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魏志倭人伝の旁国を探る(中)「旁国=東鯷人」説の検討

漢書地理志に登場する東鯷人

漢書地理志の燕地[えん・ち]条には、倭人について書かれた有名な記述があります。実は、呉地/吳地[ご・ち]条にもよく似た記述があります。

 原文
▶(燕地)樂浪海中有倭人, 分為百餘國, 以歲時來獻見云
▶(呉地/吳地)會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云
現代語訳(仮訳)
▶(燕地)楽浪[らくろう]郡の海の中に倭人がいて、百余国に分かれている。定期的にやってきて献上したと伝えられる
▶(呉地/吳地)会稽[かいけい]郡の海の外に東鯷人[とうていじん]がいて、二十余国に分かれている。定期的にやってきて献上したと伝えられる

原文:維基文庫 漢書 巻28(地理志第八)

※燕地:古代中国の東北部(北京から遼東半島・朝鮮半島北部にかけて)
※呉地/吳地:古代中国の江南地方(長江下流域)
維基文庫では「吳地」と記載

朝鮮半島の海の向こうには倭人の100余国があり、江南地方の海の向こうには東鯷人[とうていじん]の20余国があるというのです。前漢(前206~8年)の時代ですから、弥生中期(前2~前1世紀)のことになります。

日本語学者の森博達[ひろみち]さん(京都産業大学)は、魏志倭人伝の旁国21ヶ国は、呉地条に登場する東鯷人20余国を指すのではないかという説を提唱しています(森博達「「倭人伝」の地名と人名」(『日本の古代1:倭人の登場』、中央公論社、1985年))。

僕は森さんの「旁国=東鯷人」説に賛同します。森さんの示している根拠を僕なりに整理し、僕の考える根拠を追加して紹介します。

※トップイラスト:イラストACより(東鯷人による航海のイメージ)


「旁国=東鯷人」説の根拠

❶東鯷人20余国は具体的な数字

まず、東鯷人20余国というのは、倭人100余国という漠然とした数字に比べて、具体的です。20余国のリストがあったことが推定できます。

❷陳寿には動機があった

「旁国=東鯷人」説がにわかに信じがたいのは、たとえ20余国のリストがあったとしても、200年以上も前の情報とわかっていながら、陳寿が魏志倭人伝に引用することがあるだろうかという疑問が湧くからだと思います。200年も経てば、国の盛衰もあるでしょうし、国名も変わっている可能性が高いです。

しかし、それでも、陳寿には東鯷人を引用する動機がありました。

女王国を会稽東冶の東と推定

1つは「会稽東冶の東」です。僕がいつも述べているとおり、女王国(卑弥呼が都を置いた国)の所在地はすでに魏志倭人伝に書いてあります。

▶(倭人の)男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている
▶(中国の最初の王朝である)夏[か]の(王)少康[しょうこう]の庶子(の無余)は、会稽に封建されると…身体に入れ墨をして…(水に潜る時に)鮫龍[こうりゅう=竜の一種]の害をさけた
▶(帯方郡から女王国までの)その道程の里数を計算すると、<女王国は>会稽[かいけい]郡の東冶[とうや]県の東方にあるのだろう

現代語訳:『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)

陳寿は女王国を「会稽東冶の東」(台湾の東の海上)と推理しました。「洛陽から楽浪郡は東北5000里」「帯方郡から女王国は東南1万2000里」と単純化して、方角と里数から推理したのだと思います(2024/3/8note参照)。もちろんそれは誤解だったのですが、陳寿の中では女王国の所在地は解決していたのです。

陳寿は女王国と(漢書地理志の)東鯷人を結びつけることで、自らの推理(会稽東冶の東)に信頼性をもたせようとしたのだと思います。3世紀の西晋の知識人は、漢書地理志に登場する東鯷人を知っていたでしょう。魏志倭人伝の「旁国」と「会稽東冶の東」の記述を読んで、彼らは東鯷人のことだと、ぴんと来たはずです。

