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魏志倭人伝の旁国を探る(上)女王国大和説による比定は考古学と不整合

魏志倭人伝には倭人の国として30ヶ国が登場します。

  • 行程記事:8ヶ国(対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国)

  • 旁国記事:21ヶ国

  • 狗奴国の記事:1ヶ国(女王国に服属していない国)

旁国記事、狗奴国の記事は以下のとおりです。

▶女王国より北(にある国について)は、その戸数や(そこに行く)道里はだいたい記載できるが、その他の旁国は遠く隔たっており、(戸数や道里を)詳細にすることができない
▶つぎに斯馬国があり、つぎに已百支国があり、つぎに伊邪国があり、つぎに都支国があり、つぎに弥奴国があり、つぎに好古都国があり、つぎに不呼国があり、つぎに姐奴国があり、つぎに對蘇国があり、つぎに蘇奴国があり、つぎに呼邑国があり、つぎに華奴蘇奴国があり、つぎに鬼国があり、つぎに為吾国があり、つぎに鬼奴国があり、つぎに邪馬国があり、つぎに躬臣国があり、つぎに巴利国があり、つぎに支惟国があり、つぎに烏奴国があり、つぎに奴国がある
▶これが女王の(支配している)領域の尽きる所である
▶その南には狗奴国があり、男子を王とする。…この国は女王に服属していない

現代語訳:『魏志倭人伝の謎を解く』(渡邉義浩、中公新書、2012年)

※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。
※国名の漢字は原則、新字を使いますが、「対」は台湾の小学堂(古代中国語の漢字の発音が検索できるDB)で使えないので、「對」を使います。

※今回の3本シリーズでは、国名は魏志倭人伝に登場する順番に「No」をつけて、「10斯馬国」のように記載します。
※今回の3本シリーズでは、魏志倭人伝で漢字で表されている3世紀の古代日本語(国名・人名・官名)を「倭人語」と呼びます。8世紀(奈良時代)の古代日本語は「上代[じょうだい]日本語」と呼ばれています。
※トップイラスト:イラストACから改変(弥生の階層性:旁国のイメージ)


邪馬台国論争では、女王国または邪馬台国の所在地に関連して、これら旁国の所在地も専門家からアマチュアまで、たくさんの説が出されています。

僕も旁国の所在地推定(比定)に挑みました。正月から何度も何度も修正を重ね、思った以上に時間がかかりました。3本シリーズで紹介します。3月以降に投稿した発音等の関連記事6本を合わせると、字数は合計で10万字超(400字×260枚超)になりそうです。

  • 発音等の関連記事 6本:合計約2.4万字超(400字×60枚超)

  • 投稿予定の3本シリーズ:約8.0万字超(400字×200枚超)

旁国比定の方法(出典)

旁国比定は、以下のような調査・検討を組み合わせました。

①漢字の発音(読み方)の調査

魏志倭人伝の国名に使われている漢字の発音(読み方)は、以下の2つの方法で調べました。

  • その漢字の万葉仮名での読み方

  • 漢字の古代中国語の発音を、台湾の小学堂で検索

 万葉仮名

万葉仮名は上代日本語の発音を漢字で表したものです(漢字を表音文字として使った)。万葉仮名は以下の2つを参照しました。

例えば、「5伊都国」「13都支国」で使われている「都」という漢字は、万葉仮名では「と」「つ」と読まれます(濁音はとりあえず除外)。

※国名は魏志倭人伝に登場する順番に「No」をつけて記載します。
※今西さんの論文は、万葉集の万葉仮名を整理しています。PDFなので検索できて便利です。今西さんの万葉仮名表をもとに、大野さんの論考で記紀だけに出てくる万葉仮名を追加しました(例えば、「奴」の「の」「ど」や「基」の「き」という読み方は日本書紀だけに出てきます)。
※旁国の国名で使われている漢字33字のうち、万葉仮名に使われていない漢字も7字あります(投、台(臺)、好、邑、巴、惟、狗)。

 小学堂

小学堂は、台湾大学中国文学部・中央研究院歴史言語研究所・情報科学研究所・デジタル文化センターによって共同開発されたデータベースです。

検索方法は以下のとおりです。

  • 画面左側の「字形」に漢字(例えば「都」)と入力し、「確定送出」をクリック

  • 右側の「相関連結」の中の「上古音」「中古音」をクリック

検索結果は時代別、系統(復元案)別に表示されます。

  • 上古音(先秦:秦が中国を統一する前221年までの時代、両漢:前漢・後漢の時代)

