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昔書いた文章の中の自分は本当に自分なのか?

日々息を吸うように文章を書き続けているのだが、昔書いた文章を時々読み返してみると、「あ、俺ってこんなこと考えたり感じたりしてたんだなぁ」と思うことがある。僕の場合は、10年とか20年前に書いた文章も読み返せる状態で存在しているわけだが、そうなってくるとホントに「まったく別人」みたいな感覚にさえなってしまう。

まあそもそも僕には、「大学時代と今ではまったくの別人」という自覚がある。大学時代は「コミュ障寄り」の人間だったはずだが、今では「自分でも驚くぐらい人とコミュニケーションが取れる」みたいな認識でいるのだ。もう激変も激変である。先日、大学時代の1つ上の先輩に20数年ぶりに会ったのだが、その人も「俺の中の長江のイメージと全然別人なんだけど」と言っていた。まあそうだろうな。

ただ、そんな自覚があっても、自分の昔の文章を読み返すとやはり驚かされることがある。「本当に、この時の自分は実在したんだろうか?」と感じるほどだ。

とはいえ、そもそも僕は昔のことをとにかく覚えていなかったりする。小中高大学時代の記憶なんかほぼないし、20代の頃の記憶もかなり怪しい。「両親と記憶が合わない」って記事にも書いたが、「骨折」とか「歯の矯正」に関する記憶が両親と食い違ってるなんてこともあったりするぐらいだ。

まあこの点に関しては、僕は30歳ぐらいの頃に自分が「アファンタジア」だと認識したので、もはやそんなに驚きはしない。アファンタジアについては以下の記事に詳しくまとめたが、要するに「頭の中で映像を思い浮かべることが出来ない」みたいな特性のことだ。映像の記憶が基本的にまったく残らないので、昔の記憶はスパスパ忘れてしまう。

のだが、アファンタジアであろうがなかろうが「記憶」というのは結構怪しいものである。以前『錯覚の科学』という本を読んだのだが、この中で「記憶」に関する驚きの事例もいくつか紹介されていた。「選手がコーチから首を締められたと訴えたが、その時の状況を映した映像が出てきて以降も『自分の記憶ではコーチに首を締められたことは間違いない』という主張を曲げなかった」とか、「『9.11の日に何をしていましたか?』という問いを、9.11の直後と10年後にした実験で、多くの人が10年前の回答と全然違う話をした」なんて事例が載っている。

人間は「記憶」によって自己の連続性を認識しているはずだが、その「記憶」の信頼性が揺らいでいるわけで、だとすれば「かつての自分は本当に存在したのか?」みたいな問いについても考える余地はありそうだなと思う。

つい先日観た映画『花とアリス』は、「頭を打った先輩が、後輩からの嘘によって記憶喪失だと思い込まされる」というムチャクチャな設定で物語が進んでいく。ただ、確かにムチャクチャだと思ったのだが、「自分の記憶が正しい」という保証はどこにもないわけで、だからむしろ、「先輩が後輩の嘘を真に受けて『記憶喪失かもしれない』と考える」というのは、実に真摯的な態度だと言ってもいいのかもしれないと思ったりもする。

また、少し前に『遠い山なみの光』という映画を観たのだが(映画自体は僕にはちょっと上手くハマらなかった)、原作小説を書いたカズオ・イシグロが、『遠い山なみの光』を含むいくつかの作品で「人間の記憶の曖昧さ」をテーマにしているという話を聞いて、なるほどそれは面白いなと感じた。小説を含む物語の登場人物って、昔のことについて「明確に覚えている」か「あやふやにしか覚えていない」みたいなことをちゃんと自覚しているものだが、カズオ・イシグロの小説ではそうではなくて、「あやふやなんだが、本人は明確に覚えているという意識で語っている」みたいな揺らぎを描いているのだと思う。まあこの辺りは僕自身が作品から読み取ったわけではなく、他者の感想からの受け売りでしかないのだが、「そういう方が人間らしいよな」とも感じた。

こういうことを考えると「テセウスの船」のことが思い出される。「テセウスの船」というのは哲学のパラドックスとして知られるもので、「故障した船の部品を随時取り替えていき、最終的にすべての部品が元の船と置き換えられたとしても、その船は最初の船と同じと言えるか?」というものだ。

で、「人間の細胞は7年ですべて入れ替わる」みたいな話がある。まあ実際にはそう単純な話ではないようだが、「身体を構成する身体が常に入れ替わっている」というのはまあ正しい認識だと思う。となると「テセウスの船」と同じような思考を人間に当てはめることも出来るだろう。また、「脳の神経細胞は変わらない」ようなので、だとすれば「記憶は細胞の入れ替わりの影響を受けない」と考えることも出来るかもしれない。だが、「脳の神経細胞」が変化しないとしても、身体の細胞が入れ替わることで「脳への入力(刺激)」が変わったりもするだろうし、それが記憶にまったく影響しないなんてことはないんじゃないかとも思う。

「自分が自分である」ことを成り立たせているものが「記憶」しかないとして、その「記憶」が怪しいとしたら、一体「自分」というのは何によって成り立っているんだろう? と思う。

もちろん、「昔の自分は他者の中にある」みたいなことは言えるかもしれない(先述した先輩の中に、昔の僕がまだ保存されていたように)。ただ、それだって「記憶」である。結局、「記憶の信頼性」の話からは逃れられないというわけだ。そういえば、かつて同じ本屋で働いていた人に久しぶりに連絡をした際、僕が「昔こうだったよね」と彼女の言動を懐かしむことを書いたら、「それってホントに私の話ですか?」と返ってきて驚いたこともあった。僕の記憶が間違っているのか、彼女の記憶が間違っているのか。あるいは、どちらも違うのか。

さて、もしかしたら未来のテクノロジーによって「脳保存機」みたいなものが生み出されて、「その時々の『脳状態』を保存できる」みたいになっているかもしれない。そうなると例えば、「初恋の時のあの感じ」を思い出すためにその「脳保存機」にアクセスする、みたいな使い方もあり得るだろう。そういう未来がやってくるなら「記憶の信頼性」の問題は回避できるのかもしれない。

しかし今はまだそんなことは不可能だ。となると、「その時その時で文章を書いておく」みたいなことは、「記憶の信頼性」の問題を回避する有効な手段なのかなと思ったりもする。写真だと、なかなかそうはいかないだろう。「趣味の変遷」みたいな記録はできるかもしれないが。

あるいは現代で言うなら、「生成AIとのやり取りの記録」みたいなものも「過去の自分の保存方法」として機能し得るのかもしれない。というか、「生成AIが昔の自分を記憶してくれる」みたいなことが起こり得るのかな。でも生成AIに「かつてのあなたはそんなことを言いませんでした」とか言われたら、それはそれでムカつく気もする(笑)。

さて、こんな風に考えている僕自身は、果たしてちゃんと存在しているのだろうか?

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