見出し画像

魏志倭人伝の旁国を探る(下)「旁国=東鯷人=貝の道」説

旁国比定をGoogleマイマップで

早速ですが、僕の旁国比定をGoogleマイマップで紹介します。ほとんどの人が「えーっ」と驚くだろう新説です。旁国は沖縄から神戸まで広がりました。オレンジ・黄・緑のアイコンが旁国の所在地です。

※地図は枠内で自由に拡大・縮小、左右上下に移動できます。ラベルで国名を表示し、アイコンをクリックすると、読み方、古代地名、遺跡名、遺跡所在地が表示されます。Noは魏志倭人伝に登場する国名の順番です。
※旁国を3種族に分類しました。アイコンの色分けは以下のとおりです。
 オレンジ:海産族(沖縄)3ヶ国
 黄   :海洋族(九州南部・西部・四国)7ヶ国
 緑   :農耕族(九州北部・瀬戸内以東)11ヶ国
※上の地図の旁国のアイコンの位置は遺跡所在地です。
※遺跡は古代地名の域内または近隣の遺跡(域外を含む)

僕は「魏志倭人伝の旁国21ヶ国=漢書地理志の東鯷人[とうていじん]20余国=前漢代の弥生中期(前2~前1世紀)の国々」と考えました。

「旁国=東鯷人」説については(中)の記事を参照してください。

東鯷人は、前漢の時代に会稽[かいけい]郡にたどり着いた国々ですから、東シナ海を航海していたはずです。弥生早期~中期には、沖縄から九州・瀬戸内以東にかけて、南島産(沖縄・奄美産)貝輪交易の「貝の道」ができていました。東鯷人はこの「貝の道」の遺跡がふさわしいと考えました。

※会稽郡:浙江[せっこう]省紹興市など江南地方(上の地図参照)

※上図は、沖縄県埋文「総合案内」(2002年)(p7~8)からの転載です。
※記事は全部で6.8万字(400字×170枚)です。PCで閲覧することを推奨します。
※トップイラスト:イラストACより(東鯷人の3種族のイメージ)


旁国等リンク先(No順 目次)

10斯馬国   11百支国 12伊邪国 13都支国 14弥奴国 15古都国
16不呼国   17姐奴国  18對蘇国 19蘇奴国 20呼邑国
21華奴蘇 22鬼国   23為吾国 24鬼奴国 25馬邪
26躬臣国   27巴利国  28支 29烏奴国 30奴国
ーーー
31狗奴国  2對馬国~6奴国  7不弥国  8投馬国  9邪馬台国

※No:魏志倭人伝に登場する国名の順番
※太字:誤記と見なして修正した漢字(5ヶ国)
※国名の漢字:原則、新字を使うが、「対」は台湾の小学堂(古代中国語の漢字の発音が検索できるDB)で使えないので、「對」を使用
※遺跡は古代地名の域内または近隣の遺跡(域外を含む)

※この記事では、記事内へのリンク、記事外の資料・サイトへのリンク(2026年5月時点)をたくさん貼っています。固有名詞(古代地名・遺跡名・現地名など)やその読み方(ふりがな)のほか、年代などの数字もたくさん記載しています。リンクの間違いやリンク切れ、誤記等がありましたら、ご指摘をお願いします。

ゴホウラ製貝輪 福岡県諸岡B遺跡出土
(福岡市博物館展示/2023年12月撮影)

この記事の要旨

  • 魏志倭人伝の旁国21ヶ国の所在地を推定(比定)した。あわせて、「7不弥国」「8投馬国」「31狗奴国」も比定した

  • 旁国21ヶ国=漢書地理志の東鯷人20余国と考えた。旁国は前漢の時代(弥生中期=前2~前1世紀)の国々となる

  • 東鯷人は会稽郡にたどり着いた国々だから、東シナ海を航海していたはずで、南西諸島との交易(南島交易)を行っていた国々だと考えた

  • 南島交易を行っていた国々は、沖縄・奄美産の貝輪が出土した、西日本の遺跡がふさわしいと考えた。弥生早期から中期にかけて、南西諸島から九州・瀬戸内以東まで「貝の道」(貝輪交易のルート)ができていた

  • 「旁国の漢字の発音(上古音)」「古代地名(令制の国・郡・郷、駅、風土記の地名等)」「貝輪の出土した遺跡(弥生中期)」を突き合せて比定した

  • その結果、旁国21ヶ国は3種族に分類できた。それぞれ、貝輪の原産・流通・消費(使用)に分けて、「海産族」(沖縄/3ヶ国)、「海洋族」(九州南部・西部・四国/7ヶ国)、「農耕族」(九州北部・瀬戸内以東/11ヶ国)と呼ぶことにした。沖縄は古代地名が不明で、海産族3ヶ国は現在の地名・遺跡名に比定した

  • 出土人骨により、海産族・海洋族は縄文系、農耕族は渡来系の傾向が強い人々だったと考えられる。会稽郡を訪れたのは入れ墨をした縄文系の海洋族が中心であり、漢書地理志は彼らを「東鯷人」と呼び、「倭人」とは別の種族と認識したのではないか

  • 九州北部には、伊都国の領域をはじめ、貝輪が出土しない空白地帯がある

  • 貝輪交易は弥生後期にいったん衰退する。これは紀元前後の南海トラフ地震またはチリ地震による大津波の影響があるのではないか。弥生後期には、南島産貝輪を模倣した銅釧[どうくしろ]が盛行した

  • なお、旁国は前2~前1世紀の国々と考えるため、女王国九州説・大和説とは関係なく比定している

※今回の3本シリーズでは、一般的な呼び方である「邪馬台国九州説」「邪馬台国大和説」に代えて、「女王国九州説」「女王国大和説」と呼びます。
※僕は「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」を提唱しています(2025/10/1note参照)。女王国(卑弥呼が都を置いた国)と邪馬台国は別の国です。邪馬台国は大和にあったけれども、卑弥呼は邪馬台国にはいませんでした。女王国は九州(博多)にありました。重要なのは女王国の所在地であって、邪馬台国ではありません。

東鯷人=南島交易を行っていた国々

漢書地理志の東鯷人

旁国=東鯷人[とうていじん]説は、日本語学者の森博達[ひろみち]さん(京都産業大学)が提唱しました(森博達「「倭人伝」の地名と人名」(『日本の古代1:倭人の登場』、中央公論社、1985年)p181)。

(中)の記事で紹介したとおり、漢書地理志には、燕地[えん・ち]条に倭人について書かれた有名な記述があります。東鯷人は漢書地理志の呉地/吳地[ご・ち]条に登場します。

原文
▶(燕地)樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云
▶(呉地/吳地)會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云
現代語訳
▶(燕地)楽浪郡の海の中に倭人がいて、百余国に分かれている。毎年決まった時期に(定期的に)やってきて献上したと伝えられる
▶(呉地/吳地)会稽[かいけい]郡の海の外に東鯷人がいて、二十余国に分かれている。毎年決まった時期に(定期的に)やってきて献上したと伝えられる