  • 中古音(南北朝、魏晋、隋唐の時代)

これらの中では、先秦上古音と隋唐中古音が、古代の資料(文献)が多く、研究が進んでいます。系統(復元案)も多いです。例えば、「都」の検索結果では、下図のとおり、先秦上古音が5案、隋唐中古音が6案出てきて、魏晋代の発音は不明(子音が空欄)です(下図は一部抜き出し)。

例えば、「都」の /上古音、中古音/ は、王力系統が /ta, tu/、李方桂系統が /tag, tuo/ となっています。あえてひらがな表記すると「た」「とぅ」のようになると思います。

※音声記号は /  / で記載します。
※上古音・中古音のひらがな表記は、正確ではない場合があります。

 発音等の関連記事

発音はIPA(国際音声記号)で表されていますが、わかりにくいものは個別に調べ、3~5月にnoteに投稿しました。以下の漢字です(音声記号は王力系統の /上古音、中古音/ )。

  • 「支」: /ȶǐe, tɕǐe/「てぃ、ちぃ」 2026/3/2note

  • 「邪」: /ʎia, jǐa/「りゃ、や」 2026/4/15note

  • 「奴」:助詞の「の/な」 2026/4/21note

  • 「投」: /dɔ, dəu/ 「と乙」 2026/4/24note

  • 「好」「呼」「華」の子音: /h, x/ 「カ行」 2026/4/29note

  • 「姐」: /tsia, tsǐa/ 「つぃゃ、つぃゃ=つ」 2026/4/29note

  • 「鬼」: /kǐwəi, kǐwəi/ 「きうぇい、きうぇい=き乙」 2026/4/29note

  • 投馬国は出雲か吉備か?(テーマは発音ではありませんが関連記事です) 2026/5/6note

※上代日本語の「イ段・エ段・オ段」には甲類・乙類の2通りの発音があり、万葉仮名では書き分けられていました(2025/6/24note2026/4/28note参照)。記事では「と甲」「き乙」のように記載します。

②古代地名の調査

 奈文研古代地名検索システム

発音から古代地名は、奈文研古代地名検索データベースで調べました。和名抄(10世紀の事典)や木簡に記載された、令制[りょうせい]の国・郡・郷名や駅名などが検索できます。

※令制[りょうせい]:8世紀に施行された大宝令や養老令に基づく制度です。具体的には、10世紀(平安中期)に編さんされた和名類聚抄[わみょうるいじゅしょう=和名抄](巻五~九)に国・郡・郷名が掲載されています。現代よりは古代にさかのぼった地名が確認できます。
※奈文研古代地名検索システムの凡例(△☆などの記号の説明)

検索結果に出てくる、令制の国・郡・郷や駅だけでなく、記紀・風土記等に登場する古代地名も候補地になりえます。一部は奈文研古代地名検索システムに取り込まれています。

 郡・郷の現地名

古代地名から現地名を特定するのは難しいことが多いです。僕は以下の資料を使いました。


『日本古代史地名辞典』(雄山閣、2007年)の「郡域」の説明を参照しました。本書は「第一線の研究者75名の執筆陣により五畿七道の66国2嶋591郡を網羅/地名はできるかぎり現地名を比定して掲げ、現地名は2007年3月時点の市区町村合併に伴う行政地名表記を採用」しています。

※リンク先は「2018年版」ですが、僕は図書館で「2007年版」を参照しました。


「千年村プロジェクト」(早稲田大学 創造理工学部 建築学科・中谷礼仁研究室)のサイトを参照しました。「比定の根拠からみつける→『和名類聚抄』の郷名→都道府県を選択」して比定地を調べられます。2026年5月現在で「『和名類聚抄』記載の郷名数3986中の1977件」が登録されています。比定できている郷が約半数ということになります。

 検索例「13都支国」

「13都支国」を例に実際に奈文研古代地名検索システムで検索してみましょう。仮に「都支」を「たき」「つき」「とき」と読んだとして、それぞれ前方一致で検索すると、以下のとおり、郡名で6ヶ所、郷名で5ヶ所(合計11ヶ所)の候補地が出てきます(土岐郷は省略)。

