【本(ZINE)】矢口莉子『点点(てんふたつ)』
友人が出したZINE『点点』を読んだので、感想を書いてみようと思う。これで「てんふたつ」と読む。
まずは、このZINEについての説明を作中から抜き出しておこう。
この本は不定期に発行しているZINE『点点』の1~5号に記載した内容を元に、加筆修正を行ったものを綴じている。
神奈川県の三崎、香川県の豊島を経て、現在は東京に拠点を移す。主にこの3箇所を行ったり来たりしている間に記した日記やエッセイだ。その時によって記録方法が異なるため、統一感はないがそのまま掲載する。
で、僕は彼女とは10年弱(そんなに経ってないかな?)の付き合いで、だからこの『点点』の1~5号も、リアルタイムで読んでいる。各号は、単体で感想を書くほどの分量ではなかったこともありこれまで感想的なものは書いてこなかったのだが、今回、1~5号をまとめたものが出たので、このタイミングで感想を書いてみることにした。ちなみに、本作の文章チェックを担当したのは僕で、だから巻末に僕の名前を載せてくれている。僕が読みやすいと感じるように修正の指摘をしたので当然と言えば当然だが、修正前の原稿より大分読みやすくなったなと思う。
ちなみにこれは最新号。
彼女とは、同じ書店で働く上司・部下みたいな関係から始まった。で、僕が住んでいる家と彼女の実家がたまたま同じ地域(地名を書いてもいいだろうけど、一応伏せておこう)だったことが、飲みに行くようになるきっかけじゃなかったかな(しかし、あの超巨大観光地で生まれ育ったってのはかなり特異的だなと思う)。
さて、本作中で「そうでした、私は生まれた時からひどい人見知りなのでした」とか、「この時既に微笑み人になっている私は、頭の中のほとんどを『帰りたい』が占めてしまう」と書いているように、彼女は「コミュニケーションが上手く出来ない」と自覚しているようなのだが、僕にはまったくそんな印象はなくて、だから彼女から直接そういう話を聞いたり、ZINEの記述を読んだりしていつもビックリする。あとビックリすると言えば、「友人から巻きタバコをもらって、初めてタバコというものを吸ってみた」的な記述もあって、「タバコを吸う人」ってイメージが全然なかったから驚いたなんてこともあった。
私が住んでいるこのまちの人や同じ職場で働いている人に、ZINEを読んでもらうことが、私にとって生きやすくなるなにか「手がかり」のようなものを、差し伸べてくれているような気がする。ぼんやりした印象の「リコちゃん」が作ったZINEを読んで、安心してくれる人、心配してくれる人がいて、今までとは違う影響が生まれてるなと思う。ZINEが私を知ってもらえるきっかけになる。
私も一丁前にさびしいとか思うのに口に出して言えない。
こんな風に書いている通り、彼女には「なかなか口に出せないから日記に書いて読んでもらう」みたいな意識があるようで、そういう意味でも、「直接知っている人のZINEを読むこと」の楽しさがにじみ出るなという感じはする(もちろん、彼女のことを知らない人が読んでも面白いと思う)。
で、その後彼女が三崎や豊島へと移り住んだので、機会を見つけて会いに行ったりした。三崎では彼女が管理人を務めていた「泊まれるシェアハウス」みたいなところに泊まり、豊島では民泊のおばあちゃんに許可をもらって「家飲み」みたいなこともした。彼女が働いていた豊島美術館にも行ったのだけど、超良い場所で、「彼女が働いている」ということでもない限り一生行くことはなかっただろうからホントに良い機会だったなと思う。
そんなわけで、本作中にちょろっと僕も登場したりする。それぐらいメチャクチャ近い人が書いた本なのでいつもとは大分勝手が違う感じはするが、なるべくいつも通り書いてみよう。
装丁家さんと話している時、なぜ日記を書くのかと聞かれて、私は「自分を保つため」と答えた。
『点点』をなぜ作っているのか、日記をなぜ本にして売るのかいつもわからなくなる。なぜ朝までこうして文章を書いているのかも。「なぜ?」答えるなら「伝えたい」から。「なにを?」わからない。でも、何か伝えたいから言葉にするし、考えるために文章にして本にする。そのなにかを、日記を通してうにゃうにゃ話してる。日記は話しやすい。それだけなんだけど。
