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セルフマネジメントの到達点としてのフィロソフィー:前書き(シン・マネジメントの教科書)

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。

noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。火曜は「シン・マネジメント論(連載)/リーダーシップ・経営」のテーマとなります。このテーマは新しいマネジメントの教科書を作るつもりで、じっくりと書き続けたいと思っています。

なお、この連載では、マネジメントの定義について、下記のように定義しています。

マネジメントとは、自然状態で放置しておくと手に入れられない理想的な成果を得るために、人が意志を持って働きかけを行うことである。

前回の記事はこちらです。

少し余談から話を始めます。

自分が翻訳ということをある意味、仕事として認識し始めたのは2012年末から2013年にかけて、下記のツールの翻訳チェック作業をしたことがきっかけでした。

こちらはもともとイスラエルのコーチが開発したツールで、簡単に言えば、キーワードと写真がついたカードと、そのキーワードに基づいた文章がセットになったものです。

その際、翻訳の難しさと、うまく翻訳できたときの喜びとを同時に味わったことがきっかけでした。

この時、感じたことは、英語の概念を日本語に訳すときの難しさです。特に、抽象概念に関しては英語は取り扱うのが得意ですが、日本語って下手なんだなーと実感しました。

ちなみに、この時の体験がその後、国際コーチング連盟の倫理規定やコア・コンピテンシーの翻訳時にとても役に立ちました。

結論から言えば、明治時代に漢語から作られた日本語訳のものは、かなり英語のものとは意味合いが異なっているものが多い、ということです。それは当たり前といえば当たり前のことです。

文化が違えば、世界の切り取り方が違うのは当たり前ですが、言葉というのはそもそもそういう性質を持っています。ですので、言葉をそのまま日本語に訳してしまうと、文章構造上は合っているように見えるのですが、意味合いが変わってきます。

いかに、原文のニュアンスを変えずに日本語化するのか、逐語訳ではないところに翻訳の技や意味があるな、と思ったのです。

実は今、いろいろなテーマで書いているように見えるこのnoteも、実際にはこの意識を取り扱っているものも多いです。

例えば、直近では、ファンドレイジングやフィランソロピーという言葉を、募金活動や慈善活動と訳してしまっては意味が変わってしまう、という話を下記で書きました。

下記では、ドラッカーの「Integrity」を「真摯さ」と訳してしまうと、ドラッカーの意図が間違って伝わる、という話を書きました。

そして、下記の記事では、「宗教」「哲学」という訳語の意味合いと元の英語の意味合いが違う、という話を展開しています。

ここまででの話でお伝えしたいことは、我々が知らず知らずの間に思い込まされてしまったことの中に、この翻訳語の選び方の不適切さがあるのかもしれない、ということです。

今回はその実例として、philosophy という言葉について、扱ってみたいと思います。一番下に紹介した記事から抜粋しながら話を進めていきます。

一般的には、philosophy というのは「哲学」と訳されます。西周が訳したこの言葉の意味は、西洋哲学という意味でした。そしてこの訳語は初めから定着していたわけではなく、「理学」や他にも訳語があったそうです。これを東京大学の井上哲次郎が『哲学字彙』という辞書を翻訳するに当たり、正しい用語として定着させたわけです。

この時、この「哲学」という言葉に変質が起きます。西周は philosophy という語のことを、「諸学の上たる学(the science of science)」と定義していたそうですから、正しく意味を認識していたようです。しかし、その後、この「哲学」が独り歩きして、「東洋哲学」なる分野を東京大学が生み出し、結果として「哲学」は学問の一分野に落ちてしまいます。

まあ、個人的に言えば、西周が「the science of science」を「諸学の上たる学」と訳したのどうかと思います。中学生でもわかると思いますが、前置詞の自然な意味から言えば、「上」なら on だろう、とツッコミたくなります。この場合の of はどちらかというと下、もっというと根底、というような意味で、そもそものすべての科学を成り立たせている基盤のようなもの、と考えた方が良さそうです。言い方を変えれば、「科学的思考の科学」という意味になります。

ただし、こうなってくると science という言葉の概念も疑わしくなってきます。ロングマン英英辞典で philosophy と science という言葉を調べてみました。

science は、knowledge about the world, especially based on examining, testing, and proving facts だそうです。直訳すると「世界に関する知識、特に事実の検証、試験、証明に基づくもの」となります。言い方を変えると「事実の検証、試験、証明に基づいた世界に関する知識」と訳せそうです。
そして、 philosophy は、 the study of the nature and meaning of existence, truth, good and evil etc. だそうです。こちらも直訳すると「存在、真理、善悪などの本質と意味に関する研究」となります。

「科学」も「哲学」も、その原語の意味を辿れば、「学問」とか「アカデミック」とかいう意味合いはまったくありません。どちらかというと、どちらにも「研究」に近い意味合いが感じられます。