「都」「支」は万葉仮名では「と甲」「き甲」ですので、上記の候補地のうち、甲類・乙類が一致するのは、太字の5ヶ所です。言語学的に絞り込めるのは、ここまでになります。

「13都支国」と発音が一致する古代地名

  • 美濃国多芸[たき]郡

  • 美濃国土岐[とき]郡

  • 越後国三嶋[みしま]郡多岐「たき]郷

  • 出雲国神門[かんど]郡多伎[たき]郷

  • 但馬国二方[ふたかた]郡刀岐[とき]郷

③遺跡の推定

僕は、行程記事に登場する対馬国~奴国の所在地は、通説どおりと考えています。朝鮮半島から通ってくる順番どおりに、発音が類似した地名が並び、それぞれ国と見なせる有力な遺跡が残っています。偶然とは考えられず、確度が高いです。

旁国比定も、有力な遺跡があることが条件になると思います。奈文研古代地名検索システムで候補地が挙がったら、遺跡を調べます。ただし、候補地となる国・郡・郷等の域内に限定する必要はないと考えていて、近隣まで範囲を広げても問題ないと思います。古代の行政区画は厳格なものではなかったと考えられます。そもそも郷は現地名を比定できないこともあります。

逆に有力な遺跡がある古代地名を調べて、旁国の発音と突き合わせることもあります。

【コラム】平塚川添遺跡の郡・郷は?

福岡県朝倉市平塚の「平塚川添遺跡」(リンク先はシニアネット久留米筑後「筑後川・矢部川流域 歴史探訪」)は、筑前国だったことは間違いありませんが、令制の郡・郷がわかりません。現在、近隣に「馬田」という地名があるものの、「馬田郷」は夜須郡にも朝倉郡(分割して下座[しもつ・くら]郡)にもあります。平塚川添遺跡は境界にあり、郡域は改編で移動しているのかもしれません。

※平塚川添遺跡のリンク先はシニアネット久留米筑後による紹介サイトです(平塚川添遺跡の紹介サイトとしては、一番わかりやすく網羅的だと思います)。サイトに出てくる甘木市は2006年に合併して朝倉市になりました。

どちらかの「馬田郷」だったとしても、「うまた」にそのまま当てはまる旁国の国名がありません。もっとも、邪馬台国朝倉説の安本美典[びてん]さん(邪馬台国の会主宰)にしてみれば、旁国に比定できないからこそ、平塚川添遺跡が邪馬台国だったということになるのかもしれません。

平塚川添遺跡(2020年11月撮影)

④漢字表記の省略と誤記の検討

 漢字表記の省略

行程記事の8ヶ国の中には、「對馬(ツシマ)国」の「し」、「末盧(マツラ)国」の「つ」のように、漢字で表されていない発音があります(末盧(マツラ)国は「末」の語尾の子音「t」で「つ」と読ませた可能性はあります)。

旁国の漢字の発音から、ふさわしい所在地が見つからない場合、このような漢字表記の省略を検討します。条件を厳しく、「末盧」のように語尾の子音のある場合などに限定する考え方もありますが、語尾子音では「対馬」の /s/ 説明はできません。僕は省略があるかどうかは、使われた漢字からはわからないと思います。

「ツシマ」の「シ」、「マツラ」の「ツ」は漢字表記が省略されている

 漢字の誤記

漢字表記の省略を想定してもふさわしい比定地が見つからない場合、誤記(漢字の間違い)を検討します。

魏志倭人伝には誤記が多いです。行程記事の8ヶ国には、3ヶ国も誤記があります。

  • 国→対

  • 国→一

  • 邪馬国→邪馬

「大→支」「壹→臺」は似た漢字ですが、「海→馬」のように形があまり似ていない漢字でも誤記が生じています。魏志倭人伝は12世紀に印刷本になるまで転写が繰り返され、誤記が生まれたのだと思います。

三国志を専門とする渡邉義浩さん(早稲田大学)は以下のように述べます。

▶抄本の写し手は、人間であるから間違いを犯す。それも、興味を惹かない部分は誤りやすい
▶残念ながら、倭人伝は、愛情を持って写されていなかったようである

渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書、2012年)

