ヘルマン・ヘッセ「デミアン」
ヘルマン・ヘッセの「デミアン」を初めて読んだ。主人公のシンクレールがデミアンに出会うシーンあたりからガッと物語の世界に引き込まれ一気読みだった。
この本を読んだのも指揮者の根本さんの影響である。心魅かれる人に出会うと、その人が影響を受けた文学や音楽を追いかけてしまう。要するに影響を受け過ぎてしまう性質なんだろう。良いんだか悪いんだか。
先日の第九の演奏会前に根本さんからメールをいただく。 実際に出会う前からこうしてつながれるのはSNSの良さ。
「きっとこの時期にベストのタイミングで出会うことになっていたのだ」と。「太陽のように、世界に愛と喜びを溢れかえすことを願って生まれた魂なんだ」と。「しかし、対極の真っ暗闇も経験せねばならなかった」と。そして、ヘッセの「デミアン」のお話、さらにいきなり神の存在の話へ。本質的なところへいきなり向かう。 演奏会で実際にお会いした時もそんな感じだった。僕も徳島で出会った樹のことを少し話す。
根本さんが聞いた神の言葉は
「貴方が本当にしたいことをしなさい」
根本さんが本当にしたいことは、敬愛するベートーヴェンがやりたかったことであり、「音楽で世界平和」の実現だった。
ヘッセのこの作品は、僕のこれまでの人生や内面と深く共鳴していくものがあった。自分の人生に「意味」を与えてくれて、同時に「価値」も見出してくれた。
デミアンとの出会い、バッハのこと、教会でオルガンを弾くピストーリウスとの出会い、公園で見かけた少女にひきつけられ、ダンテに倣いベアトリーチェと名付けるエピソード、デミアンの母であるエヴァ夫人との出会いなど。最近、第九から連想してダンテの「神曲」のことを書いたが、ここでもダンテの話が出てくることにびっくりする。
この作品は戦時中に書かれ、ヘッセが匿名で出版社へ提出されたものなので、すぐには出版されなかったという。
主人公のシンクレールがデミアンという年長の友によって真の自我を求めていく物語。デミアンはデーモンと同じく、「悪霊にとりつかれたもの」から出ているという。
小説の中で印象に残ったシーンを引用しながら、この小説を通してヘッセと対話していきたい。
私はデミアンの顔を見た。そして彼が少年の顔ではなく、おとなの顔を持っているのを見たばかりでなく、さらにそれ以上のものを見た。それはおとなの顔でもなく、さらにある別なものであるのを、私は見たように、あるいは感じたように思った。そこには女の顔のある要素さえ含まれているようだった。特にこの顔は私には一瞬間、おとなのようでも子どものようでもなく、年をとってるようでも若いようでもなく、千年もたっているような、没時間的なような、われわれが生活しているのとは違った時勢の極印をおされているような気がした。動物、あるいは樹木、あるいは星はそういうふうに見えるかもしれなかった。
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ほんとのデミアンはこんなふうに、石のように古めかしく動物的に無情に美しく冷たく死んでいて、しかも前代未聞の生命に満ちた隠微なものなのだ。そしてこの静かな空虚、このエーテルと星空、この孤独な死が、彼の身辺を包んでいるのだ!