倭国を大国に脚色する

もう1つは、倭国を大国に脚色することです。これも僕がいつも述べていることです。

魏志倭人伝(三国志)は西晋で書かれました。そのため、西晋の創業者である司馬懿[しば・い]を讃える必要がありました。卑弥呼の遣使は、司馬懿が公孫氏を滅ぼすことで実現しました。司馬懿の功績です。古代中国では、使いを送ってきた国が大国であれば大国であるほど、皇帝の徳が高いと見なされました。卑弥呼の遣使はおあつらえ向きでした。

倭国を大国に脚色するために、東鯷人20余国のリストは格好の材料を提供しました。東鯷人の国名リストを引用すれば、倭国は、行程記事に登場する国々に加えて、20余国をしたがえる大国であることを印象づけられます。うがった見方ですが、倭人条の分量を増やすことにも役立ちます(魏志倭人伝は約2000字、そのうち旁国記事は約140字です)。

※さらにうがった見方をすれば、陳寿が旁国を「次有…次有…」でつなげたのも、倭人条の分量を増やすためだったと言えないでしょうか(旁国記事の約140字のうち「次有」で42字です。僕には冗長に見えます)。

❸「東鯷」と「東夷」は発音が類似

森さんは、❷の「会稽東冶の東」の記述とともに、「「東鯷」は「東夷」と酷似した音であり、その実態は倭人だったのだろう」と述べています。小学堂で検索すると、以下のとおりです。

「夷」の上古音の子音は /ʎ/ です。上表では「りぃ」と記載しましたが、「り」に軽く「ぎ」が混ざったような発音です(2026/4/15note参照)。「鯷」の上古音がわかりませんが、中古音で同じ /ʑ/ の子音をもつ「社」は上古音も /ʑ/ となっています。「鯷」も同じだとすると、上古音は「じぃ」のような発音になると思います。

「りぃ(ぎぃ)」と「じぃ」ですから、「夷」は「鯷」は発音が酷似しているとまでは言えないような気がします。ですので、❸については、僕はペンディングとします。また、東鯷人の実態が倭人だったというのは、僕は少し異なる見解を持っています((下)の記事参照)。

※小学堂については(上)の記事参照

❹旁国の漢字は上古音が主体

魏志倭人伝の国名の漢字は上古音(漢代以前の発音)で読まれた可能性が高いです。これは旁国記事の元資料が漢代に作成されたことを意味します。森さんの推定の最も重要なポイントですので、詳しく紹介します。

どうして上古音で読まれたことがわかるのかというと、「倭人語」(3世紀の古代日本語)は、「上代[じょうだい]日本語」(8世紀の古代日本語)と共通の性格をもつと考えられるにもかかわらず、国名が中古音で読まれたとすると、倭人語と上代日本語が異質なものになってしまうからです。

倭人語と上代日本語の共通点

森さんは、魏志倭人伝に使われている倭人語の漢字の発音を分析し、倭人語の特徴は上代日本語と共通の性格をもつとします。具体的には以下のような特徴を挙げています。

 ア行が語中に来ない

上代日本語は語中にア行の発音が入ることを嫌います。例えば、「たかいち」は上代日本語では「たち」になります。倭人語の国名では「28支惟国」の「惟」が語中のア行の可能性がありますが、「惟」は 「ゐ」であり、半母音が間に入ったと思われます。

 ラ行が語頭に来ない

これは現代韓国語も同じです。「李さん」は「イさん」、「盧さん」は「ノさん」と呼ばれます。倭人語の国名の漢字では、ラ行は「盧、利」ですが、どちらも語中です。

ちなみに、奈文研古代地名検索システムでは、ラ行の古代地名は以下が出てきます(「り」のみで、「ら・る・れ・ろ」はゼロです)。

  • 上総国武射[むしゃ]郡理倉[りくら]郷

  • 信濃国伊那[いな]郡☆龍市[りゅうし]郷

  • 石見国迩摩[にま]郡☆両河内[りょうごうち]郷

  • 美濃国厚見[あつみ]郡☆六條[ろくじょう]郷

これらのうち、下の3件(☆印)は西暦1000年以降の資料にもとづきます(奈文研古代地名検索システム凡例)。つまり、和名抄に掲載されている、ラ行で始まる古代地名は上総国武射郡理倉郷(現地名は不明)の1つだけになります。