重要なはずの8ヶ国でさえ、3ヶ国も誤記があります。まして、国名を並べただけの旁国は、写し手の興味をひかなかったと思われます。誤記がないと考えるのはかえって不自然です。

実際、「13都支国」は12世紀の別の印刷本では「郡支国」と記述されています。「11已百支国」は翰苑[かんえん=7世紀の事典]に引用された広志[こうし=三国時代の歴史書]逸文では「巴百支国」と記述されています。「巳・己・已・巴」と、4つも似た漢字があります。

※高校の古典の授業で「巳」「已」「己」の違いを覚える歌を教えてもらいました。今でも覚えています。「11已百支国」の「已」や、古語で習う「已然形」の「已」は「半ば」です(下で止まらず、上に付きません)。小学堂でもそれぞれ検索できます(別々の漢字として区別されています)。

み(巳)は上に、
おのれ(己)、つちのと(己)、下につき、
すで(已)に、や(已)む、のみ(已)、半ばにぞつく

陳寿はどんな資料を参照したのか

旁国の漢字の発音から古代地名を検索すると、複数の候補地が挙がることがあります。先ほどの「13都支国」の例では5ヶ所の候補地が残りました。言語学的にはそこまでしか絞り込めません。

複数の候補地が挙がった場合、さらに絞り込むにはどのようにしたらいいでしょうか。

絞り込みの条件の前に、陳寿が旁国記事を書くに当たって、どのような資料を参照(引用)したのかを検討します。それによって、絞り込みの条件が変わってくるからです。

僕は旁国記事の元資料がどのように作成されたかは、以下のような3つの可能性があると思います。

  • 伊都国に滞在した魏の使者(魏使)が、旁国を調査で訪れて作成した

  • 伊都国に滞在した魏使が、倭人からヒアリングして作成した

  • 伊都国に滞在した魏使を訪ねた国々(旁国)を記録した

訪問調査やヒアリングの記録ではない

まず、魏使が旁国を調査で訪れたということはないと思います。魏志倭人伝には「(戸数や道里を)詳細にすることができない」と記述されています。旁国を訪れたなら、ある程度「詳細に」することができたはずです。

では、魏使が倭人からヒアリングした記録でしょうか。僕はそれも違うと思います。

注目すべきなのは、魏志倭人伝において、国名の漢字の使い方が統一されていないことです。同じ発音を表すのに複数の漢字が使われています。「同音異字」が多いです。例えば、「い」には「一」「伊」「已」の3つの漢字が使われています(誤記の「壹」を除く)。同じ発音で複数の漢字が使われている例を一覧にしてみました。

※同じ発音と推定される例を挙げましたが、微妙に異なる発音を魏使側が聞き分け、書き分けた可能性はあります。

魏使が倭人からのヒアリングで記録したのであれば、記録者の習慣(癖)で同じ発音には統一された漢字が使われたはずで、漢字の使い方にばらつきがあるのは不自然です。僕は旁国記事の元資料は、倭人からヒアリングした記録でもないと思います。

※一部には、魏使が訪問した国や、倭人からのヒアリングで知った国もあったかもしれませんが、漢字の使用状況からは少なかったと思います。

【コラム】尾崎雄二郎さんへの疑問

僕は同音異字が5組もあって多いという認識ですが、中国語音韻学専門の尾崎雄二郎さん(元・京都大学)は「<倭人語の漢字は>同音の異字は極めて少ない」と述べていて、僕と正反対の見解です(『中國語音韻史の研究』「十九 邪馬臺國について」(創文社、1980年))。

例えば、尾崎さんは「一」と「伊」は同音と見ていません。おそらく、古代中国語の発音が微妙に異なるからでしょう。僕は、倭人語の発音が同じと考えられるのであれば、同音異字と見なすべきだと思います。33字中、5組11字もあれば、少ないとは言えないのではないでしょうか。

尾崎さんはもう1つ興味深いことを述べていて、「文字の実に八〇パーセントが…同音字グループの代表字であり、それ以外…も…大部分が…極めて日常的な文字」とも述べています。ちなみに、尾崎さんの述べている代表字以外の文字とは、国名の33字中では「狗、投、已、百、躬、臣」の6字です。僕は、旁国の国名には、漢人が見慣れた漢字ばかりが使われているわけではないということだと理解しました(これも尾崎さんは少ないという認識ですが、僕は33字中6字もあれば、多いと思います)。