いま彼はまったく自己の中に没入している、と私は戦慄しながら感じた。私はそのときほどひとりぼっちになったことはなかった。私は彼に対する関係を失っていた。彼は私の手のとどかないところに行ってしまった。彼はいちばん遠い島にいるよりも私にとって遠くなってしまった。
ある時、シンクレールがデミアンのただならぬ表情を目撃して畏怖におののくシーン。それは動物や樹木のように神秘的にも見えるかもしれない。デミアンが「悪霊」を意味するということを少し感じさせる。
しかし、実行したり、十分に強く欲したりすることのできるのは、その願いが完全にぼく自身のうちにある場合、実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合に限るのだ。そういう場合になってきて、きみが自分の内から命令されることを試みる段取りになれば、きみは自分の意志をよい馬のように駆使することができる。
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きみの生命を作っている、きみの内部のものには、それがわかっている。われわれの内部に、すべてを知り、すべてを欲し、すべてをわれわれ自身よりよくなすものがいる、ということを知るのはきわめてよいことだ
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「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
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さっき例にひいたアプラクサスの教えもそうであった。人々はこの名をギリシャの呪文と結びつけて呼び、今日なお野蛮な民族が持っているような魔術師の悪魔の名だと思っているものが多い。しかしアプラクサスはずっと多くのものを意味しているように思われる。われわれはこの名をたとえば、神的なものと悪魔的なものとを結合する象徴的な使命を持つ、一つの神性の名と考えることができる
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このぜんぜん内面的な幻像と、自分の求める神についての外部からの暗示とのあいだに、ようやく徐々に無意識的に連絡ができあがった。それはしかしだんだん密接になった。私は自分がこのほのかな夢の中でアプラクサスに呼びかけたのを感づきだした。歓喜と戦慄、男と女とが混じ、最も神聖なものと最もいとわしいものとがもつれあい、このうえなく柔らかい無邪気さの中に深い罪がけいれんしているーー私の愛の幻像はそういうふうだった。アプラクサスもそういうふうだった。愛はもはや、私がはじめ悩ましく感じたように、動物的に暗い衝動ではなかった。それはまた、ベアトリーチェの姿にささげたような、敬虔に精神化された崇拝でもなかった。愛はその両者であり、されにそれ以上だった。それは天使と悪魔、男と女とを一身に兼ね、人と獣であり、最高の善と極悪であった。これを生きることが自分の持ちまえであり、これを味わうことが自分の運命であるように思われた。私はこの運命に対しあこがれを持ち、また不安をいだいた。しかしそれは常に眼前に存在し、常に私の上にあった。
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また、自分と自然とのあいだの限界が震え溶けるのを見る。そして、私たちの網膜に映るさまざまの形が、外部の印象から発しているのか、内部の印象から発しているのか、わからないような気分を知るようになる。(中略)むしろ、私たちの内で働いているのと自然の内で働いているのとは、同一不可分な神性である。外界の世界が滅ぶようなことがあったら、私たちのうちのひとりが世界を再建することができるだろう。なぜなら、山や川、木の葉、根や花など、自然界のいっさいの形成物は、私たちの内部に原型を持っており、永遠を本質とするところの魂から発しているからである。私たちはその魂の本質を知らないが、それはおおむね愛の力や創造者の力として感じられるものである。
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僧は改宗させることを欲しない。僧はただ信者のあいだに、同類の人々のあいだに生きることを欲し、われわれがわれわれの神々を作るその感情の体現者、現われであろうと欲する」彼は中断してから言い続けた。「ぼくたちの新しい信仰のために、いまぼくたちはアプラクサスという名を選んでいるが、この信仰は美しい。それはぼくたちの持っている最上のものだ。だが、それはまだ乳のみ子だ。翼がまだはえていない。ああ、孤独な宗教というものはまだ本物でない。宗教は共通にならねばならない。礼拝と陶酔、祝典と秘法とを持たねばならない・・・」(中略)すべての衝動には意味があるのだ。(中略)われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させはしない(中略)われわれが内部に持っているもの以外に現実はない。大多数の人々は、外部の物象を現実的と考え、内部の自己独得の世界をぜんぜん発言させないから、きわめて非現実的に生きている。それでも幸福ではありうる。しかし一度そうでない世界を知ったら、大多数の人々の道を進む気にはもうなれない。シンクレール、大多数の人々の道はらくで、ぼくたちの道は苦しい。ーーしかしぼくたちは進もう
