のように中空に張り出しており、手すりごしに階下を見下ろせるようになっている。
「ずいぶん立派な図書館ですね」
「この地で最も歴史の旧い建築物です。以前は領主の館の一部だったと聞きました。この地は交易で栄えたので、世界のあちこちの文化的財産をとどめておく場の必要性が認識されていたのですね。ほら、いろいろな国の言語で記された書物があります。これは東の国の航海術について書かれた本なのですよ」
そう指さされた書物の表紙の文字をバルコは読めなかった。
「なんだか絵のような文字だ。初めて見た」
「珍しいのは文字だけではないのですよ。ここは特別な図書館なのです。上の階に昇ればそれが分かります」
司書に先導されてバルコは大階段を昇った。階段の手すりは良く磨き込まれ、適度な曲線を帯びていたため、バルコはそれにまたがって階下まで一気に滑り降りてみたいという衝動に駆られたが、このどこか小生意気な少年にそれを気どられないよう、神妙な顔をして後に続いた。
上階には毛足の長い絨毯が敷かれ、壁面に設けられたランプが書架を温かく照らし出していた。図書室というよりは、どこか富豪の家の客間というほうがしっくりくるような空間だ。豪奢でありつつも親密な雰囲気が訪れる人を温かくもてなす。
見渡す限りに書架が立ち並び、書見台が点在しているという点では図書館に違いないのだが、図書館にはつきものの古い紙やインク、表紙革の匂いのかわりに、土埃のような乾いた香りが漂う。注意深く香りを辿ると、その奥には、乾いた葉や干した果実のような甘さも感じられた。
この香りが何か、バルコが考えを巡らせるより早くこちらに向き直った司書は、立ち並んだ書架を背に、両手を広げて得意げに言った。
「さあ、どうぞ。存分にお読みください。当図書館は蔵書の数、質ともに他の追随を許しません」
しかし書架と指された棚に歩み寄ったところ、並んでいるのは硝子の壜ばかりだ。硝子の壜に、同じく硝子製の栓を押し込む薬壜のような形だ。ピカピカに透明な壜もあれば、古いものなのか肌に曇りが生じているものもある。ラベルが貼ってあるが、唐草めいたその文字はバルコには読めないものだ。壜の多くが茶色い粉末を透かせている。
「図書館、ですよね。本はどこに」
「ですから、ここは香料の図書館なのです。壜の栓を抜き、香りを読みます。ああ、あなたがたの言葉で“読む”とは、多くの場合文字が対象でしたね。我々は香りも読むのです。文字に比べ、一瞬で伝達できる情報量が多く、香りを読むと同時に、ビジョンや音声、その空気感まで浮かぶという読み手も多いのです」
「どの壜も“読んで”いいのですか」
「もちろんです。公共の図書館ですから」
「なるほど。ではさっそく」
手近な棚から適当な壜を手に取り、ラベルも見ないまま一気に栓を抜いた。
司書が、あっ、と声を上げたが、バルコはすでに壜に鼻を近づけ、思い切り息を吸い込んでいた。
とたんに強烈な香りが鼻を打った。苦みと辛みが一瞬のうちに脳天に突き抜け、のけぞりそうになる。慌てて栓を締め、元の位置に小瓶を戻した。
司書は小さくため息をついた。
「ああ……まだ説明の途中だったのですが。慣れないうちは立ち読みはあまりお勧めしません。眩暈が起こりやすいので。読みたい壜を選んだら、そちらの椅子で落ち着いて栓を開けるほうがよいと思いますよ」
示された先には、掛け心地のよさそうな一人がけの安楽椅子があった。傍らには、貝で象嵌の施された寄木細工の小机が控え、卓上の小さなランプが光の輪を広げている。
「ランプの熱で、さらに香りが立ちやすくなるのです。よろしければこちらでどうぞ」
新しい壜を手に取ったバルコは、司書に促されるまま、椅子にふかぶかと身体を沈み込ませると、慎重な手つきで栓を抜いた
(続く)
【バルコの航海日誌】
■プロローグ:ルダドの波
https://note.com/asa0001/n/n15ad1dc6f46b
■真珠の島
【1】 https://note.com/asa0001/n/n4c9f53aeec25
【2】 https://note.com/asa0001/n/n57088a79ba66
【3】 https://note.com/asa0001/n/n89cc5ee7ba64
【4】 https://note.com/asa0001/n/n9a69538e3442
【5】 https://note.com/asa0001/n/n253c0330b123
【6】 https://note.com/asa0001/n/n734b91415288
【7】 https://note.com/asa0001/n/nfe035fc320cb
【8】 https://note.com/asa0001/n/n81f208f06e46
【9】 https://note.com/asa0001/n/n6f71e59a9855
■銀沙の薔薇
【1】水の輿 https://note.com/asa0001/n/nedac659fe190
【2】銀沙の薔薇 https://note.com/asa0001/n/n6a319a6567ea
【3】オアシス https://note.com/asa0001/n/n3b222977da7a
【4】異族 https://note.com/asa0001/n/n224a90ae0c28
【5】銀の来歴 https://note.com/asa0001/n/n2a6fb07291ae
【6】海へ https://note.com/asa0001/n/n1a026f8d4987
【7】眠り https://note.com/asa0001/n/ne00f09acf1b7
【8】目覚め https://note.com/asa0001/n/ncbb835a8bc34
【9】海の時間 https://note.com/asa0001/n/nb186a196ed9d
【10】歌声 https://note.com/asa0001/n/ne9670d64e0fb
【11】覚醒/感応 https://note.com/asa0001/n/n983c9b7293f2
【12】帰還 https://note.com/asa0001/n/n53923c721e56
■香料図書館
【1】図書館のある街 https://note.com/asa0001/n/na39ca72fe3ad ☆この話
【2】第一の壜 https://note.com/asa0001/n/n146c5d37bc00
【3】第二、第三の壜 https://note.com/asa0001/n/na587d850c894
【4】第四の壜 https://note.com/asa0001/n/n0875c02285a6
【5】最後の壜 https://note.com/asa0001/n/n98c007303bdd
【6】翌日の図書館 https://note.com/asa0001/n/na6bef05c6392
【7】銀の匙 https://note.com/asa0001/n/n90272e9da841