原文:維基文庫 漢書地理志巻28

※燕地:古代中国の東北部(北京から遼東半島・朝鮮半島北部にかけて)
※呉地/吳地:古代中国の江南地方(長江下流域)
維基文庫では「吳地」と記載

※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。

東鯷人は会稽郡にたどり着き、会稽郡に国名が伝わった国々です。会稽郡は浙江[せっこう]省紹興市を中心とする地域で、奄美大島の西約800kmにあります。東鯷人は会稽郡の海の向こうにいるというのですから、南西諸島などを指すのは自然です。

東鯷人は東シナ海を航海していたはずで、僕は、南西諸島との交易(南島交易)を行っていた西日本の国々と考えました。南西諸島の国々そのものも含みます。

東鯷人と「貝の道」

南島交易の主要な取引品は、沖縄本島周辺や奄美大島で採れるゴホウラやイモガイ製の貝輪です(貝輪の原貝・粗加工品・完成品)。貝輪の出土した遺跡は南島交易を行っていた国々であり、東鯷人にふさわしいと考えました。弥生早期から中期にかけて、南西諸島から九州北部・瀬戸内・出雲まで「貝の道」ができていました。

※南島産貝輪は、はるか遠く、北海道(有珠モシリ遺跡=伊達市)でも出土していて驚きです。

簡単にいうと、「旁国=東鯷人」は「貝の道」の遺跡の国々と考えました。前漢の会稽郡では、東鯷人20余国は「遠絶」(遠く隔たっている)と記録され(「遠絶」としか記録できず)、その記録を参照した陳寿がそのまま魏志倭人伝に「旁国は遠絶」と記述したのだと思います。

問題は、旁国の漢字の発音が「貝の道」の遺跡所在地の古代地名と結びつくかです。みごとに、とはいきませんでしたが、ああでもない、こうでもないと、いろいろ考えて、すべて結びつけることができました。

【コラム】「以歲時來」は事実か?

ところで、漢書地理志は「以歲時來」(歳時をもって来たり)、つまり、「東鯷人は毎年決まった時期に(定期的に)やってきた」と記述しています。ただ、倭人が楽浪郡を訪れることとは異なり、東鯷人が「会稽郡に定期的にやってきた」というのは、僕は誇大表現だと思います。その根拠は以下のとおりです。

  • 九州北部から朝鮮半島への航海に比べ、東シナ海の航海は黒潮を横切る必要があり、当時の丸木舟(または準構造船)では大きな困難が伴った(いい潮と風の期間が毎年あるとは限らなかった)

  • 「定期的にやってきた」と記述したのは、皇帝の徳が高く、周辺の種族が従属していることを印象づける意図が想定される

  • 3世紀の卑弥呼や台与も、毎年遣使していたわけではない

  • 弥生中期に中国系遺物が出土するのは、九州北部にほぼ限定される(九州北部の国々は楽浪郡に遣使していた)。九州北部以外では中国との交流・交易の痕跡がほとんどない

例えば、前漢鏡は九州北部以外では山口県で完形鏡、兵庫県・大阪府・奈良県・滋賀県で破鏡の5例が知られていますが、いずれも流入・使用年代は弥生後期以降だと推定できます(唐古・鍵支援隊会報「からこかぎ第23号」(2018年)p1最下部、守山弥生遺跡研究会「下鈎[しもまがり]遺跡」、辻田淳一郎『鏡の古代史』(角川選書、2019年)第1章 p54)。

いくら東シナ海の航海に長けた東鯷人であっても、「定期的に」会稽郡に遣使することはなかったと思います。僕の想像ですが、東鯷人が会稽郡にたどり着いたのは、会稽郡を目的地とした「遣使」ではなく、南島交易で航海中の江南地方への「漂着」がほとんどだったのではないでしょうか。それを漢書地理志は「遣使」であるかのように脚色したのだと思います。

※ただし、中国と南西諸島との間で、直接ルートの交易が行われていた可能性もゼロではありません。沖縄県久米島(大原貝塚)では前漢の五銖銭[ごしゅせん]が出土しています(いつどのように入手したかは不明です)。また、水田稲作の伝来ルートは、通説の朝鮮半島ルートだけではなく、江南からの直接ルートもあったのではないかという説もあります(佐藤洋一郎『米の日本史』(中公新書、2020年))(2023/3/8note参照)。

比定の具体的ルール:遺跡を重視

さて、僕の旁国比定ですが、具体的には以下のようなルール(条件)で、旁国を古代地名と遺跡に比定していきました。

※旁国の国名は、魏志倭人伝に登場した順番にNoをつけて記載します。

誤記

➊旁国の漢字の誤記はありうるものとする(以下の5ヶ国で想定)
(上)の記事参照)

発音

➋国名の漢字は上古音で読む。小学堂で調査が必須。
漢字は「オ列甲」の連続は認めない((中)の記事参照)。

➌国名と古代地名の漢字の甲類・乙類は一致させる。
※甲類・乙類の一致は、僕は絶対的条件ではないと思っていますが、結果的に今回の比定ではすべて一致しました。

➍以下の漢字の読み方(それぞれnoteの個別記事参照)

➎漢字表記が省略されている発音があるものとする(語中・語尾)。
(行程記事での例)2對馬国=ツマ、4末盧国=マラ、7不弥国=ホ
(旁国の例)13都支国=タチ、16不呼国=フカ、など13ヶ国

➏「奴」のいくつかは、助詞の「の」の意味で使われていると見なす。
19蘇21華蘇伎国24鬼  2026/4/21note

古代地名

奈文研古代地名検索システムなどで古代地名を調査することが必須。
九州・四国・本州は、令制の国・郡・郷、県・駅等の名称、または記紀・風土記等に登場する地名とする。
(例外)16不呼国(壱岐の「深江村」は古代地名ではないが、室町時代までさかのぼれることを確認)

※令制[りょうせい]:8世紀に施行された大宝令や養老令に基づく制度。具体的には、10世紀(平安中期)に編さんされた和名類聚抄[わみょうるいじゅしょう=和名抄](巻五~九)に国・郡・郷名等が掲載されていて、奈文研古代地名検索システムで検索できる。現代よりは古代にさかのぼった地名が確認できる。

➑沖縄は古代地名が調べられないので、現在の地名や遺跡名を採用する。

※ただし、琉球祖語(現在の沖縄各地の言語(方言)の祖語)は9世紀前後に南西諸島に入り、在来の言語に置き換わったと言われています(末尾の「今後の課題/日琉祖語の活用」参照)。

➒旁国記事の21ヶ国の中には、行程記事の8カ国との重複があるものとする。それぞれの年代の有力国だから、重複があると考えるのが自然である。国名は同じこともあれば、異なることもある。

遺跡

➓南島産貝輪(原貝・粗加工品・完成品)の出土した遺跡とする。

⓫遺跡は、比定した古代地名(国・郡・郷等)の域内または近隣の遺跡とする(域外の遺跡を含む)。古代の国の領域は厳格なものではなかったと思われ、域外であっても、近隣の遺跡であれば問題ないと判断する(祭政分離も想定)。