旁国=伊都国滞在の魏使を訪ねた国々

僕は、旁国記事の元資料(国名の大部分)は、伊都国に滞在している魏使を、旁国の首長や使者が(通訳を伴って)訪問した記録だったのではないかと思います。旁国の首長らは、せっかく魏使が近くに来ているのですから、挨拶しておこうと思うのは自然です。

僕は女王国九州説です。女王国(卑弥呼が都を置いた国)は奴国と考えています。魏使が奴国を訪れ、卑弥呼に詔書や金印を拝仮した返礼に、奴国の使者も最後に魏使を訪問したでしょう。そのため、「奴国」が旁国記事の最後にも登場したことが想定されるのではないでしょうか。

つまり、行程記事と旁国記事は元資料が別々だったために、「奴国」が重複して登場したというのが僕の説です。

※今回の3本シリーズでは、一般的な呼び方である「邪馬台国九州説」「邪馬台国大和説」に代えて、「女王国九州説」「女王国大和説」と呼びます。僕は、女王国(卑弥呼が都を置いた国)と邪馬台国は別の国だと考えているからです。邪馬台国は大和にあったけれども、卑弥呼は邪馬台国にはいませんでした。女王国は九州(博多)にあったという説です。重要なのは女王国の所在地であって、邪馬台国ではありません。

漢字表記は(現代の名刺のように)旁国側から魏使に(木簡・竹簡などに書かれるか、刻まれるかして)提出されたものがあるのではないかと思います。つまり、魏使側が聞き取った発音に漢字を当てたのではなく、旁国側(通訳かもしれません)が当てた漢字があるということになります。そうであれば、国名によって様々な漢字、漢人にとって見慣れない漢字が使われているのも不思議ではありません。

漢字は、57年に後漢から贈られた「漢委奴国王」の金印に使われていますし、魏の皇帝から卑弥呼への詔書でも使われています。2世紀前後(弥生後期)と推定される、文字が刻まれた土器も三重県で出土しています(千葉県教育振興財団「房総発掘ものがたり」(2009年))。漢字は卑弥呼の時代には日本列島でもすでに使われていました。

※リンク先の千葉県教育振興財団の資料は、大陸文化が北陸を経て伊勢湾岸に伝わったと述べていますが、それは漢字(文字)の流入ルートの1つであり、実際は九州北部をはじめ様々なルートで伝わり、使われていたのだと思います。

「遠絶」には根拠がない

ここで重要なことが2つあります。1つは、旁国記事の元資料が訪問記録ではなく、倭人からのヒアリング記録でもないとすると、魏志倭人伝の「其余旁国遠絶」(渡邉さんの現代語訳では「旁国は遠く隔たっている」)には根拠がないということです。

「遠絶」という言葉が使われていますが、魏使にも陳寿にも「遠く隔たっている」かどうかはわからなかったはずです。どうして魏志倭人伝には「遠絶」と記述されたのでしょうか((下)の記事で説明予定)。

「つぎに」は国の並び順ではない

もう1つは、魏志倭人伝の旁国記事にある「つぎに」の意味です。「つぎに」は旁国の所在地の順番を示すという説があります。旁国記事の順番どおり、一筆書きのように国が並んでいたという説です。

僕も以前は、旁国は遠く隔たっていて、記述の順番どおりに並んでいたと考えていました。しかし、魏使は旁国を訪れておらず、倭人からのヒアリングでもないとすると、旁国がどこに位置しているか、魏使にも陳寿にもわかりようがありません。

「つぎに」は何を表しているのでしょうか。ちなみに、魏志韓伝では三韓の国々の記述に「つぎに」はありません。倭人伝と韓伝の違いは、とりあえず、以下のように考えておきます。