アプラクサスを僕の中で置き換えるとすれば、それは「光の樹」だろう。自分自身の信仰のようなもの、そして僕の中で垂直に建つ光の柱であり、アンテナであり、時には雲を纏って龍や鷹に変化する。見えたと思ったらすぐ消えていく。空即是色。目には見えないエネルギー、波動のようなもの。
しかし、それは同時に野性的で獰猛なエネルギーにも溢れている。その力によって「明るい世界」ではなく「暗い世界」の方へ引きずり込まれることもある。内部の力はすべてを知っているのかもしれない。時には魂の研磨のためにそういう「暗い世界」へ引きずり込む。
外部に魅かれるのは楽だ。映画「ファイトクラブ」のエドワード・ノートンのように、ブランドものの服や家具を揃えたりする。一方で、自分の内部を追求していくのは孤独で時には苦しいことの連続だ。「しかしぼくたちは進もう」と励ますピストーリウスの言葉はなんて希望に満ちているのだろう。。。それでも生きていくこと。
ある人とそっくり魂ごと入れ替わったような感覚を経験したことがある。古くは大林宣彦「転校生」、今の時代だと「君の名は。」みたいに。「あなたはわたし、わたしはあなた」という感覚。
そこでは男という性別は超えていた。彼の声が僕の声のように聴こえ、彼の表情が僕のように見えた。それは同時に性的で官能的なものでもあった。
彼のうたの臨界点に達した時、彼の背中からたくさんの蛍が光を発するように光の葉が舞っていった。光り輝く光輪をもつ仏のようだった。人間は仏に成る。彼はのちに「大竹さんの中にある歌を僕が歌ったんです」と言った。
彼と別れた後、彼がいつも感じているであろう、微細であたたかく優しく愛に溢れた感覚、周りにある全てのものが愛おしい。そのような世界へ対する愛の感覚がしばらく身体に残っていた。彼はこうして世界を感じているのか、と。
私はふたたび、心からの努力をもって、崩壊した生活の一時期の残骸の中から「明るい世界」を築こうと試みた。私はふたたび、自分の中の暗いものと悪いものをかたづけて、完全に明るいものの中にとどまろうという、ただ一つの願いにひたり、神々の前にぬかずいて暮した。いずれにしてもいまの「明るい世界」は、いわば私自身の創造だった。それはもはや、母のもとへ、責任のなか保護のもとへ逃げ帰りはいりこむことではなくて、自分自身によって考え出され要求された新しい奉仕で、責任と自制とを伴っていた。私は性欲のもとに悩み、たえずそれからのがれていたが、いまこの神聖な火の中で性欲を変容させて、精神と礼拝とにしようと思った。もはや暗いもの醜いもの、うめきあかされる夜、みだらな絵の前での心臓のときめき、禁制の戸の前での盗み聞き、淫欲などはあってはならなかった。それら一切のもののかわりに、私はベアトリーチェの像をもって自分の祭壇をたてた。そして自分を彼女にささげることによって、精神と神々にささげた。暗黒な力から奪い取った生活の興味を、明るい力に対し犠牲としてささげた。快楽ではなくて清浄さが、幸福ではなくて美しさと霊性が私の目標だった。
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するとしだいに、それはベアトリーチェでもデミアンでもなくてーー私自身だという気がしてきた。その絵は私に似ていなかったーー似るはずもない、と私は感じた。ーーしかし、それは私の生命をなしているものだった。それは私の心、私の運命、あるいは私の精霊だった。私がいつかまた友だちを見つけるとしたら、私の友だちはそういう様子をしているだろう。私がいつか愛人を得るとしたら、私の愛人はそういう様子をしているだろう。私の生も死もそのとおりであるだろう。それが私の運命の響きであり、リズムであった。
(中略)その本というのは、ノヴァーリス一巻で、手紙と警句集だった。中にはわからないものがたくさんあったら、すべてがなんともいえず私をひきつけ、私にからみついてしまった。さてそれらのことばの中の一つが頭に浮かんだ。私はそれをペンで肖像の下に書いた。「運命と心とは一つの観念を表す名称である。」それをいま私は理解した。
先日、根本さんの第九を浴びて、理屈を超えたところで身体いっぱいに「感謝」と「喜び」の感情に満たされた。過去に対して「感謝」することができた。言葉ではうまく説明できない。精神的な脱皮だった。
そして、29歳からアトピー性皮膚炎になり、その頃のことも当時のブログを頼りに思い出した。自分の運命というものが、悪い方にも良い方にも大きく開いていった時だった。夏の演奏ツアー、職場の異動、出張先の現場で事故る、三重で演奏、不眠症、自転車で軽い事故、友人を裏切ってしまう、岡山での音楽合宿、映画や美術館に行きまくったり、本もよく読んでいた。何かを得ようという必死さが伝わる。今の自分に繋がる土台が養われたのもこの頃か。うん、かなり無理してた。仕事も色々な所に出張に行っていたり。若気の至りか。
行き場のない身体の声が吐き出されて病気になったのだろう。この時期の僕はものすごく他者が入り込んでいた。無数の声に寄生されコラージュされ、皮膚という境界が燃えて溶けて、焼け野原となった。狼の遠吠えのように沈黙の慟哭がはみだす。
起こってくるそのことが、もはや自分にとっての善悪の現象を超えて、ただ、起こるべくして起こることが起こっている。もし、過去に戻ったらまた同じことをするのかと問われたら、するだろう。