⓬年代が弥生中期の遺跡とする(前2~前1世紀:以下の条件)。

  • 貝殻・貝輪または人骨の炭素14年代測定で、較正年代が誤差を含め「前200~0年」にかかる

  • 報告書等の公的資料で「弥生中期」と記載されている

  • 貝輪は弥生前期でも、遺跡が中期まで継続していれば可とする

上記ルールの特徴(独自性)

以下は他の説にはない、独自のルールだと思います。

➋国名の漢字は上古音で読みます。「旁国=東鯷人」だからではなく、上古音で読まないと倭人語が上代日本語とは異質なものになってしまうからです((中)の記事参照)。

※倭人語:3世紀の古代日本語(魏志倭人伝で使われた古代日本語)
 上代日本語:8世紀(奈良時代)の古代日本語

➍「支=ち」「邪=ら」「姐=つ」と限定して読みます。上古音を忠実に再現すれば、これらの発音になることには自信をもっています。今回の検討の成果です。今回はこれらの上古音の発音が、そのまま倭人語の発音だったと仮定して、古代地名を調査します。

➓⓫⓬遺跡を重視します。行程記事の「2對馬国~6奴国」は、行程記事があること(順番どおりに並んでいること)、発音が類似すること、それぞれ有力な遺跡があること、という三位一体の根拠があり、確度の高い比定になっています。

(上)の記事で述べたとおり、旁国には行程記事はなく、記述の順番は所在地とは無関係です。発音だけでは根拠は薄弱で、確度は低いと言わざるをえません。有力な遺跡があることで、初めて議論できるレベルになります。それでも確度が高いとは言えません。

僕は女王国(卑弥呼が都を置いた国)や邪馬台国も、現段階では、所在地の結論は出ないと思っています。ましてや、旁国の所在地の結論が出ることはありえません。それでも、少しでも確度を高めるために、僕の旁国比定では、発音ももちろんですが、遺跡を重視し、かなりの説明を割いています。

東鯷人は3種族

比定の結果、旁国は3種族に分類できました。貝輪の原産・流通・消費(使用)に分けて、それぞれ、「海産族」「海洋族」「農耕族」と名前をつけました。

※「海洋族」はよく目にする「海人[あま]族」「海人ネットワーク」でもいいのですが、貝輪交易に限定しているため、新しい名前にしました。
※海洋族は、貝輪交易の始まった当初は貝輪の消費地でした(木下尚子「弥生貝交易の中継地:鹿児島県高橋貝塚のゴホウラ分析から」(歴博研究報告第237集、2022年)p87)。
※ですので、この3種族の分類は、あくまでわかりやすくイメージするための名前です。海産族が原貝の採集だけ、海洋族が貝輪の流通だけ、農耕族が消費だけをしていたわけではありません。

  • 海産族(沖縄):3ヶ国

  • 海洋族(九州南部・西部・四国):7ヶ国

  • 農耕族(九州北部・瀬戸内以東):11ヶ国

この3種族または21の旁国の中にも、階層、序列、競合があったでしょう。ただ、ゴホウラ、イモガイなどの南島産貝は希少資源であり、沖縄の海産族が貝輪交易において従属的だったわけではないと思います。

木下尚子氏『南島貝文化の研究』

南島産貝輪の集成

上記でも触れましたが、貝輪交易と遺跡については、木下尚子さん(熊本大学)の著書・論文が詳しいです。木下さんは貝輪研究の第一人者で、著書『南島貝文化の研究』(法政大学出版局、1996年)は576頁の大著です。51遺跡から出土した南島産貝輪の集成も行われています。近年は貝殻の炭素14年代測定にも取り組み、実年代を明らかにしたうえでの考察を行っていて、考古学の望ましいあり方だと思います。

本書の p535 には「貝の道 模式図」が掲載されています。木下さんが「南海産貝輪交易の前半の情況を、いくつかの推定と想像を交えて示してみた」もので、とてもわかりやすいです。沖縄県埋文企画展「原始人の知恵と工夫」(2008年)資料 p14に掲載されています。

※僕の「海産国」「海洋族」「農耕族」は、木下さんの模式図にある「南島人」「西北九州人」「北部九州人」に対応します。

貝輪交易の全体像(年代別動向)

木下さんの論文「貝殻集積からみた先史時代の貝交易(2):2019年の炭素14年代測定結果をもとに」(歴博館研究報告第229集、2021年)をもとに、南島産貝輪交易の全体像(年代ごとの動向)を下表にまとめました。

僕が「旁国=東鯷人」と考える前2~前1世紀(グリーン網かけ)は、木下さんのC期(貝輪交易の最盛期)とD期(衰退期)前半に当たります(ブルー網かけ)。僕は木下さんの示す「弥生中期」(歴博の見解)の後半を「旁国=東鯷人」の年代と見なしていることになります。

木下さんは「弥生中期を通して膨大な数の貝殻が琉球列島を北上することになる」と述べており(「弥生貝交易の中継地:鹿児島県高橋貝塚のゴホウラ分析から」(歴博研究報告第237集、2022年)p86)、それだけ南西諸島への航海も多く、会稽郡にたどり着く機会も増えたことが推定されます。

D期に貝輪交易がいったん急速に衰退に向かい、沖縄で貝殻集積が見られなくなるのが、グレーの年代です。僕は紀元前後に南海トラフ地震津波またはチリ地震津波があったのではないかと想定しています(後述)。

貝殻や人骨の炭素14年代測定

貝殻

貝殻は海水中のカルシウムイオンと炭酸イオンを取り込んで形成されます。主成分は炭酸塩=炭酸カルシウム(CaCO3)ですから、炭素を含み、貝殻は炭素14年代測定できます。知りませんでした。

ただ、海水には海洋リザーバー効果(海中の古い炭素により年代が古く出ること)があるため、炭素14年代を較正[こうせい=実年代に変換]する較正曲線は、陸上の試料で使うIntcal[イントカル]ではなく、Marine[マリン]を使います。国際標準ソフトOxCal[オクシカル]で選択できます。

※炭素14年代測定、Intcal、Oxcalについては、2023/5/26note第3章参照

人骨

人骨も、含まれているコラーゲン(たんぱく質)を試料に炭素14年代測定できます。ただし、摂取していた海産物にはやはり海洋リザーバー効果があるため、海産物寄与率を求め、IntcalとMarineの混合曲線を使います。海産物寄与率は骨の炭素・窒素安定同位体比を測定して求めます。

さらに、海洋には地域差(ΔR)[デルタアール]があり、MarineはΔRで補正する必要があります。ΔRは以下のような数値が公表されています。

坂本稔他「IntCal20 とMarine20 による「ヤポネシアゲノム」較正年代の再計算」
(歴博研究報告第237集、2022年)p179より転載

つまり、人骨の年代較正には「炭素14年代」「海産物寄与率」「地域差(ΔR)」の数値が必要となります。それぞれ誤差があり、較正年代は100年以上の幅になることが多いです。しかし、卑弥呼の年代のように10~20年単位で年代を特定する必要はなく、問題はありません。