※倭人語で使われている漢字のうち、「邪」「已」「惟」も、上古音の子音は先ほど述べた /ʎ/ という珍しい発音で、ラ行に近いです(2026/4/15note参照)。「12伊国」「28支国」は語中ですが、「11百支国」「25馬国」は語頭です。これについては(下)の記事で説明します。

 濁音が語頭に来ない

これも現代韓国語と同じです。魏志倭人伝の国名の漢字で濁音の可能性があるのは、以下の5字だと思います。

投:ど乙
邪:ざ、や
馬:ま、め甲、ば
台:ど乙
吾:ご甲
臣:じ

このうち、語頭に使われているのは「投」「邪」です。「邪」は中古音から(「ざ」ではなく)「や」と読むことがわかるので問題ありません。「投」ですが、邪馬台国の「台」と同じで、「と乙」を表す適当な漢字が見つからず、濁音の漢字を当てたのではないかと思います(実際は清音だった)。

中古音だとすると「オ列甲」が多すぎる

2025/6/24note2026/4/28noteで紹介したとおり、上代日本語のオ列には甲類・乙類の発音の区別がありました。

大野晋さん(元・学習院大学)の調査により、上代日本語では「オ列甲」の使用頻度が少なく、「オ列乙」の83.7%に対し、「オ列甲」は16.3%しかないことがわかっています(大野晋「音韻の変遷(1)」(『岩波講座 日本語5 音韻』、岩波書店、1977年)p185~188)。

しかも、森さんによると、「オ列乙+オ列乙」という単語は多数あるのに、「オ列甲+オ列甲」の単語は、以下の5つしかないのだそうです。「これらは擬声・擬態語か畳語[じょうご=繰り返し語]など特殊なもの」です(前掲=森博達「「倭人伝」の地名と人名」(『日本の古代1:倭人の登場』、中央公論社、1985年)p214~216)。

  • ココ(揉む音)

  • モモ(百)

  • モモ(股)

  • イトコ(愛子)

  • シノノ(濡れる様)

一方、倭人語の国名では「オ列乙」の漢字は「呼、投、台」の3つです。

※「投・台」は万葉仮名では使われていませんが、もし使われたとしたら、「ど乙」になります。

それに対し、「オ列甲」は「古、都、蘇、奴、烏」の5つあります。「オ列甲」の連続とも受け取れる国名が、以下のように4つもあります。「オ列甲」の漢字が多すぎて、これでは倭人語は上代日本語と異質なものということになってしまいます。

  • 古都国: 古(こ甲)+都(と甲)

  • 蘇奴国:  蘇(そ甲)+奴(の甲)

  • 奴蘇奴国:奴(の甲)+蘇(そ甲)+奴(の甲)

  • 烏奴国:  烏(を甲)+奴(の甲)

※「烏」(を=ワ行)は甲類・乙類の区別はありませんが、もし区分するとしたら、甲類になります(下表の音声記号参照)。

これらの漢字が「オ列甲」になるのは、すべて中古音 /u,uo/ (下表の黄色網かけ)が万葉仮名(オレンジ網かけ)で採用されたためだと思います。

これらの漢字が上古音の /a/(ア列)で読まれたとすれば、「オ列甲」の比率は下がり、「オ列甲」が連続しているという問題も解決します。

また、「奴」は、魏志倭人伝の30ヶ国中、9ヶ国に使われていて目立ちますが、「奴」のいくつかは助詞の「の」の意味で「な」と読むという安本美典[びてん]さん(邪馬台国の会主宰)の説とも整合します(僕も安本さんの説に賛同します)(2026/4/21note参照)。

いや、ちょっと待ってください。「5伊都国」の「都」は「と甲」と中古音で読まれています。これはなぜでしょうか。

僕の想像ですが、「伊都」ももともとは「いた」だったのだと思います。「いた」は倭国では「怡土」「伊覩」(「覩」の発音は「都」と同じ)などの漢字があてられ、時代とともに中古音で「いと」と読まれるようになりました。一方、「な」は「儺」「難」という漢字が当てられ、「奴」はそのまま、「な」という上古音で読まれつづけているのだと思います。

