私の哲学・音楽嗜好、文章読解力の原点、あるいは恩師村瀬孝雄との不思議な師弟関係について
これはX上で理系の知り合いの学者さんに向けて書いたコメントの完全転載です。
恩師の奥様、村瀬嘉代子先生については、何記事か書いていますので、恩師村瀬孝雄との日常について公表してみるのも悪くないかと。
かなり自慢話的ナルシスティックな文章に感じる方もあるかもしれませんが、上の世代の関東の「フォーカシング業界人」にはよく知られている事実をありのままに書いただけです。
こういう立場に立たされた人間は実は壮絶にストレスフルで孤独な生き方をするしかなく、「よく壊れてはしまわなかったね」の域だろうことを、ご想像いただければ。
恐らく私が苦手なのは、マクロ経済学だけかと思います。
これだけは、詳しい人に良いとされる入門書紹介されても、なかなか頭に入りません。
この領域だけは、いい先生に講義を受け、質問しながらでないと習得無理かも。
マルクスは、読み出したら嵌りそうとわかってるので一冊も手を出してません。
近代経済学系は、例えばアダム・スミスの「見えざる手」論とか私は結構嵌りそうな予感がしてまして、いずれ本人の本を読んでみようかと。
概して私は解説書の類をまるで読まず、いきなり原典に挑む派です。
その方が実は先入観なく、素直に理解できる気がしています。
どんな専門的学術語も、命名者にとっては日常語の借用(メタファー的使用)に過ぎないわけで、教科書的知識がなければないほど著者の思考体系(inner frame of reference)の中に素直に入り込める気がします。
もっともこれは、いつも書くように、幼少時にブリタニカ百科事典飽きるまで繰り返しテキトーに読み進む、フィクションほとんど「読書」してないという、非常に理系的な論理性(カント的に言えばklar und deutlichな読解力)の産物かと。
主観的な自分個人の好き嫌いによる「感想」で判断しないのが当たりまえ、という日本の国語科の「感想文」主義へのアンチみたいな在り方(この点では国語教師には意外と評判悪くて。業者テストではダントツの学年1を中高時代続けましたが)というスタイル生みました。
数学は二元連立方程式止まり、三角関数まるでわかんない劣等生で、赤点しか取れず、レポートでお目こぼしいただけねば進級できていないというレヴェルで、明らかに学習障害でしたが、数学者「についての」本を読むのは楽しくて仕方ないです。
大学哲学科ではカントやハイデッガーの原典購読楽しかったですが、ゼミに選んだのは記号論理学で、ゼミの先生には私の発想に驚いていただきずいぶん可愛がっていただきました(後期ウィトゲンシュタイン的「自然言語学派」的発想を愛しました)から、やはり「ベースはむしろ理系脳」仮説(笑)は捨てがたいですね。
私:
「ウシ」という言葉と、生きている牛の個体には、実は何のつながりもない、と気づいたんですよ。
仮に「ウマ」という言葉に置き換えたって、牛さん自体にとっては、何も影響与えないわけで。
ゼミ教授:
(ビールの入ったコップを掲げ、天を仰いで)・・・俺も、若い頃は尖んがってたんだがな。東大から法政に来て、教授している今の俺なんて、抜け殻、だよ、抜け殻。
これが私の、大学院で心理学を専門に学ぶ前の段階で、ジェンドリンの体験過程理論を独学なのに訳者の先生方より正確に理解していて、私が翻訳書の「わかりにくい」と思った部分は、原典にあたると「全部」実は誤訳だった!という、大学院に入った時点で「フォーカシング業界の伝説的存在」という、自分でも「困った困った!(星野アイ)」のburden背負う、プライドある既成研究者の嫉妬にもさらされる孤独な茨の道を歩み出すことになります。
恩師の村瀬孝雄は心理業界では翻訳の天才と言われていて、だからこそ旧来の心理療法理論の「ニュートンからアインシュタインへのコペルニクス的転換」的革命性があり、新しい訳語をたくさん創出せねばならない「体験過程理論」の訳業ができたのですが、それでも翻訳ミス、肝心なところであったりしたのですね。
人格変化の一理論(A Theory of Personarity Change 1964,Eugen Gendlin)
https://focusing.org/gendlin/docs/gol_2145.html

👆この本に、ジェンドリンの体験過程理論の原典「人格変化の一理論」は現在収録されています。