もちろん、すべての遺跡で炭素14年代測定が行われているわけではありません。その場合は、資料(報告書等)で「弥生中期」と記載のある遺跡、または出土遺物から弥生中期と推定できる遺跡とします。

※ただ、それぞれの資料で、弥生前期・中期・後期・終末期がどの年代を指すかが、統一されているわけではないと思います。

0⃣ 旁国比定(手始めに4ヶ国)

まずは、種族の分類の表で挙げた、以下の4ヶ国を紹介します。

【凡例など】

それぞれの旁国の説明の凡例は以下のとおりです。

(候補地)

  • ①メイン候補地:第1候補地

  • ②サブ候補地:第2候補地があれば記載

  • 上記ルールにのっとらない場合(上古音にこだわらない場合など)の候補地があれば記載

(古代地名)

  • 発音から比定した、令制の国・郡・郷等です。

(主な現地名)

比定した「古代地名」の「主な現地名」(現在の地名)は、(上)の記事で紹介したとおり、以下を参照しました。ただし、「郷」に比定した場合も、所属する「郡」の郡域を記載しました。

なお、現地名の読み方(ふりがな)は、以下のサイトを参照しました。

(用語:比定する・当てはめる)

「比定する」「当てはめる」を以下のように使います。3番目の文章の表現はやや不自然で悩みましたが、「当てはめる」が一番いいと思いました。

  • 「29烏奴国」を「穴門国」に比定する

  • 「29烏奴国」を「土井ヶ浜遺跡」に比定する

  • 「土井ヶ浜遺跡」を「29烏奴国」に当てはめる

(漢字の万葉仮名・上古音・中古音での読み方)

漢字の読み方を表で提示します。読み方の出典・注記は以下のとおりですが、旁国ごとの説明では省略します。

※万葉仮名:今西浩子「万葉仮名表:私見」(横浜市立大学論叢、1995年)
 大野晋「音韻の変遷(1)」(『岩波講座 日本語5 音韻』、岩波書店、1977年)
※上古音・中古音:小学堂(台湾)で検索
※複数の系統(復元案)の中から、比較的単純な「王力」系統と複雑な「李方桂」系統を掲載
※ひらがな表記は王力系統から。正確でない場合がある。/h,x/はカ行とした
※「鬼/き乙」「投/と乙」「台/と乙」は万葉仮名ではないが、区分した場合を( )で記載

(リポジトリ(出典元)のメンテナンス)

この記事は2026/5/17に投稿予定でした。ところが、記事にたくさん引用している歴博研究報告のリポジトリ(保管サイト)が5/15からメンテナンスに入ってしまい、論文のリンク先の確認ができなくなってしまいました。

人間文化研究機構の「お知らせ」(2026/5/12)によると、歴博だけではなく、国文研、国語研、日文研、地球研、民博が同じリポジトリを利用しており(一部の国立大学も?)、一斉にメンテナンスに入ったようです。なんと、4/15から断続的に行われていたようです(僕は記事のほとんどを3月中に書き上げていたので気づきませんでした)。メンテナンス中も予備のシステムで公開が途切れないようにするなどの対策はとれなかったのでしょうか。日本の文化行政の貧しさに涙です。

メンテナンスは5/19に終了しました。論文のリンク先が変わらなかったのがせめてもの救いです(行政はサイトのリンク先を勝手に変更することがしばしばあります)。

論文のリンク先の確認が終わりましたので、投稿します。前述しましたが、リンクの間違いやリンク切れ、誤記等がありましたら、ご指摘をお願いします。

ーーー

30奴(ナ)国:奴国王と並び立った祭祀王(安徳台遺跡)

①メイン候補地

  • 旁国国名 :奴

  • 発音   :ナ

  • 古代地名 :儺県[なのあがた]、筑前国那珂郡

  • 主な現地名:(那珂郡)福岡市東区・中央区・博多区・南区、春日市、那珂川市

  • 遺跡   :安徳台遺跡

  • 遺跡所在地:福岡県那珂川市安徳

発音・儺県

「奴」は上古音で「な」と読み、日本書紀の仲哀天皇8年条の「儺県」に比定できます。宣化天皇元年条には「那津」[なのつ]、斉明天皇7年条にも「娜大津」[なのおおつ]として登場します。「儺」「那」「娜」は、奈文研古代地名検索システムでは、すべて「那珂」の異表記とされています。

奴国王墓

弥生中期の奴国の王都は須玖岡本[すぐ おかもと]遺跡です(春日市「奴国の丘歴史公園」)。明治32年(1899年)に大石の下に王墓(甕棺[かめかん]墓)が発見され、「奴国王墓」と呼ばれます(2024/1/18note参照)。

奴国王墓の被葬者は、57年に後漢から「漢委奴国王」の金印を贈られた王よりも数代前の王と考えられています(大阪府立弥生文化博物館「遺跡へ行こう/その10 奴国の王都 須玖岡本遺跡」(2018年)p3)。まさに東鯷人の年代の奴国王です。

※弥生文化博物館の「遺跡へ行こう」シリーズは漫画がおもしろいです。

安徳台遺跡

貝輪が出土したのは、近隣の安徳台遺跡(奴国王墓から東南約6km)と諸岡B遺跡(北約2km)の甕棺[かめかん]です。金隈[かねのくま]遺跡(北西約3km)でも弥生前期の貝輪が出土しています。

安徳台遺跡の2号甕棺の被葬者は(十分なDNA分析ができず)、骨格等の形質学的分析で男性と推定されています。ゴホウラ製貝輪が右腕に25個以上装着され、右肩横にも18個が重ねられて副葬されていました(合計43個)。

5号甕棺の被葬者はDNA分析で女性と判明しました。縄文系ではなく、現代日本人と類似し、すでに渡来人との混合がかなり進んでいたことがわかっています(篠田謙一・神澤秀明他「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」(歴博研究報告第219号、2020年))。

甕棺は2号→5号→8号の順に新しくなります。8号甕棺の人骨は炭素14年代測定も行われ、較正年代は「前105年~前40年」(確率68.3%)となり、奴国王墓の被葬者と同じ年代とされています(坂本稔他「IntCal20 とMarine20 による「ヤポネシアゲノム」較正年代の再計算」(歴博研究報告第237集、2022年)p181 表5)。

※奴国王墓は1899年に見つかった時の状況を1922年に調査しています。詳細な年代は特定できません。

諸岡B遺跡の貝輪は、福岡市博物館に展示されています(目次下の写真)。ゴホウラ製貝輪の様式の1つに「諸岡型」があります(他は「広田型」「金隈型」「土井ノ浜型」「立岩型」)。

奴国は貝輪交易にも参画していて、何らかのきっかけ(漂着?)で会稽郡にたどり着き、会稽郡では東鯷人しても記録され、魏志倭人伝の旁国記事にも登場したのだと思います。

祭政分離

寺沢薫さん(纒向学研究センター)は、副葬された青銅器・鉄器・玉類などから、国と王のランクを分け、奴国は「国」の連合体であり、安徳台は構成国(クニ)の1つと考えています。奴国王墓の被葬者(奴国王)は「王のなかの王」であり、安徳台遺跡の被葬者は「王」の下位の「オウ」と位置づけています(寺沢薫『弥生国家論』(敬文舎、2021年)p164 第4章)。