  • 倭国:一時的な現地滞在時の記録であり、魏使を訪ねてきた国々を、訪ねてきた順番で記述したため、「つぎに」でつなげている

  • 三韓:一時的な現地滞在時の記録ではなく、漢代から外交関係がある国を(ランダムに)記述したため、「つぎに」はない

以上のことを踏まえたうえで、旁国の候補地を絞り込む条件を考えてみたいと思います。

女王国九州説と大和説

旁国は「遠く隔たって」いたのか

研究者によって採用するかどうか、判断が分かれる条件が2つあります。1つが以下になります。

旁国は(行程記事に登場する)九州北部の国々(対馬国~不弥国)から遠く隔たっている

この条件を採用するかどうかで、女王国九州説と大和説が分かれます。

  • 女王国九州説:行程記事にある九州北部から「遠く隔たっている」という条件を採用しない。旁国を九州北部から求める

  • 女王国大和説:九州北部から「遠く隔たっている」という条件を採用する。旁国を本州・四国から求める

逆も真なりで、「遠く隔たっている」という条件を採用しないのは九州説、採用するのは大和説になります。

旁国は令制の国・郡(大地名)か

九州説と大和説を分ける、もう1つの条件は以下です。

(できるだけ)令制の国・郡などの大地名から選ぶ

3世紀に「国」を名乗ったのだから、8~10世紀にも令制の国・郡などの大地名として残っているはずだと考える研究者は、この条件を採用します。

この条件を採用するのも大和説です。女王国大和説は、女王国=邪馬台国とヤマト王権が連続しており、同盟国だった旁国は大地名で残るはずだと考えます。

本州・四国であれば、候補地も広い範囲から選ぶことができ、旁国の大部分を大地名に比定できます。例えば、思いつくままに挙げても、21ヶ国中の13ヶ国は令制の「国」に比定できます(「毛野」「穴門」を含む)。

※もちろん、旁国が令制の「国」のように大きな領域だったはずはありません。基盤確立の段階では小さかったけれども、その基盤を確立した地域の名称が大地名になることはよくあります。「ヤマト→大和→倭」も同じです(2025/6/24note参照)。

一方、九州北部に限定すると、旁国は大地名では比定できません(なにせ、古事記神代記によれば、九州の国は「筑紫」「豊」「肥」「熊曽」の4つしかなく、その後、「筑前」「筑後」などに分割されただけなのですから)。

安本美典さんは、様々な古代資料を調べあげ、九州説・大和説の旁国の候補地を、どちらも平等に挙げていますが、以下のように述べます。

▶九州の地名のなかから候補地名をさがすばあいと、全国の地名のなかから候補地名をさがすばあいとでは、全国のほうが、地名の数は多いから、とうぜん全国のばあいのほうが、候補地名も求めやすくなる
▶「邪馬台国=畿内説」にたつときは…万葉仮名の、もっとも自然な読み方によって、そのままあてはまる大地名を求めうる
▶この点において、地名のあてはめのみによるばあい、「邪馬台国=畿内説」のほうが、「邪馬台国=九州説」よりも分がある。このことは、すなおにみれば、認めざるをえないであろう

安本美典『「倭人語」の解読』(勉誠出版、2003年)p279

僕は、倭国(女王・卑弥呼)とヤマト王権は連続していないと考えています。女王国=奴国は4世紀後半以降、瀬戸内以東に対する優位性を失っていきました。ヤマト王権が三韓と直接交流・交易をする沖ノ島ルートを確保しました。6世紀の磐井の乱以降、ヤマト王権による九州の実質支配が強まります。

7~8世紀以降、九州北部の大地名は廃れていった可能性があります。「令制の大地名から選ぶ」という条件は、九州北部では当てはめることはできません。

【コラム】千葉にあった宮谷県

近代の例ですが、僕の住んでいる千葉市土気[とけ]地区(2024/4/9note参照)は、江戸時代の上総国山辺[やまべ]郡(旗本領)から、廃藩置県によって、1969年に宮谷[みやざく]県になり、71年には木更津県、73年に千葉県(印旛県と合併)になりました。

「宮谷」という地名は、大網白里市の宮谷八幡神社として残っているだけです。僕は神社に古墳後期の横穴群があるので訪ねたことがあります。今では、土気の人で「宮谷」という地名があったことを知っている人は、古くからの住民でもほとんどいないと思います。吸収合併された地名の運命です。

※宮谷横穴群のリンク先は、千葉県文化財センター「房総の文化財 Vol23」(2000年)。僕の2024/4/9noteに関連する、縄文の落とし穴の紹介コラムもあります。