僕は僕で死ぬほど文章を書いているし、その理由は確かに「自分を保つためだな」と共感するのだが、ただ同時に、彼女の日記を読みながら僕は「僕にはこういう日記は書けないなぁ」と思ったりもした。
なんというか、「日記を書くこと」は「写真を撮ること」に似ている感じがする。写真は、技術も必要だろうが、それよりも「何を切り取るか」のセンスが大事なんじゃないかと思う。つまり、「フレーム(枠)を自分で設定する」ということだ。日記を書ける人というのは、目の前の光景の中から切り取るべきフレームを見つけてシャッターを切るように、日常の時間の中から切り取るべきフレームを見つけられるのだと思う。
そして僕には、文章を書く時にそういう意識がない。僕の場合は、「既に存在するフレームの内側であれこれ書く」というスタイルだからだ。本でも映画でも美術展でも、僕が文章を書く時は概ね、「本」「映画」「美術展」といった「フレーム」が先に決まっている。もちろん、どの本を読むのか、どの映画を観るのかという選択は自分でしているのだが、それは「既存のフレームをただ選び取っているだけ」であり、「自ら切り取っている」みたいな感覚ではない。たぶん僕は、「自分でフレームを切り取る」みたいなことは苦手で、だから日記って上手く書けないし続かないのだと思う。
あともう1つ。僕はそもそも「生活」というものに全然力点を置いていなくて、だから「日記に書くようなことがない」ということもあるだろう。衣食住に興味がないし、「生活の快適さ」みたいなことにも全然関心がない。
一方彼女は、「生活」を含む「自身を取り巻く環境」に強く関心を抱いている。
久しぶりの快晴。雨風と結露の日々から解放され、それだけで心晴れやか。美術館の清掃も、いつものように水を箒で掃いて雑巾でぬぐう作業がスムーズにできると、よどんでいたものが掃き出されていく気がする。自然環境と密接な職場にいると、変化に対応する大変さはあるけど、それ以上に自然からもらえるパワーがものすごくある。それに、自然の状況によって移ろいゆく作品だからこそ、それらが交わり合う美しさは何度みても飽きない。
欲のない生活がかつてないほどできているのは、思いのほか気持ちがいい。
飲食店もスーパーもコンビニもない島では、生活を外部委託することがかなわない。日々の営みを自分自身でやるよりほかないから、今まで目を背けていた生活と向き合わざるを得なくなったのは、私にはあまりに大きな変化。島に来てからもたらされる変化が本当にたくさんある。
(移住相談をした時のこと)話を聞きながら、三崎のことを思い出していた。若い人たちがお店を開き切磋琢磨しながらまちを活気づけようとしている、というよりは、自分のためにのびのびと楽しんでいる。移住者によって新しい動きが生まれつつある、そのムーブメントはきっと近いはずだと思った。相談に乗ってもらったあと、近くの古いビルに案内してもらう。そこにはいろいろなお店が入っていて、これからおもしろくなりそうな匂いがぷんぷんする。
お昼ご飯に、道中で気になってた山小屋風のご飯処へ行ってみることにした。チキン南蛮定食とおでんひとつ。小鉢なども丁寧に作られていておいしく、疲れた身体に沁みていくのを全身で感じる。地元のおかあさまたちによって守られている食堂、大好き。
僕にはホントに、こういう「日々の生活に対する興味や実感」が全然ないので、「余計に日記って向いてないよなぁ」という感覚になるのだろう。
さて僕は、日記でこそないものの、本や映画の感想にかこつけて自分の話をべらべら書いていることもあって、彼女が日記を書き続ける中で実感しているだろう感覚については結構共感できる。
この頃の日記を読んでいると、そうだ、私はこの人たちのことをちゃんと好きで尊敬していたんだと思い出す。でも、かなしみが積み重なりすぎてしまった。
ふと思い立って一年前の日記を読んでいると、とてもつらそうな自分がそこにいた。心身ともに負った傷、近い人の別れ、恋愛という障壁、仕事の滞り。たった一年前なのかと呆気に取られる。