※上記は寺沢さんの説明を僕なりに理解して、大幅に簡略化しています。
※須玖岡本遺跡が「国」の連合体の盟主国になると思います。
『弥生国家論』 p164 第4章「部族的国家の重層性と倭国の成立」(特定個人墓の出現と「王のなかの王」/安徳台のオウ族墓とその特徴)に詳細な説明があります。

僕は寺沢さんの説明には納得できません。安徳台遺跡の王には貝輪が43個も副葬されていたにもかかわらず、評価が低すぎると思います。

貝輪は、安徳台遺跡の王が南西諸島から独自に入手したものではなく、奴国王が入手し、安徳台遺跡の王に与えたのでしょう。奴国王が自分では装着せず、構成国の1つにすぎないのに、安徳台遺跡の王に与えたというのは不自然です。

※奴国王墓から貝輪が出土したという報告はありません。

構成国の1つだったというよりは、奴国王が「執政王・軍事王」であり、安徳台遺跡の王が「祭祀王」だった、つまり、「祭政分離」だったからではないでしょうか。安徳台遺跡の王には、政治とは別の特別な役割があったのだと思います。

僕の旁国比定では、旁国の国名から令制の国・郡・郷は比定できても、遺跡の所在地が域内ではないことがあります。それは、奴国のような祭政分離があったことが想定できます。

※「30奴国」では、たまたま、須玖岡本遺跡も安徳台遺跡も、同じ那珂郡の郡域です。
※前述のとおり、奴国王墓は安徳台遺跡の2号甕棺よりも年代が新しいとされています。年代差は不明で、同時期に並立したかはわかりません。
※諸岡B遺跡や金隈遺跡など近隣の遺跡が、貝輪の消費(使用)においてどのような位置づけだったのかも気になるところです。

②サブ候補地

  • なし

ーーー

12伊邪(イランマ)国:「伊邪」が示す流求地名(木綿原貝塚)

①メイン候補地

  • 旁国国名 :伊邪

  • 発音   :イランマ←イリャ(ンマ)

  • 古代地名 :流求国

  • 主な現地名:沖縄県読谷村[よみたんそん]伊良皆[いらみな](沖縄本島)

  • 遺跡   :木綿原[もめんばる]貝塚

  • 遺跡所在地:読谷村渡具知[とぐち]

文献

まず、「伊邪」「いや」「いやく」「やく」といった古代地名の登場する、魏志倭人伝以外の文献を紹介します。僕が「旁国=東鯷人=貝の道」説を提唱する根拠の1つでもあります。

  • 翰苑[かんえん=7世紀の事典]の注記に「接西南海行一日有伊邪分国」という広志[こうし=3世紀の歴史書]逸文が引用されています(「接」は「倭」の誤記)

  • 隋書流求伝には「夷邪久国」という国名が出てきます

  • 日本書紀推古天皇24年(616年)条では「掖玖人」が帰化したとされています

※山里純一「古代日本と南島」(『沖縄研究ノート第34号』、講演配布資料、2025年)p13

これらを総合すると、広志逸文の「伊邪分国」は「伊邪久国」の誤記だと見なせると思います。「伊邪久国」は海行1日ですから屋久島を指した可能性があります。

一方、「夷邪久国」「掖玖人」は屋久島に限らず、「版図外の南の島々を漠然と指す」とされています(前掲=山里純一「古代日本と南島」(講演配布資料、2025年)p13)。「いや」「いやく」「やく」という地名は南西諸島を指すという認識が、古代中国と古代日本にあったのではないでしょうか。

※広志逸文をもう少し詳しく説明すると以下のとおりです。誤記があるために、ややこしいのですが、上段が原文で、下段(太字)が僕の解釈に基づき、誤記を修正したものです。

翰苑 広志逸文
(原文)次斯馬国 次巴百支国 次伊邪国 安接西南海行一日 有伊邪分国
(修正)次斯馬国 次巴百支国 次伊邪国 案倭西南海行一日 有伊邪

広志逸文には、「伊邪国」と「伊邪久国」が別々に出てきます。解釈が難しい記述です。僕は「案」以下は「伊邪国」の注釈であり、「伊邪国(は)案ずるに倭の西南海行一日の伊邪久国にある」と解釈します。

「伊」や「屋」は現代でも、南西諸島に特徴的な漢字だと思います。「12伊邪国」は南西諸島にふさわしい国名ではないでしょうか。

※ちなみに、屋久島では南島産貝輪の出土はありません。種子島の広田遺跡は古墳時代の貝輪が大量に出土し、注目すべき遺跡です。ただ、年代がずっと新しくなりますので、旁国=東鯷人の国ではありません。

・鹿児島県教育委員会「広田遺跡」
・鹿児島県南種子町[みなみたねちょう]「広田遺跡ミュージアム・国史跡広田遺跡公園」

発音

「邪」の上古音の発音も難しいです。発音記号では /ʎia, grjiag/ です(王力系統、李方桂系統)。/ʎ/ は現代イタリア語の「gli」(冠詞)の発音で、「り」に軽く「ぎ」が混ざったような珍しい発音です。2026/4/15noteで説明したとおり、「邪」の上古音は「りゃ→ら」のような発音になります。

「伊邪」は中古音で「いや」、万葉仮名で「いざ」「いさ」のように読まれることが多いですが、上古音では「いりゃ→いら」と読みます。

「邪」の中古音は現代のロマンス語系の言語と同じように、/jia/(や)に変化しました。それは東鯷人でも同じだったでしょう。「いりゃ→いら」という東鯷人語も、しだいに「いや」に変化し、「伊邪久国」「夷邪久国」「掖玖人」が、南西諸島を表すようになったのだと思います。

伊良皆[いらんま/いらみな]

「いりゃ→いら」は、沖縄本島の読谷村[よみたんそん]に、伊良皆[いらみな]という地名があり、比定できます。現地では「いらんま」と呼ぶようですので(読谷村しまくとぅば単語帳 ア行「イ」「イランマ」)、僕は「イランマ国」と呼びます。(んま)が省略されたと見なします。

伊良皆がどの時代までさかのぼる地名かはわかりませんが、1713年に琉球国王に提出された『琉球国由来記』(「諸事由来記」巻十四 各処祭祀三 読谷山間切)には「伊良皆」が記載されています(『定本琉球国由来記』(角川書店、1997年))。少なくとも江戸中期にはあった地名です。

伊良皆には15世紀に琉球を統一した尚巴志[しょう・はし]王之墓があります(沖縄県立博物館「静かなる森に築かれた尚巴志王之墓」(2025年))。

※しまくとぅば:島ことば、沖縄方言
※尚巴志の父が思紹[ししょう]です。思紹が明[みん]に遣使し、中山[ちゅうざん]王に封じられたたことは、2023/8/13noteで紹介しました。