旧村瀬訳(「体験過程と心理療法」ナツメ社 所収)を下地にはしていますが、ジェンドリンの直弟子である池見陽先生、そして翻訳の天才、日笠摩子さん等の監修もあり、訳文は「かなり」改善されています。
しかし私は、四日市の藤嶽大安氏を始めとするフォーカシング・トレーナ3名と、月一度四日市で、ジェンドリンの原文、旧村瀬訳、池見監修新訳を一日2,3ページも進まない超スローペースで、何と7年かけて読み合せる読書会を続けました。
その結果は、池見監修新訳の旧村瀬訳からの改善度は約50%という結論になりました。
実は、特にこの論文におけるジェンドリンは、オーストリアからの亡命ユダヤ人として「ドイツ語で考えて、脳内で英語に翻訳する」プロセスを経ていたというのが、私の推測です。
ですから、ドイツ語では格変化があるのでやすやすと可能な、主語と目的語の倒置(逆配置)、動名詞(…ung)、動詞の名詞化、接続法(仮定法)の駆使、関係節での長大な挿入を用いる「枠構造」などをジェンドリンが平然と英語で使っているという問題に直面します。
つまり、頭の中で原文の英語をドイツ語変換してそれを日本語に翻訳する、という、とんでもないことをしないと、この論文は、実は「読みづらくなる」のです。
第2外国語とはいえ、母校法政の著名な関口存男式の実践的ドイツ語習得を直接関口氏のご子息から受け、カントの「純粋理性批判」とハイデッガーの「存在と時間」を原典購読した私の「哲学科」+「ドイツ語」キャリアは、恩師にもないもので、池見先生や日笠さんもドイツ語は習得されていないと思います。
すでに「プロセスモデル」という発展形で、ジェンドリン哲学は晩年に集大成されましたが、この「人格変化の一理論」が体験過程理論の原典であるという歴史的意味は失われないと思います。
ですから、大学院入学前、心理の専門教育も受けず現場も知らない私が当時誤訳だらけだと訳者の恩師に指摘できた貢献度を認めていただいて、再度の抜本的新訳(基本術語は旧村瀬訳で定訳が定まっているので今さらいじるつもりはまるでないですし、むしろ「いじってはならない」と思います)のメンバーに加えていただければ幸いです。
でも恩師村瀬孝雄は無茶謙虚で誠実な先生で、私の「講釈」をいつも楽しそうに聴き、「こんな論文あるけど?」と英語の最新論文次々渡してくれ、私がワープロで全文訳すと、喜んで読んで感想くれて議論しました。
ほんとうにわけのわからない「師弟関係」。
遂には、各大学ごと研究会がバラバラで、互いに相手の手の内をけん制してばかりだった、フォーカシング研究・実践者の統合の発起人としてひとり旗を振り、「日本フォーカシング協会」の会長に自ら就任、不幸にして、難病、胚細胞がボロボロになっていく「間質性肺炎」で呼吸が衰えていき、酸素ボンベをひきずるようになり、死期を察した時点で、孝雄先生は、
「私は残りの人生をフォーカシングに捧げる」
と自ら宣言する、壮絶な晩年5年間に入ります。
しかし、恩師のフォーカシング理解には最後まで問題があることは、私と共に恩師に引き立てられた2人、合計「関東4羽ガラス」という新興勢力・・・ひとりは現場カウンセリングの実力者の私の直接の先輩、ひとりは東大大学院博士後期満期中退の良家の才女、完全バイリンガルで恩師すら超える翻訳の超天才、そしてニューヨークに長く留まり本国講師から学んだ資格認定トレーニング技術を初級から上級まで正確かつ完璧に日本語で再現できる・・・ご本人は「私にはオリジナリティなんてない」というお悩みになりましたが・・・の2人と私は「ほんとはまちがってるよね」と、恩師の学会発表(呼吸装置付けてですから、壮絶な光景で口出しできず)をフロアで聴きながら、こっそり影で言いあってましたが。
👆この4人による、記念碑的共著。
4人で読み合せながらの、ほんとうの「共同執筆」です。
現在でも、あまりに先駆的で、魅力は衰えていないと自負します。
神田橋條治先生に、確か「精神医学研究」誌に、「檄文」といっていい書評をいただきました。
阿世賀のコメント
あと、ピタゴラスが言う如く、「音楽も数学」的感覚、どこか持ってますね。
だからバッハや、バルトークやストラヴィンスキー的な、計算ずくの複雑でメカニカルな音楽、大好きです。
マーラーとかのスーパーロマンティック、シュ―ベルトやシューマンのドイツリート、ショスタコーヴィチの皮肉に満ちた体制への抵抗も好きですけどね。