僕も昔書いた文章を読み返して、「そうか、この頃はこんなことを考えていたのか」なんて感じることが結構あったりするので、そういう意味でも日記というのは面白いよなと思う。また、直接的に日記のことに言及している文章ではないが、「なんてことない日。でもこういう日が、思い返した時にちょっと戻りたくなるような日になる」とも書いていて、こんな感覚になれるのも「日記を書くこと」の効用だと言えるだろう。
さて、本作で彼女は日々の様々なことについてあれこれ書いているのだが、『点点』にはメインと言えるテーマが2つあると僕は考えている。それが、「恋愛的なものに抱いてしまう違和感」と「日々の生活や今後の人生に対する悩み」である。
前者から行こう。
恋愛的に好きだという気持ちを一世一代みたいな感じで一方的に伝えるいわゆる”告白”というものがよくわからない。LINEなどで突発的にメッセージを送るみたいなのはとくに。人は対話できるんだから、すっ飛ばさないでちゃんと話そうよと思う。まったく理解ができなくてどうしたらいいのかわからず、極端な拒絶反応が出てしまう。それに伴う痛みが自分を病ませてしまうのは、もう本当にこりごりでアホらしい。べつに誰も悪いことはしてないはずなのに。私はこれをいつまで繰り返すのだろう。相手から告白されないようにする対策ばかり考えていても仕方がないし、自分から手繰り寄せていくことを知るべきなのかな。
はたから見たら、そこまで思い悩むことではないのに、なぜこんなに過剰に反応してしまうのか。恋愛目線での好意に気付くと気持ち悪さを感じてしまってことは、人との関係を築く上で恋愛感情が最初に立ち現れることが理解できないんだと思う。目的もなく会えるような、ただそこに私はいていいんだと思えるような、「でもやっぱり特別だよ」と言えるような、そんな誰かがいてくれればとはずっと思ってるんだけど。そんな人との関わりの先に恋愛関係のようなものがあればきっと受け取れるし、なければそれはそれでいい。
セクシュアリティとロマンティックは別で存在すること、それぞれがスペクトラムに存在することだけでも、早く広く認識されてほしい。みんなが恋愛したいわけじゃないってことだけでもいい。
この辺りの記述が、彼女のスタンスを分かりやすく明示したものだと言えるだろう。これらは彼女と話す際に共通の話題としてよく出てくるもので、僕自身もまた違った意味で「恋愛とは距離をおこう」と考えていたりするので、会うとよくこういう話になる。
友人が書いた『ユーハブマイワード』というエッセイを今でもたびたび思い出す。彼女が「友だちと恋人ってなにが違うの?」と、恋人を持つ友人に問うと、その友人は「恋人は、やっぱりすごく特別だよ」と返すエピソードがある。お互いの特別を共有しているなんてすごい。奇跡みたいなことがそこらじゅうで起きている。なんだかおかしく思えてくる。
「クワロマンティックの実践」は続けたいとやっぱり思う。『現代思想』の「<友情>の現在」をやっと手に入れて読んでいるのだけど、クワロマンティックの話題に触れていて、やっぱり「重要な他者」を見つけていきたいと思った。恋人云々ではなく「重要な他者」を。おんなじところをずっとぐるぐるしている。でもそうやって少しずつよくしていくしかないか。
『ユーハブマイワード』も『現代思想 <友情>の現在』も彼女に教えてもらったもので、そしてどちらも僕にぶっ刺さりまくった。別名義なのでここでは詳しく触れないが、この2作品の感想も収録したZINEを作ったぐらいだ(装丁や文字組みなどは彼女にやってもらった。彼女にちゃんと仕事を依頼したのはたぶんこれが初めてのはず)。僕は、同世代にはこういう話が通じる人が全然いなくて、むしろ年下と結構話が合う(と思っている)。彼女とは12歳違うんだったかな、結構年齢差があるが、かなり近い目線で話が出来ている(と思っている)。
”恋愛関係にしないふたり”という単位が楽で好きだしロマンティックだなと思う。クワロマンティック的なスタンスで生きることで、ひとまず自分を生きやすくすることができそうだと思ったのが一年くらい前。それができたような日だった。やっぱり私はこういうのを恋だの愛だので区別したくない。その間で揺れ動ける余地があるのを知れてうれしい。
自分の恋愛のできなさをセクシュアリティで立派な言い訳(盾)を
つくっているみたいな気持ちになるのなんなんだろう。
斜め上にいる自分による監視なのか。さいていだ!