木綿原[もめんばる]貝塚

伊良皆から海岸に向かって西南約3kmに、木綿原[もめんばる]貝塚があります。木綿原貝塚は南島産貝輪の拠点的な集積地です。「30奴国」が農耕族の「王のなかの王」だとしたら、「12伊邪国」は海産族の「王のなかの王」だった可能性があります。

木綿原貝塚は、木下さんの「貝殻集積からみた先史時代の貝交易(2)」p31、p36~38(歴博研究報告第229集、2021年)で詳しく紹介されています。僕なりに以下のとおり整理しました。

  • 木綿原貝塚では石棺墓などで囲まれた空間に、イモガイの貝殻7個が出土した。貝殻の集積地である

  • 木綿原貝塚はじめ沖縄からは、原貝・粗加工品が九州に輸出された

  • 貝殻集積は、輸出用の原貝・粗加工品と、木綿原で粗加工品を作るための原貝の保管施設だった

  • イモガイ貝殻(5個)の炭素14年代測定が行われ(うち2個が再計算)、うち1個の年代が「前195~前20年」(確率68.3%)の弥生中期だった

  • 貝輪の輸出は前5世紀から増えはじめ、前2世紀に最大になる

  • 炭素14年代測定により、石棺墓の人骨は前12世紀(1体)、前8~前6世紀(3体)とわかった

  • 前8世紀の人骨は九州の弥生系土器を模倣した在地土器(壺)と共伴した。供献土器の可能性が高い。壺を供献する習俗は響灘沿岸にみられる習俗であり、流求と九州北部・瀬戸内以東の交流・交易を示す

  • 嘉門[かじょう]貝塚B(浦添市/「20呼邑国」)の貝殻集積では、前8世紀(最古)のイモガイが出土。貝輪の南島交易は前8世紀(弥生早期)に始まったと見なせる

※イモガイ貝殻の炭素14年代測定の再計算は以下のとおりです(坂本稔他「IntCal20 とMarine20 による「ヤポネシアゲノム」較正年代の再計算」(歴博研究報告第237集、2022年)p177 表3))。

  • ONMB-22 2680±21BP 前565年~前385年(弥生前期)

  • ONMB-21 2379±20BP 前195年~前20年(弥生中期)

※BP:炭素14年代の単位

木綿原貝塚は、南島交易の開始期から長期にわたって、中核的な役割を果たしたのだと思います。

※ちなみに、木綿原貝塚は読谷村渡具知[とぐち」にあります「トゥグチ」は港という意味です(宮城真治『沖繩地名考』(沖縄出版、1992年)p58)。「13都支国」を(ぐ)が省略されたと見なして「と(ぐ)てぃ→とぐち」と読み、木綿原貝塚に比定することも検討しました。しかし、「都」を中古音で読むことになるため、見送りました(僕は「支」は「てぃ→ち」と読みます(2026/3/2note参照))。

②サブ候補地

  • なし

「いら」で前方一致する地名は、奈文研古代地名検索システムでは、三河国渥美郡伊良湖[いらご]郷だけです。伊良湖郷の近隣では南島産貝輪の出土はありません。

上古音にこだわらず、「邪」を中古音で「や」と読めば、以下の候補地が挙げられます。

  • 出雲国伊衣夜[いふや]神社:神社名を地名に準ずると見なします。出雲国風土記意宇郡[おうのこおり]条に記載される社[やしろ]で、現在の揖屋[いや]神社(島根県松江市東出雲町)に比定されます。北西約10kmに南島産貝輪の日本海側の東限である西川津遺跡があります(島根県埋文 しまねの遺跡発掘調査パンフ3「西川津遺跡」(2014年)p8)。西川津遺跡は「21華奴蘇伎国」に当てはめました。

  • イヤンヤ洞窟遺跡(鹿児島県奄美市):奄美大島も旁国に当てはめたいところです。笠利町のイヤンヤ洞窟遺跡ではゴホウラ製貝輪が1個出土しました(鹿児島県埋文 先史・古代の鹿児島611イヤンヤ洞窟遺跡)。「イヤンヤ」は岩屋という意味です(湯場﨑辰巳「鹿児島県の洞穴遺跡の集成」(『縄文の森から』第16号、鹿児島県埋文、2023年)p8)。古代地名に準ずると見なせますが、中古音ですので見送りました。

以下は発音からも候補地になりません。

  • ✖伊予国(愛媛県):女王国大和説で比定されることがあります。確かに、弥栄[いやさか]・弥弥「いよいよ」のような対応はありますが、地名で「や」が「よ」に変化した例は探せませんでした。今治市の阿方遺跡・片山遺跡でイモガイ製貝輪が出土していて、「13都支国」に当てはめました。

ーーー

15阿古都(アガタ)国:貝輪交易のメーカー商社(高橋貝塚)

①メイン候補地

  • 旁国国名 :阿古都←好古都(誤記)

  • 発音   :アガタ

  • 古代地名 :薩摩国吾田[あがた/あた]邑、阿多[あた]郡

  • 主な現地名:(阿多郡)鹿児島県南さつま市

  • 遺跡   :高橋貝塚・下小路[しもしょうじ]貝塚

  • 遺跡所在地:南さつま市金峰町[きんぽうちょう]高橋

遺跡

「貝の道」を語るのに、鹿児島県高橋貝塚は欠かせません。高橋貝塚は令制の薩摩国阿多[あた]郡です。高橋貝塚は弥生前期から中期はじめにかけて、沖縄と九州北部の貝輪交易の中継地として、中核的な役割を果たしました。弥生中期以降は、高橋貝塚の北西300mにある下小路[しもしょうじ]遺跡が役割を縮小して引き継いだのではないかと思います。

誤記

「好」は「阿」の誤記と見なします。「好古都」は、「好」という子音が /h/ の漢字と「古」という /k/ の漢字が、同じカ行の発音を表すのに混用されていて不自然です。「好」は誤記の可能性があると判断しました。「阿」は阿多郡の「阿」です。「好」と「阿」は偏と旁の構成が似ています。

日本書紀

奈文研古代地名検索システムでは、阿多郡に「吾田邑」[あがたむら]が併記されています。吾田邑は日本書紀に登場する地名です。有名な天孫降臨の場面です。 

日本書紀
巻第二「神代下」
さて、高皇産霊尊[タカミムスヒノミコト]は、真床追衾[まとこおうふすま=玉座を覆うフスマ)で、瓊璦杵尊[ニニギノミコト]を包んで降らせられた
▶皇孫<ニニギ>は天の磐座[いわくら]を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道をふみ分けて進み、日向の襲[そ]の高千穂の峯にお降りになった
▶<ニニギは>瘦せた不毛の地を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田国の長屋の笠狭崎[かささのみさき]にお着きになった
巻第三「神武天皇」

▶<神武>天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた
▶成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛[あひらつひめ]を娶[め]とって妃とされた。手研耳命[タギシミミノミコト]を生まれた<産まれた>

『日本書紀(上)全現代語訳』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)