前々回のこの連載では、コミュニケーションの本質、という話をしましたが、人が生きていく上で、世界をどう認識するのか、というのはとても大事な問題です。そしてその認識を共有しようとした際に、「事実の検証、試験、証明に基づいた」という部分はとても大事になります。

science(科学)の原語は、ラテン語で「知識」「知るということ」を意味する名詞 scientia(スキエンティア)です。これは動詞のscire(知る)に由来し、14世紀の中英語で「知っている状態」を指す言葉として使われていました。もともとは「知識」「学問」全般を意味していましたが、16〜17世紀頃から実験や観察に基づく実証的な知識を指すようになりました。

Google AIによる検索結果より一部文言修正

日本語の「科学」という言葉からのイメージは、上の説明での16〜17世紀頃からの「実験や観察に基づく実証的な知識」という意味合いで、しかも「知識」よりは前半の修飾語の方に重きを置くイメージではないかと思います。しかし、実際の言葉の成り立ちから言えば、「知識」の意味合いの方が強い言葉であったことがわかります。

なぜ、同じ言葉なのに歴史を経て意味合いが変わるのか? それはその背景にある philosophy が変わったからです。先日、書いた日蓮の話を引用してみます。

日蓮にとって「南無妙法蓮華経」の唱題は、単なる信仰行為ではありませんでした。南無は帰依する、妙法は世界の法則、蓮華は因果同時・可能性を示す言葉であり、つまり「私はこの法則と因果の関係に従い、現実の可能性を最大限に活かすことを決意する」という意味でした。

https://note.com/bizknowledge/n/nb888bed0bd83

この文章では省いていますが、日蓮の教えは「災害・病・争いなどの現象を、超自然や運命ではなく、社会構造や判断基準の歪みとして捉える」ことで、現実に人がアクションすれば解決できるものとして扱うことを唱えました。これはまさに西洋で science の意味が変わったことと同じことを言っているように思えます。

では、日蓮は科学者でしょうか? いえ、宗教家です。そして宗教家というのは思想家でもあります。日本ではなぜか宗教という言葉に組織的な意味合いを含ませるイメージで言葉が普及していますが、これも religion という言葉の翻訳語としての「宗教」が変な流通をしてしまったせいです(と、言う話も前掲の記事で書きましたが、話が逸れるのでここでは説明を割愛します。)

philosophy の英語での説明をもう一度、読んでみましょう。「存在、真理、善悪などの本質と意味に関する研究」とあります。この「研究」も疑わしいので、study の本来の意味も調べてみます。

"Study"(スタディ)の語源は、ラテン語で「熱意、情熱、努力、没頭」を意味する名詞"studium"(ストゥディウム)や、動詞"studeo"(打ち込む、専念する)に由来します。単に知識を詰め込むことではなく、興味を持って自発的に「熱中する」という能動的なニュアンスが含まれています。
「勉強」との対比: 日本語の「勉強」は、かつて中国で「無理やり、嫌々ながらも力を出す」という意味で使われていたことに対し、英語の"study"は「自ら進んで情熱を燃やす」という、非常に前向きなエネルギーを含んだ言葉です。
このように、studyは本来「遊びや興味に基づいて熱中する活動」という、学問への純粋な情熱を語源に持っています。

Google AIによる検索結果より一部文言修正

こうなると、「研究」という言葉よりも「探究」とか「追求」とかの言葉の方が合っているようです。「存在、真理、善悪などの本質と意味に関する探究」となります。

この説明を援用すると、つまり日本語での「哲学者」というのは「存在、真理、善悪などの本質と意味に関する探究をする人」ということになりそうです。そしてこれは、誰か特権階級の人がやるものではなく、人が生きる上で誰しもがやることのように思えます。

さて、長い前振りをしてしまいましたが、セルフマネジメントということを考えていくと、どうしても根底にこの philosophy と science の問題にぶち当たります。どんなに難しい哲学理論を話したところで、その根底の人としての philosophy に問題があれば、それは人としてどうかという話にもなりますし、その philosophy に基づいて世界をどう見ているのか、という  science の問題が、人の言動に大きな影響を与えているのは間違いありません。

例えば、アメリカなどのビジネススクールでは、古代ギリシアの哲学者の書籍などを読むことから学問を始めるようです。なぜかこれが日本に入ってくるとインプットに意味があるような誤解もされている気もしますが、古典に触れることは、自分の中の philosophy を自覚し、確固たるものにするために行っているはずです。西洋の人は基本的に一神教的な世界観を持っているので、これはうまくいっているようです。ところが、前提として多神教的価値観のある日本人の多くは、こういうことを考えた人がいたんだねーに留まり、自分の世界観へのフィードバックとしては受け取らない傾向があるように思います。

なぜ、マネジメントには philosophy の観点が必要なのか、ということをお伝えしたいがために、 philosophy の元の意味は今の日本人の多くがイメージする「哲学」という大学の学問分野のひとつではない、ということをまずはお伝えするために、長い文章を書いてしまいました。

次回はこの話を受けて、戦略分析の大家、三品和広先生の研究が示しているマネジメントのあるべき姿について語ります。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。

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