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「自分のため」には頑張れない

未だに、「生きていくの、ダルすぎる」と思っている。別に積極的に死にたいなんて考えているわけではないが、生きていこうという気力があるわけでもなく、「何らかの事情で自分の人生がさっさと終わってくれないかなぁ」という感覚が僕の中から消えることはない。ホント、よく生きてるなと思う。

行きたい場所も食べたいものもやりたいことも特段ないし、目標も目指していることもない。「やりたくないこと」は山ほどあるが、「これがやりたくて生きてる」みたいなことはホントにないんだよなぁ。お金も、「他人に迷惑をかけずに死ぬには多少持ってないと困るよな」と思っているだけで、「お金があったらこれがしたい!」なんてことは別にない。

で、僕の今の状態は、「母親が『自分のためにご飯を作る気になれない』と思っている」みたいなのに近いような気がする。僕はもう、「自分をどうこうするため」みたいな動機で生きていくのはかなり難しいなという感じなのだ。

だから僕の主観的には、「他人のために生きている」みたいな感覚が大分強いかな。「他人のため」というか「自分を含むその時その時の『場』が良い感じに成立していてほしい」というのが、僕のあらゆる行動の動機にあるように思う。

例えば、僕は哲学カフェによく行くのだが、もはや「自分が考えていることを喋りたい」みたいな動機は僕の中にはほぼない。それよりは、「みんなが喋りやすい場を成立させたい」「錯綜しているやり取りを整理したい」なんて感覚の方が強い。「どうやったらこの『場』が上手く行くか」みたいなことが僕の中では何よりも優先されるというわけだ。

そしてもっと広い視点で捉えるなら、「僕がいる場では、誰も不快を感じないといい」とさえ考えている。会話においても、僕としては「相手が快適に喋ってくれたらそれでいい」ぐらいに思っていて、「その目的のために僕も喋る」みたいなイメージでいるのだ。なんかもう、そういう気分でいないと人生どんどん楽しくなくなっちゃうな、という感覚がある。

noteなどで映画の感想を書いたりしているのも、一応ベースにはそういう感覚がある。まあ、「文章を書くこと」は僕の唯一と言っていいぐらいの趣味なので、かなり「自分のため」でもあるのだが、ただ「それだけではここまで継続できなかったよな」とも思う。やはり、「良い作品があったら、その存在を他の人にも知らせたいし、出来れば触れてもらいたい」みたいな気持ちが多分にあるのだ。書店員時代もやはり、「僕のオススメで誰かに本が届くなら素晴らしい」という気持ちでずっと仕事をしていたので、こういう感覚がベースにあると言っていいだろう。

とはいえ、これが難しいところなのだが、「『誰かのためにしていること』が『やらなきゃいけないこと』に変わったら、途端にやりたくなくなってしまう」という性質があったりもする。自分のこういう性格がなければ、例えば仕事なんかにかなり有益だっただろうなと思うのだけど、なかなかそうはいかない。あくまでも「僕がやりたくてやっている(いつ止めてもいい)」という状態であることが重要なのであって、そこに「責任」が発生するようになったら、途端に「誰かのため」みたいな動機が機能しなくなってしまうのだ。自分でもホント、厄介な性格をしてるよなと思う。

まあ感覚としては、「祖父母が孫を可愛がる」ぐらいのスタンスで世の中と関わっていけるのが理想である。どうせ生きていないといけないっていうなら、ホント、それぐらいでいいんだよなぁ。

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