小局歴史探訪-7-2〜史実性の検証 ―後堀河天皇と堀河家・堀川家―
史実性の検証―後堀河天皇と堀河家・堀川家―
はじめに
専念寺に伝わる由緒書には、「後堀河天皇」「堀川宮内卿」「堀川大納言」といった複数の名称が登場します。これらの名称の史実性を検証する前提として、本章ではまず、歴史上の後堀河天皇、堀河家、堀川家について客観的に整理します。専念寺の由緒書との具体的な照合と検証は、次章以降で行います。
なお、本章で「史実」として言及する内容は、現在確認できる史料や信頼できる二次資料に基づく検証結果であり、すべての出来事が正確に記載されているとは限りません。歴史研究においては、新たな史料の発見や研究の進展により、従来の見解が変更されることもあり得ます。
また、史料によっては「堀河」と「堀川」の表記が混在しており、必ずしも同一家系を指すとは限らないようです。本章では便宜上、公家系を「堀河家」、藤原氏や武家系を含むものを「堀川家」として整理します。
1. 後堀河天皇について
基本情報
名前:茂仁(とよひと)親王
在位期間:承久3年(1221年)7月9日 - 貞永元年(1232年)10月4日
生没年:建暦2年(1212年)2月18日 - 天福2年(1234年)8月6日(享年23歳)
父:後高倉院(守貞親王)
母:陳子(北白河院、安楽寿院、源通宗女)
即位の経緯
後堀河天皇の即位は、承久の乱(1221年)と深く関わっています。承久の乱で後鳥羽上皇らが敗北した後、鎌倉幕府は朝廷の権力を弱めるため、後鳥羽上皇の直系ではなく、傍系の後高倉院の皇子である茂仁親王を天皇として擁立しました。当時わずか10歳でした。
「後堀河天皇」という追号(おくりな)は、先行する第73代堀河天皇にちなみ「堀河の後の天皇」を意味する呼称で、京都の地名(堀河/堀川)に由来します。家系としての堀河家・堀川家とは直接の関係はありません。
皇子について
後堀河天皇には複数の皇子がいましたが、史料に確認される主な皇子は以下の通りです。
秀仁親王(第87代四条天皇):第一皇子、母は藤原竴子(すんし/九条道家女)
第二皇子:死産
後堀河天皇の治世と崩御
在位期間は約10年で、23歳の若さで崩御しました。皇位は第一皇子の秀仁親王(四条天皇)が継承しましたが、四条天皇も12歳で早逝したため、後堀河天皇の直系は途絶えました。
Wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/後堀河天皇
2. 堀河家の歴史的家系
堀河家とは
「堀河」という名称は、平安時代から複数の系統で用いられていますが、最も著名なのは以下の系統です。
(1)村上源氏・堀河流
始祖:源師房(1008–1077)の系統
村上源氏の嫡流に連なる公家として、平安後期から鎌倉初期にかけて多くの公卿を輩出した名門です。堀河という名称は、京都の邸宅が堀河(現在の堀川)のほとりにあったことに由来します。この堀河(堀川)家は中世には一時的な断絶・変遷があったとされます(諸説あり)。
主な人物
源師房(もろふさ)1008–1077:村上源氏嫡流の重鎮(堀河流の上流に位置づけられる公卿)
源俊房(としふさ)1035–1121:師房の子、堀川左大臣
源顕房(あきふさ)1037–1094:師房の子、権大納言、堀河天皇の外祖父
源通具(みちとも)1171–1227:堀川家の祖、堀川大納言
(2)堀河大納言として知られる人物
「堀河大納言」として史書に登場する主な人物。
源定房(さだふさ、1130–1188)
村上源氏の流れ
大納言
歌人としても知られる
源通具(みちとも、1171–1227)
村上源氏の流れ
大納言
堀川家の祖
※「堀河(堀川)大納言」は時代や史料によって複数の人物を指し、必ずしも同一人物を意味しません。
wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/源定房
wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/源通具
wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/堀川家
3. 堀川家の歴史的家系
ここまで述べた堀河家は村上源氏の系統であり、いわば公家としての「堀河家」です。
一方で、同時代以降には「堀川」を名乗る藤原氏や地方武士も登場し、別系統として整理が必要です。
「堀河」と「堀川」の表記について
「後堀河天皇」という追号(おくりな)は、先祖である第73代堀河天皇にちなみ、「堀河の後の天皇」という意味であり、京都の堀川(堀河)という地名に由来します。