※現代でも、当てはめられた漢字によって読み方が変化することがあります。例えば、「世論」は旧字では「輿論」と書き、新字では「与論」ですが、意味がわかりにくいので「世論」という漢字が当てられました。そうしたところ、「世論」を「せろん」と誤読する人が増えています。

国名の漢字が、基本的に上古音で読まれたことは、このようにして明らかになります。旁国記事の元資料は(魏使が作成したものではなく)漢代に作られたことが推定できます。

左思の「魏都賦」:東鯷人=倭人の認識

森さんは西晋の文学者である左思[さ・し]の代表作『三都賦』[さんとふ]の中の「魏都賦」に東鯷が出てくることも紹介しています。

※「魏都賦」は漢詩ではなく、漢賦[かんふ]というジャンルです。

「魏都賦」のAIの現代語訳が名訳なので、長くなりますが引用します(東鯷は最後に出てきます)。

魏都賦
原文

▶喪亂既弭而能宴,武人歸獸而去戰。蕭斧戢柯以柙刃,虹旍攝麾以就卷。
▶斟洪範,酌典憲。觀所恒,通其變。上垂拱而司契,下緣督而自勸。
▶道來斯貴,利往則賤。囹圄寂寥,京庾流衍。
▶於時東鯷即序,西傾順軌
現代語訳
▶戦乱はすでに鎮まり、人々は安らかに宴を楽しめるようになり、武人たちは猛獣のような荒々しさを捨てて、戦場を去った。斧や鉞[まさかり]は柄を収めて刃を鞘にしまい、虹のように翻っていた軍旗も畳まれて巻き取られる
▶政治は「洪範」の大道理に基づき、制度は古来の法典をくみ取って整えられる。不変の原則を見極めつつ、時勢の変化にも通じ、上に立つ者は静かに政を執り、下の者は法に従って自らを励ます
▶道義はやって来る者を尊び、利益だけを求めて去る者は卑しいものとされる。牢獄はひっそりと静まり返り、都の穀倉には穀物があふれ流れるほどに満ちている
▶その時、東鯷は秩序に服し、西方の諸国もまた正しい道に従って帰順した

※洪範=洪範九疇[こうはん・きゅうちゅう]:模範となる9つの政治道徳

西晋によって中国統一がなり、平和が訪れたことを喜ぶ気持ちが伝わってきます。僕は最後の「東鯷即序,西傾順軌」は倭国と大月氏[だいげっし]国(西域のインド北部)の魏への遣使を指すと思います。両者はつねに比較される出来事でした。

※魏は西晋の前身です。

帯方郡から女王国までの1万2000里は、大月氏国と見合うように、つくられた数字です(2024/3/8note参照)。「魏都賦」が詠まれたのは魏志倭人伝の成立と同じ年代だと思われ、当時の西晋で、倭国と大月氏国が対比されて理解されていたことが、ここからもわかります。

「魏都賦」は、東鯷人=倭人のことではないかと疑っているようです。左思だけでなく、陳寿を含め、当時の西晋の知識人は同じように、東鯷人=倭人という認識だった可能性があります。

陳寿が魏志倭人伝に東鯷人20余国のリストを引用したのは、西晋の知識人の間では違和感はなかったのではないかと思います。

「旁国=東鯷人」説にもとづく旁国比定へ

(下)の記事では「旁国=東鯷人」説にもとづいて、僕の旁国比定を紹介します。つまり、前漢の時代に会稽郡にたどり着いた国々を推定しようというわけです。旁国は前漢代(前206年~8年)の国々になります。

前2~前1世紀の200年間に会稽郡にたどり着いた国々を記録したわけですから、記録者は何人もいたでしょうし、(上)の記事で触れた、漢字の使い方が不統一でもおかしくありません。

「旁国=東鯷人」と見なしたからといって、旁国比定が簡単になるわけではありません。むしろ、漢字の読み方を上古音に限定し、遺跡を弥生中期に限定して特定するわけですから、かえって難しくなります。ただし、女王国九州説だから旁国は九州北部とか、大和説だから本州・四国といった、しがらみはなくなります。

僕が「旁国=東鯷人」説にもとづいて、どのような根拠のもとに旁国を比定するのか、はたしてそんなことは可能なのか、楽しみにしていてください。

(最終更新2026/5/20)

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