この辺りの感覚は、特に若い世代には共感できる人がそれなりにいるんじゃないかなと思う。
また、必ずしも恋愛に限らない話として、こんな文章もあった。
なにか新しい本が読みたくて、スマホで本を探す。植本さんと滝口さんの往復書簡『さびしさについて』のタイトルに惹かれる。ひとりが例えふたりになっても、さびしさはきっとなくならない。もしかすると、また違うさびしさと付き合っていかないといけないんじゃないか。なら、3人や4人でもいいのだろうか。人は、どうやってさびしさと向き合っているのだろう。誰にだってどうしようもなくさびしい瞬間があるはず。さびしいぜちくしょう! とか言いたいね、ちくしょう。
『さびしさについて』をゆっくり読んでいる。恋愛関係のある特別な人と一緒にいるのって、どういうことなんだろう? と思うけど、やっぱり怖いなと思う。ふたり、という単位には別れがあると思ってしまう。その別れのつらさはどうしたって特別なわけで、それがものすごく怖い。なぜ人はふたりを求めるのだろう。
しかし一方で、そんな彼女は本作中で、「だからまた心と心を突き合わせながら人と関われる場を作ることができたらいいのになと、漠然と考えている」「人を通して私を知りたい、みたいな執着が常にある」「私は一対一の会話が好きすぎる」「犬島に来て改めて思ったのは、私は人の痕跡のようなものに触れるのが好きなんだなということ」などなど、「他者の存在」を強く意識するような文章を色々と書いている。二律背反というのか、自縄自縛というのか、ハリネズミのジレンマというのか、まあ色々表現のしようはあると思うが、彼女はとにかく「人と関わりたいけど関わりたくない(関われない)」みたいな感覚を常に抱いているのだ。この辺りの右往左往に共感できるという人も一定数いるだろうし、『ユーハブマイワード』『現代思想 <友情>の現在』などと併せて本書を読んでみたりすると面白いんじゃないかなと思う。
ではもう一方の「日々の生活や今後の人生に対する悩み」の方に移ろう。
僕は彼女から直接色んな話を聞いたりもしているので、色々わかった上で本書を読めるわけだが、そうではない人向けにざっくり彼女の「悩み」の全体像をまとめておくと、「デザインを仕事にしたいが、組織の中で働くのはどうにも向いていらず、とはいえ、フリーランスとしてやっていくのもまだ自信がない」みたいな感じになるだろう。彼女は、「私は社会でうまく生きることができない自分をずっと恨んできて嫌ってきて、でもどうにかしなきゃ努力しなきゃ変わらなきゃと思い続けながら生きてきた」と書いていた。僕も「社会でうまく生きることができない」の部分は結構近いのだけど、どうも彼女は僕よりもかなり大変なようで、そんな右往左往っぷりが『点点』には詰め込まれている。
知人が「他人のフィールドで働けない」と話していて、まさにそういうことだなと。「組織で働けない」と私は思っていたけど、というよりは「他人のフィールドで働くこと」が異常に下手くそだ。ベンチャーや小規模の会社って立ち上げた代表の思いが強いし近くにあるから、その人が作った小さな舞台上でともに働く意識=チーム感が一般的な組織より強い。だから、前の会社はことさらうまくいかなかったんだろうなと思う。
あるフェミニストが「組織とは半身で関わるぐらいが健全である」的な発言をしていたのを思い出す。私はそれを求めて動いているし、それがかなう働き方を少しずつ見つけ始めている。
ずっとデザイナーとして生きていくことに恐れが付きまとっていて、それはただただ自信がないから。会社でうまく振る舞えない、デザインがうまくない、デザインの知識経験がない……。その「ない」は自分で付け足してるにすぎない。私にとってグラフィックデザインは、好きとか向いてるとかではなくて、おもしろくて私が探しているのはこれだ、と思ってる。橋のように、点と点を繋げられる仕事だと信じてる。だから、ずっと向き合っていきたいし、グラフィックデザインだけにとらわれない仕事にも出合っていきたい。