僕は僕のこの生を生きざるを得なかったということだ。
その時の仕事も辛かった。異動先の職場では僕はひとりだった。複数の物件を抱え込み、出張も多く、身体はしんどかったが薬でごまかし、生活のあれこれは実家に頼った。
その後、救世主のようにH君と室内楽団が現れるまで5年間、ずっとひとりで闘っていた。
この心に蓋をしていた過去をクリアリングしていきました。当時の痛みと苦しみと悲しみと怒りなど闇の感情を光に変えるんだと。
音楽は、目に見えない存在への、自己への、光を求める祈り。Blues。マリアは、無意識の中に求める永遠の母性、優しさ、みたいなもの。マリアの眼差しが注がれる。死者を、僕から離れていった人を、別れた人を、今まで出会った人を、マリアと名付け、その人達に出会えたことへの感謝と、その人達の未来の幸せを祈れたら良いなと思っています。
毎朝シューベルトのアヴェ・マリアを弾いている。マリアはベアトリーチェでもある。僕の中にある、「永遠の母性」「優しさ」みたいなもの。その原型。その人達に出会えたことへの感謝と、その人達の未来の幸せを祈りたい。
そのとき、私は独特の逃げ場をーーいわゆる「偶然」によって見いだした。しかし、そんな偶然は存在しない。あるものをぜひとも必要とする人が、この必要なものを見いだしたとすれば、それを彼に与えるものは偶然ではなくて、彼自身、彼自身の願望、必然が彼を導くのである。
町を歩いているとき、町はずれの小さな教会からオルガンの響いて来るのを二、三度聞いたことがあった。止まって聞きはしながったが、そのつぎに通り過ぎると、また聞こえ、バッハがひかれているのがわかった。(中略)その中でひいている人は、この音楽の中に一つの宝が秘められているのを知って、自分の生命を求めるようにこの宝を求め、そのためにオルガンをたたき努力しいるのだ、というふうに、私には感じられた。私はテクニックという意味ではあまり音楽はわからないが、魂のこういう表現は子どものときから本能的に理解し、音楽的な要素を自己の内の自明な要素と感じていた。
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ピストーリウスはもう成長した変人だったので、自分自身に対する勇気と尊敬とを失わないようにすることを私に教えた。彼は、私のことばや夢や思想の中にいつも価値あるものを見いだし、それをいつもまじめに考え、それについて真剣に論ずることによって、私に範をたれた。(中略)火を見つめたまえ、雲を見つめたまえ、予感がやって来て、きみの魂の中の声が語り始めたら、それにまかせきるがいい。(中略)ねえ、シンクレール、ぼくたちの神はアプラクサスといい、神であり悪魔であり、明るい世界と暗い世界とを内に蔵しているのだ。アプラクサスはきみの思想や夢のどの一つにだってさからいはしない。それをけっして忘れないように。だが、もしきみが非のうちどころのない普通のものになったら、アプラクサスはきみを捨ててしまう。彼はきみを捨てて、彼の思想を煮るべき新しいなびをさがすのだ
このブログで何度も勝手に書かせてもらっている画家の榊さんも、「音楽のテクニック的なことはわからないけど、魂で聴いている」ということを言っていたし、バッハのオルガン作品をずっと聴いていたりしていたという。
ピストーリウスがマッチをすって火をつけ、腹ばいになって、ゆらゆらと燃える火を無言で一時間も見つめるシーンも印象的。榊さんが冬に薪を割ったり、高島野十郎の蝋燭の絵を思い出す。
ぼくたちのだれもが、世界に存続するすべてのものから成り立っている。ぼくたちのからだが、魚まで、否、もっとさかのぼった所までの発展の系図を内に蔵しているように、ぼくたちの魂の中に、かつて人間の魂の中に生きたことのあるいっさいのものを持っているのだ。
(中略)
彼らのすべての中に、人間になる可能性が存在しているが、それを察知し、そのうえその一部を意識的にすることを学んだときはじめて、この可能性は彼のものになるのだ
三木成夫の「生命記憶」を思い出す。他では、シンクレールが空を飛ぶという夢を見た時に、そこからピストーリウスが、海の中を飛ぶように泳ぐ魚は、魚の平衡器官(浮き袋)の名残が人間の中にも存在している、その太古の記憶を夢の中で思い出しているんだ、という話をするシーンも出てくる。
ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。ーー各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。
(中略)
目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。ーーそのことは私の心を深くゆり動かした。それが私にとってこの体験の結実だった。
(中略)
各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。
(中略)
肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。
(中略)
私は自然から投げ出されたものだった。不確実なものへ向かって、おそらくは新しいものへ向かって、おそらくは無へ向かって投げ出されたものだった。この一投を心の底から存分に働かせ、その意志を自己の内に感じ、それをまったく自分のものにするということ、それだけが私の天職だった。それだけが!