※手研耳命は神武天皇崩御に際して、2代綏靖[すいぜい]天皇に殺されてしまいます。

「日向国」は、現在の宮崎県だけではなく、「当初はのちの大隅国・薩摩国を含む広域にわたって」いました(日本歴史地名大系第46巻『宮崎県の地名』(平凡社、1997年))。また、「『記紀神代』の「吾田」…の地は、薩摩国の広い地域を指した」とされています(吉田茂樹『日本古代地名事典』(新人物往来社、2001年))。

年代

高橋貝塚は、後述するとおり、木下尚子さんの論文「弥生貝交易の中継地:鹿児島県高橋貝塚のゴホウラ分析から」(歴博研究報告第237集、2022年)で詳しく紹介されています。

高橋貝塚の貝輪は炭素14年代測定により、前7~前5世紀とされています(弥生早期~前期)。貝輪交易だけでなく、狩猟と農耕が併行して行われ、縄文時代から弥生時代への移行がどのように進んだかがわかる遺跡です(鹿児島県埋文 上野縄文の森/先史・古代の鹿児島 南薩地区「187高橋遺跡」)。

下小路貝塚では、須玖式の合口甕棺から、右腕に2個のゴホウラ製貝輪をつけた人骨が出土し、1つは長径93㎝と「今までに知られたゴホウラ製貝輪で、最も大きな部類」に属します(鹿児島県埋文 上野縄文の森/先史・古代の鹿児島 南薩地区/「189下小路遺跡」)。

須玖式の甕棺ですから、下小路遺跡は弥生中期になります(国史跡吉武高木遺跡/やよいの風公園「甕棺墓群「甕棺ロード」/甕棺の変遷」)。弥生前期から中期にかけて、貝輪の中継地としての役割が縮小して、高橋貝塚から下小路貝塚に移ったのではないかと思います。

貝輪

木下さんの論文より、高橋貝塚や貝輪交易の特徴をまとめると、以下のとおりです。高橋貝塚は貝輪交易の流通にかかわっただけではなく、粗加工も行い、貝輪交易におけるメーカー商社的な機能を果たしていました。

※以下は僕の解釈も含めてまとめています。
※貝輪の製作:原貝→粗加工品→完成品とします(木下さんは「貝輪素材」という段階も提示していますが、煩雑になるので「粗加工品」に含めます)

  • 高橋貝塚からはゴホウラの貝殻177点が出土。うち貝輪完成品8点、粗加工品13点、廃材156点。原貝はない。廃材が突出して多く、高橋貝塚で実際に加工が行われたことを示す。他にオオツタノハ8点、イモガイ2点

  • 高橋貝塚では、沖縄から輸入した原貝を粗加工品にして九州北部に輸出したり、前5世紀以降は沖縄からの粗加工品を完成品にして、九州北部に輸出した

  • 福岡平野の農耕民は原貝を入手するために、沖縄との間に位置する高橋貝塚を中継地とした。農耕民は貝輪の製作方法も形状も、縄文的な九州西部の先例をほとんど継承せず、自律的な考えのもとにゴホウラを選択した

  • 高橋貝塚の稼働は前6世紀にかけて急拡大したが、前5世紀以降は沖縄で粗加工品の生産が始まり、高橋貝塚の存在価値は低下して遺跡は衰退した

貝輪の出土した遺跡は、弥生前期の九州北部では以下が知られます。高橋貝塚からこれらの遺跡に輸出された可能性があります。

  • 長崎県宇久[うく]松原遺跡(五島列島・宇久島)

  • 佐賀県大友遺跡(唐津市呼子町)

  • 福岡県金隈[かねのくま]遺跡(福岡市博多区)

  • 山口県中ノ浜遺跡(下関市豊浦町)

②サブ候補地

  • 旁国国名 :奴古都←好古都(誤記)

  • 発音   :ながた

  • 古代地名 :摂津国八部[やたべ]郡長田郷

  • 主な現地名:(八部郡)神戸市の旧・生田区以西(兵庫区、長田区、須磨区など)

  • 遺跡   :夢野河原遺跡

  • 遺跡所在地:神戸市兵庫区熊野町(または夢野町)

「好」を「奴」の誤記と見なします。字形が似ています。「ながた」と読み、長田郷(神戸市)に比定することができます。夢野河原遺跡は南島産貝輪の瀬戸内側の東限です。次の「23為吾国」に当てはめました。

上古音にこだわらなければ、以下の候補地が挙げられます。

  • 長門国(山口県):「好」を「奴」の誤記と見なし、「ながと」と読みます。土井ヶ浜遺跡(下関市)で貝輪が出土しています。「と」が中古音ですので「長門国」への比定は見送り、土井ヶ浜遺跡は「29烏奴国」に当てはめました。

  • 筑前国早良郡額田郷(福岡市):同様に「好」を「奴」の誤記と見なし、「ぬかた」と読みます。西新町遺跡(福岡市早良区)で貝輪が出土しています。「ぬ」は万葉仮名ですので「額田郷」への比定は見送りました。

ーーー

23為吾(イカワ)国:壺入りの貝輪30個神戸に(夢野河原遺跡)

①メイン候補地

  • 旁国国名 :為吾

  • 発音   :イカワ←ヰカ(ワ)

  • 古代地名 :播磨国明石郡伊川郷

  • 主な現地名:(明石郡)明石市、神戸市西区、垂水区

  • 遺跡   :夢野河原遺跡

  • 遺跡所在地:神戸市兵庫区熊野町(または夢野町)

東限

南島産貝輪が出土した、瀬戸内側の東限である夢野河原遺跡を旁国に当てはめたいと考えました。木下さんの1996年集成では、兵庫県夢野遺跡で貝輪が出土したとあります。兵庫県立人と自然の博物館のコラムでは、夢野遺跡がゴホウラ製貝輪の東限として紹介されています(ひとはく「ハーモニー16号/収蔵資料紹介」、1997年)。

ところが、「遺跡」にたどり着くまでが一苦労でした。「夢野遺跡」で検索しても、ネットには情報がありません。

「新修神戸市史 歴史編Ⅰ自然・考古」(神戸市、1989年)/第9章「神戸の遺跡」」の「河原遺跡」の項目(p575)に貝輪の記載がありました。しかし、「河原遺跡」もネットには情報がありません。

神戸市のサイトにある情報ですので、「河原遺跡」について神戸市埋文に問い合わせ、以下の論文・資料を教えてもらいました。

濱田耕作さん(元・京大総長)は「濱田青陵賞」の濱田さんです。僕は2025年受賞の岩本崇さん(島根大学)の三角縁神獣鏡=中国鏡説に疑問を述べたばかりです。

貝輪

その濱田さんの論文ということで、こんなところでお目にかかるとは感動してしまいました。100年以上前(大正10年)の文章ですが、論文はわかりやすいです。内容を僕なりに整理すると、以下のとおりです。