本当にあの島での暮らしはあったのだろうか。たしかにあったはずで、でもすでにすごく遠い。戻ってきてから些細だけど大きな変化を感じる。自分の生き方に自信がついた、のだと思う。これってすごいことで。これまでは組織やチームに「必要とされる」生き方を選択していた。やりたいことはそのあと、と思ってた。自分のエゴをそろそろ受け入れていいみたいだ、と気づけたのは島での生活があったからだ。ひとりで働くこと・上司の顔色をうかがわずに対面する人と誠実に関われる環境で働くこと・デザインの会社や事務所経験はなくてもフリーで仕事をもらっていくこと……。そういうわがままを、やっと認めて真剣にやってみようと思えている。「必要とされる生き方」の捉え方が変わったんだと思う。上司に、組織に、ではなくて、「目の前にいる大切な人たち」に必要とされる。興味のあることをやってもないのにできない、向いてない、と諦めるのが得意じゃない。だから頭で考えずにまずやってみようとするし、だから失敗も多くなる。
そしてそういう日々の中で彼女は、「自分にとって大事なものは何なのだろう?」とあれこれ考え始めるのだ。
私はムダや不合理、わからなさを愛したいし、それをわかろうとしたい。なんでもない時間を大切にしたりしたい。それがなくなったら、多分だめな気がする。
私の内的欲求ってなんだろう。わからない。でも、私のままで、その私を認め認められて、愛を交換しながら人と関わり、見える世界をすこしでも広げていけたら。これから自分の内面とより向き合って、私の内的欲求である「私のまま」がなんなのかを見つけていきたい。
いつまで経ってもお金のことで悩んでいるけど、同時にお金がない→どうやったら稼げるか? という当たり前の考えに違和感も感じてて。お金に操られている感覚を捨てたい。
こういう感覚は僕もかなり理解できるなぁ、と思う。まあ僕の場合は、「『世間で当たり前とされていること』に従いたくない」という天邪鬼的な発想が強いってだけなんだけど。
ちなみに共感ついでに、仕事の話ではないがこんな文章も紹介しておこう。
結婚式を立派にあげて会社員で勤続5年、という社会的信頼が高い人と話すと、私はそこへの関心が本当に低いんだなと改めて思う。結婚育児マイホーム資産、遠く離れた惑星の話みたい。
いや、ホント、同感ですわ。
さて、僕自身は人生の中で、「どんな仕事をするか」「どんな風に生きていくか」みたいなことを真剣に考えたことがホントになくて、仕事も、仕事に伴って住む場所も、そしてそれらに付随して発生する生活も、「自分の意志とは言えないようなもの」によって決まっていったなぁという感じだった。43歳になった今、ざっくり自分の人生を振り返ってみても、「ホントによくこんなテキトーな生き方でやってこれたものだ」と感心する。そんなわけで、彼女の「日常」に組み込まれている「どう生きるべきかの思考」的なものが僕には全然ない。だから「大変だな」と感じるのと同時に、こんな風に人生に対して真剣になれることに羨ましさを感じる部分もある。彼女のような真剣が少しでも僕の中にあったら、もう少し違った人生を歩んでいた気もするんだけどなぁ、と思ったり。
今は「応えていく準備」をしているのかもしれない。他者や社会から与えられるものに応えていくために、まず個の生活や心身を育て整えているのだと思う。そして、その中で生まれてくる表現を通して、少しずつ、どう応えていけるのか探っていきたい。だから、まだもう少し時間はかかる。ゆっくり、ゆっくりでいい。
高校の部活動と、デザイナーとして最初に関わった会社での失敗は、多大なる迷惑をかけつつも今の自分に本当にたくさんの学びをもたらしてくれている。どちらにも共通しているのは、続けられなかったこと、愛を持てなかったこと、与えられたことに感謝できなかったこと。「愛を持って、続けてみること」をここで試されているんじゃないかなと思う。それは嫌な環境で意地でも続けてみるとかじゃなくて、デザインという続けたいと思えることをひとつ見つけられた気がするから、それを離さず、程よい距離に置いておくとかでもなくて、手繰り寄せて体温を伝わせながらやり続けてみることなんじゃないか。
進むべき道に悩んでいる人は、本書の記述に色々と共感できたりするんじゃないかと思う。
人は変わらないけど変わっていく。それは自分も、なのかもしれない。かつて私の中にあった人と今私の目の前にいる人。同じ人なのに変わっていく。
そんな「変化」が、「日記」という形で可視化されている。そういう面白さが、本書からは感じられるんじゃないかな。
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