旁国比定の例「10斯馬国」

「13都支国」の候補地は5ヶ所ですから、まだどうにかなりそうですが、例えば、旁国の最初に出てくる「10斯馬国」の「しま」は、下表のように、候補地が16ヶ所も出てきます(志麻郡志麻郷を除く)。「10斯馬国」をどこに比定するかで、女王国大和説と九州説が分かれます。

大和説は「10斯馬国」を志摩国(三重県)に比定します。「九州北部から遠く隔たっている」「できるだけ大地名」という条件で絞り込めば、国名である「志摩国」に比定することになります。

僕は「遠く隔たっている」という条件は採用せず、「10斯馬国」を筑前国志麻郡(伊都国の北部)とします。根拠は以下の2点です。

  • 前述のとおり、魏使は旁国を訪問したわけでも、倭人からヒアリングしたわけでもなく、旁国が「遠く隔たっている」かどうか、魏使も陳寿も判断できなかったはずである

  • 翰苑[かんえん](7世紀の事典)には「倭国」について「邪届伊都傍連斯馬」という記述がある。読み方は諸説あるが、「(朝鮮半島から見て)斜めに(東南に)伊都に届き、(その)傍[かたわ]らに斯馬に連なる」と読むのが自然であり、伊都国と斯馬国は近接していたと読み取れる

16ヶ所の候補地のうち、伊都国に近接しているのは筑前国志麻郡のみです(大隅国は遠すぎる)。

女王国大和説によって「10斯馬国」を志摩国に比定する研究者は、魏使または陳寿が、旁国が「遠く隔たっている」ことをどのようにして認識したか、説明が必要です。

大和説による比定は考古学と不整合

僕は大和説にもとづく旁国比定は、2つの面で、考古学的成果とも整合性がないと考えています。

東山道には初期の前方後円墳なし

1つは、大和説にもとづく旁国比定は、東山道(近江→美濃→信濃→上野[こうずけ]にかけての国々)が多くなることです。例えば、以下のような比定地が挙げられています。

  • 13都支国:美濃国土岐郡

  • 14弥奴国:美濃国

  • 15好古都国:美濃国方県[かたがた]郡

  • 17姐奴国:科野国(信濃国)

  • 24鬼奴国:毛野国

※安本美典さんも前掲書の大和説にもとづく比定地に、美濃国・信濃国・毛野国を挙げています(安本美典『「倭人語」の解読』(勉誠出版、2003年)p282~283)。大和説にもとづくと東山道は有力な候補地が集中します。
※「姐」の子音は /ts/ で、あえてカタカナ表記すればツァ行ですが、元になった倭人語はタ行という説とサ行という説があります。僕はどちらでもなく、「姐」は「つ」と読んだという説です(2026/4/29note参照)。
※下部の【参考】に「大和説による旁国比定(論文等)」のリンク先を掲載しています。大和説にもとづく旁国の比定地が確認できます。

どうして考古学と整合性がないかというと、東山道には初期の前方後円墳がつくられないからです。寺沢薫さん(纒向学研究センター)は、初期の(纒向型の)前方後円墳と前方後方墳の分布を4つに分類しています(『邪馬台国時代の東海と近畿』(二上山博物館、学生社、2012年))。

※纒向型:後円(方)部と前方部の比率が2:1で、前方部が低く小さい前方後円(方)墳

  • 南関東・北陸・東北南部:前方後円墳と前方後方墳が共存

  • 九州北部・瀬戸内・大和:前方後円墳が優勢

  • 尾張:前方後方墳のみ

  • 出雲:どちらもない(四隅突出型墳丘墓)

よって、東山道は出雲と同じで、初期の前方後円墳の空白地帯です。

寺沢薫『王権と都市の形成史論』(吉川弘文館、2011年)より転載
※「白が森古墳」は福島県

寺沢さんは以下のように、東山道は(卑弥呼と対立した)狗奴国ととらえることができるとも述べています。

▶『魏志』倭人伝の編纂者は「狗奴国」を記載する際、新生倭国に造反した勢力だけでなく、卑弥呼共立を積極的には支持しなかった勢力、さらには王権とはまったく無関係な社会などをもイメージしながら書き進めたものと私は理解している
▶<卑弥呼の>王権の政治権力がおよばない地域とは、三世紀中頃の段階では纒向型前方後円墳が築造されない地域…ということになろう
▶三世紀中頃についてみれば、濃尾平野から東山道一帯(科野や毛野)には纒向型前方後円墳が分布していない。だから濃尾平野に存在したと想定されている狗奴国を「狭義の狗奴国」とすると、東山道一帯は「広義の狗奴国」ととらえることができるだろう

寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年)

※「広義の狗奴国」とは、「卑弥呼と対立した勢力」(狭義の狗奴国)に加え、「卑弥呼共立を積極的には支持しなかった勢力」などを含めたものです。いずれにしても旁国とは相いれません。
※寺沢さんが提唱している「纒向型」は、後円部と前方部の比率が2:1で、前方部が低く短い前方後円墳です。箸墓古墳のような巨大前方後円墳がつくられるようになる前の、初期の前方後円墳になります。
※なお、僕はヤマト王権が墳墓の形状を指示・許可したというような、いわゆる前方後円墳体制には懐疑的です(2025/3/7note参照)。

纒向型前方後円墳の1つ、神門[ごうど]5号墳(千葉県市原市)
右側の前方部が低く短い(2021年12月撮影)

寺沢さんに限らず、赤塚次郎さん(名古屋経済大学)による前方後円墳・前方後方墳の分布を見ても、3世紀の東山道は前方後円墳の空白地帯であることがわかります。

NHK出版『新・古代史』(2025年)より転載

旁国とは、倭国乱を終息させるために卑弥呼を共立した国々だと思います。大和説では、旁国はヤマト王権の同盟国になるはずで、前方後円墳をつくらないということは考えにくいです。大和説は旁国の候補地(大地名)を挙げやすいのは確かですが、東山道を旁国に比定することは、初期の前方後円墳の分布と整合性がありません。

九州と瀬戸内以東は墳墓の文化が異なる

もう1つは、旁国比定に限らず、僕が女王国大和説を否定する根拠なのですが、九州北部と瀬戸内以東では墳墓の文化が大きく異なることです(2025/2/2noteのⅡ⑧参照)。

九州北部では巨大な墳墓がつくられません。巨大墳墓は、山陰の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓のように、瀬戸内以東で生まれ、大和の前方後円墳へと受け継がれます。

一方、九州北部の墳墓に鏡を副葬する文化は、瀬戸内以東に伝わるのは遅れ、もっと新しい年代になります。四隅突出形墳丘墓や楯築墳丘墓、纒向古墳群(石塚古墳など)には鏡の副葬はありません。プレ(初期)ヤマト王権における鏡の副葬は、ホケノ山古墳が最初です。僕の年代推定では270年前後になります(2024/9/2note参照)。

このように、文化(墓制)が大きく異なる地域が、1つの連合体を形成していたとは考えられないのではないでしょうか。

※女王国九州説であっても、例えば、女王国を宇佐など九州東部とし、旁国の一部が本州・四国に広がっていたという説も理論的にはありえます。しかし、上述のとおり、九州北部と瀬戸内以東が1つの文化圏だったとは考えにくく、僕はこの説にも否定的です。

【参考】大和説による旁国比定の例(論文等)

  • 内藤湖南「卑弥呼考」(『芸文』、1910年初出、あおぞら文庫、2003年)(後半で旁国を比定)

※大竹さん、すきえんてぃあさんは大和説とは述べていませんが、どちらも大和説が前提の比定になっています。

まとめ

この記事の要旨は以下のとおりです。

  • 言語学だけでは旁国は比定できない

  • 魏使も陳寿も旁国の位置はわからなかったはずで、「遠く隔たっている」は絞り込みの条件にならないのではないか

  • 大和説にもとづく旁国比定は東山道が多くなるが、東山道には初期の前方後円墳がつくられず、整合性がないと思われる

ところで、この記事で述べてきた考え方は、九州説にしろ、大和説にしろ、魏志倭人伝の旁国記事は、240年前後に倭国を訪れた、魏使が作成した資料を参照(引用)していることが前提です。魏志倭人伝は280年代に成立しましたから、同時代の資料ということになります。

「そんなの当たり前だろう」と思われるかもしれません。

ところが、陳寿が参照したのは魏使が作成した資料ではなく、もっと昔の漢代の資料ではないかという説があるのです。(中)の記事ではその説を検討します。

(最終更新2026/5/25)

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