  • 1918年、貝輪の入った壺が、熊野神社の西に接した夢野河原で住宅建築の際、地下90㎝のところから見つかった。遺跡、墳墓からの出土ではない

  • 貝輪が壺に入って出土したのは初めて

  • 壺は高さ26㎝、口径13㎝、厚手で、薩摩、丹後、日向に類例がある

  • 貝輪は30個以上が入っていた(うち完形品5個、それに近いもの5個)。テングニシ製である

  • 貝輪は最大長径9㎝、貝貨の可能性があるのではないか

  • 年代は不明だが、金石併用時代(弥生時代)であろう

※発見当時の鑑定ではテングニシ製とされましたが、現在はゴホウラ製とされています(前掲=新修神戸市史)。
※壺は九州南部に類例があるとのことで、「15阿古都国」に当てはめた高橋貝塚・下小路貝塚から壺に入れて輸出された可能性があります。

遺跡ではない場所で偶然見つかったので、「夢野遺跡」「河原遺跡」で調べても出てこないわけです。神戸市埋文もその後調査はしていないそうです。ここでは「夢野河原遺跡」とします。

年代

貝輪は遺跡からの出土ではないので、共伴遺物はなく、年代は推定できません。貝輪の炭素14年代測定してほしいところです。貝輪の主要な消費地であった九州からは離れており、弥生前期にすでに近畿に流入していたとは考えにくく、弥生中期のものだと見なしていいと思います。木下さんの集成では「中期後半」としています。

発音

(わ)が省略されたと見なし、「いかわ」と読めば、明石郡伊川郷に比定できます。現在、神戸市西区に伊川谷[いかわだに]という地名があります。夢野河原遺跡の西約10kmです。

「為」(ゐ)と「伊」(い)は異なる発音ですが、ワ行の「ゐ」は12世紀には「い」に吸収されました(田中草大「歴史的仮名遣いとは何か?」(京大大学院講義資料、2024年)p2)。伊川郷の地名も、和名抄がつくられた10世紀には揺れていて、/w/ が省略されていた可能性はあると思います。

玉津田中遺跡と祭政分離

夢野河原遺跡は本来は遺跡とは言えません。伊川郷の近隣の弥生中期の遺跡としては、神戸市西区に、玉津田中遺跡があります。「居住域・生産域(水田)・墓域<方形周溝墓>と三拍子が揃い、広域的な交流が見られる播磨地域を代表する拠点集落」とされています(兵庫県まちづくり技術センター「玉津田中遺跡 現地説明会資料」(2020年)表紙ページ)。

玉津田中遺跡は夢野河原遺跡の西約16kmです。伊川郷は玉津田中遺跡と夢野河原遺跡のほぼ中間にあります。イカワ国は、ナ国と同じように、祭政分離で、玉津田中遺跡に「執政王」、夢野河原遺跡の近隣に貝輪を入手した「祭祀王」が並立したと考えることができると思います。

水先案内

ただし、夢野河原遺跡はもちろん、玉津田中遺跡であっても、単独ではるばる東シナ海へ航海に出たとは考えにくいです。僕は2通りのパターンを想定しています。

  • イカワ国の使者が、海洋族に同行し、原貝の原産地である沖縄を訪れていた(水先案内モデル=下図のB型)

  • 会稽郡にたどり着いた海洋族が、交流・交易関係のあるイカワ国の国名を、会稽郡に伝えた

下図のB型は、中国鏡の倭国への流入・流通における、辻田淳一郎さん(九州大学)の「水先案内モデル」と同じです(辻田淳一郎『鏡の古代史』(角川選書、2019年)p99)(2024/6/24note参照)。たとえ、近畿の国であっても、東シナ海の航海はありえたと思います。

※ちなみに、神戸市は、東部は摂津国、西部は播磨国です。玉津田中遺跡は播磨国明石郡になります。どうして2つの国にまたがる地域が1つの市になったのか、不思議です。

②サブ候補地

  • 旁国国名 :為吾

  • 発音   :うか←うぃか

  • 古代地名 :出雲国出雲郡宇賀[うか]郷

  • 主な現地名:(出雲郡)島根県出雲市口宇賀町[くちうがちょう]・奥宇賀町・斐川町[ひかわちょう]・大社町[たいしゃちょう]など

  • 遺跡   :猪目[いのめ]洞窟遺跡

  • 遺跡所在地:出雲市猪目町[いのめちょう]

「為吾」を「うぃか→うか」と読めば、出雲東部の宇賀郷に比定できます。現在も口宇賀町、奥宇賀町の地名があります。口宇賀帳からは、西谷[にしだに]墳墓群、荒神谷[こうじんだに]遺跡、加茂岩倉遺跡、出雲大社は10km内外、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土した神原[かんばら]神社古墳も東南約15kmです。

口宇賀町の西約6kmに猪目[いのめ]洞窟遺跡があります。6個のゴホウラ製貝輪を装着した男性人骨が出土しました(島根県 山陰史跡探訪「猪目洞窟遺跡」/島根県教育庁・鳥取県教委「山陰の弥生時代」(2008年)p12)。13号人骨は炭素14年代測定により「前170~前60年」(確率68.3%)の弥生中期となりました(坂本稔他「IntCal20 とMarine20 による「ヤポネシアゲノム」較正年代の再計算」(歴博研究報告第237集、2022年)p182 表5)。仮に、「23為吾国」が宇賀郷だったならば、宇賀郷の周辺は出雲西部の「執政王」の所在地であり、猪目洞窟遺跡が「祭祀王」の墓地だったと言えると思います。

しかし、猪目洞窟遺跡をはじめ出雲西部は話題が豊富なのですが、出雲は東部の「21華奴蘇伎国」を優先しました。

【コラム】石野博信氏『ひょうごの遺跡をめぐる』

「夢野遺跡」について調べていたところ、石野博信さん(元・兵庫県立考古博物館長)の著書『ひょうごの遺跡をめぐる』(神戸新聞社、2012年)の目次に「夢野河原遺跡」を見つけました。本書はAmazonでも出版元でも在庫がなく、千葉の図書館も所蔵していません。国会図書館に該当ページ(p44~48)の遠隔複写を依頼しました。

石野さんの師匠である末永雅雄さん(元・橿考研所長)が、濱田さんを神様のように慕っていて、石野さんは濱田さんの孫弟子になるのだそうです。

※末永さんは、大和盆地の前方後円墳が丘陵の傾斜変換線に立地していることを指摘しています。2023/9/4noteで紹介しました。

石野さんの著書では夢野河原遺跡について目立った情報はありませんが、兵庫県尼崎市の田能[たの]遺跡(熊野神社の東約25km)で出土した銅製腕輪も紹介しています。南島産貝輪を模倣したものです(尼崎市の指定文化財「田能遺跡出土の遺物」(2022年)白銅製釧[くしろ])。

石野さんは田能遺跡の壺棺が斜めの穴に埋納されていることから、九州北部の甕棺との類似を指摘し、田能遺跡の人々は九州から来たのではないかと推定しています。ひょっとしたら、イカワ国を訪れた海洋族が帰国せず、そのまま夢野河原に住み着いたのかもしれません。

南島産貝輪を模倣した銅製腕輪(銅釧[どうくしろ])については、後述します。

ーーー

1⃣ 旁国比定(海産族)

「12伊邪国」以外の海産族2ヶ国を紹介します。

ここから先は

46,167字 / 35画像 / 1ファイル

¥ 750

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?