私はすでにさんざん孤独を味わってきた。いま、私はもっと深い孤独のあることを、そしてそれはのがれられないものであることを、ほのかに感じた。
子どもの頃は絵を描き、中学になってから音楽を始め、コロナ禍あたりから詩を書き始め、それと並行しながらブログを15年ほど書き続け、その結実が「光の樹」という1冊の本になった。2年前には、以前からずっとあったクリエイティブの世界に憧れからWebデザインの勉強をし始め、そこからフロントエンドエンジニアの仕事をするようになった。しかし、それらは人生の中で付随的に存在するものだろう。「自分自身に達している」のか考えるとよくわからない。あぁ、これが自分だ!と感じたことはある。しかし、それは長くは続かない。恐らく一生探し続けるものなのかもしれない。自分の道を探し続けること。
「生まれることは常に困難です。鳥が卵から出るのにほねをおることはご承知でしょう。ふりかえってたずねてごらんなさい、自分の道はそれほど困難だったか、ただ困難なばかりだったか、同時に美しくはなかった、自分はより美しい、よりらくな道を知っていただろうか、と」
(中略)
「シンクレール、あなたは赤ちゃんですのね! あなたの運命はあなたを愛しています。あなたがたえず忠実であれば、夢に見るような運命が、いつかは完全にあなたのものになるでしょう」
(中略)
私は自分のへやの真ん中にがんばって、全意識を集中し、エヴァのことを考えた。魂の力を凝集させて、彼女に自分の愛を感じさせ、彼女を自分の方に引き寄せようと思った。
(中略)
「シンクレールさん、あなたはきょう私を呼びましたね。なぜ私が自分で行かなかったか、あなたはご存じです。でも、お忘れになってはいけません。あなたは呼ぶことを知りました。いつでもだれかしるしを持つ人が必要だったら、またお呼びなさい」
エヴァ夫人の問いかけ。僕もシンクレールと同じように答えるだろう。「困難だった」と。困難という闇の中に光を見だした。大きく見れば闇に違いない。闇は全体を包むものだ。「明るい世界」ではなく「暗い世界」にいた。しかしそこからほのかに光が、細く真っすぐ刺すような光があった。それは美しく救済だった。エヴァ夫人が言う「なぜ私が自分で行かなかったか、あなたはご存じです。」よくわかる。僕はそういうベアトリーチェ的な存在に向かって全意識を集中して魂の力でもって呼んでいた。結果的に「しるし」を持つ人が現れたのだった。その人達の言葉や行為は僕にとっての光だった。そして、その人達の声は僕の声でもあった。運命の声だった。
これからこの本を何度でも読み返すことになるだろう。
根本さんが音楽家になることを決心した50の年に、僕もあと3年ほどでなろうとしている。自分の使命や運命というものが何なのか悩んでいる。何によって自分自身に達するのか。根本さんは音楽家になろうと決心した時、ご家族や周りの友人達を含めて誰も応援してくれなかったという。それは想定外だったと。その時の孤独・ひとりの重さを想う。並大抵のことではない。。。でも、根本さんの生き方・演奏での生き様は僕にたくさんの勇気を与えてくれた。ほんとうにありがとうございます。