なお、平安時代から鎌倉時代にかけて、「堀河」と「堀川」の表記は混用されることがありました。
藤原氏の堀川流
藤原北家の支流に「堀川」を号した系統も見られます(系図上の位置づけは史料により差異あり)。鎌倉期に顕著な公卿輩出は確認しにくく、「堀川大納言政稙」との直接関係は不明です。
wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/堀河家
武家の堀川氏
鎌倉時代以降、地方武士の中にも「堀川」を名乗る一族が存在しました。これらの武家堀川氏については:
中央の公家・堀河家とは直接の関係がない場合が多い
在地での開発や居住地に由来する名称である場合がある
系図の整理が不十分な場合も多く、後世に権威づけのために作成された系図も存在する
4. 花園天皇と「花園の局」について
専念寺略縁起には「花園の局」という名称が登場します。ここでは、歴史上の花園天皇と、宮中における「局」という役職について整理します。
花園天皇
在位期間:延慶元年(1308年)– 文保2年(1318年)
生没年:永仁5年(1297年)– 貞和4年(1348年)
父:伏見天皇
時代:鎌倉時代後期
花園天皇は、後堀河天皇の約70年後に在位した天皇です。後堀河天皇とは直接の血縁関係はありません。
専念寺略縁起に見える「花園の局」は、同名の花園天皇(在位1308–1318)とは時期が合わず、別人を指すと考えられます(同時代史料での比定は未確認)。
「花園」という呼称は、70年後の第95代花園天皇との混同の可能性もあり、名称の響きや時代の近似から後世に混線したとも考えられます。
wikipediaの記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/花園天皇
「局(つぼね)」という役職
「局」とは、平安時代から鎌倉時代にかけて、宮中や貴族の邸宅に仕える高貴な女性の呼称です。
特徴
宮中に仕える女官のうち、特に身分の高い女性
天皇や皇族の側近として仕える
しばしば貴族や公卿の娘が務めた
「○○の局」という形で、出身家や役職名で呼ばれることが多い
例
藤原氏の娘が宮中に仕え、「藤原の局」と呼ばれる
特定の御殿や役職に由来して「○○の局」と命名される
専念寺略縁起に登場する「花園の局(藤原実雅卿の娘)」という記述は、藤原実雅の娘が宮中で「花園の局」という呼称で仕えていたことを示唆するものと考えられます。
藤原実雅について
一条実雅(いちじょうさねまさ):1196–1228
摂関家・一条家の出身
藤原(一条)家の公卿
後堀河天皇の時代に活躍
一条実雅は宮廷で活動した公卿で、年代は後堀河天皇期と近接します。ただし、「花園の局」との親子関係や、天皇との直接関係を裏づける同時代一次史料は見当たりません。
5. 堀河家・堀川家と女性について
宮中における公家の女性
平安時代から鎌倉時代にかけて、名門公家の娘たちは宮中に出仕し、天皇や皇族の側近として仕えました。堀河家(村上源氏)も名門であり、その女性たちが宮中で活躍していた可能性は十分にあります。
歴史的背景
公家の娘は、家の威信を高めるために宮中に出仕することが多かった
天皇の側室となったり、女官として重要な役割を果たした
政変や戦乱の際、宮中を離れて地方に移ることもあった
承久の乱と女性の流浪
承久の乱(1221年)の後、敗北した後鳥羽上皇側に仕えていた公卿や武士だけでなく、その家族や女性たちも京都を離れて各地に逃れた記録があります。
考えられる状況
宮中に仕えていた女性が、政変により京都を離れざるを得なくなった
夫や父が罪を問われ、家族として連座した
安全のために地方の縁者を頼って移住した
まとめ
本章では、専念寺の由緒書に登場する「後堀河天皇」「堀河家」「堀川家」そして「花園の局」について、歴史的な背景を整理しました。
確認できたこと
後堀河天皇は実在し、承久の乱後に即位した天皇である
堀河家は村上源氏の名門公家であり、「堀河大納言」を輩出した
「堀川」という名称は「堀河」と混用され、また武家にも見られる
藤原実雅は実在の公卿であり、後堀河天皇の時代に活躍した
「局」は宮中に仕える高貴な女性の呼称である
承久の乱後、公家や女性が地方に流れた事例は存在する
次章以降の検証課題
専念寺略縁起に登場する「昌仁親王」「花園の局」は史実に確認できるのか(7-3章)
権左衛門文書に登場する「堀川大納言政稙」の系譜は史実と整合するのか(7-4章)
蓮如上人、覚如上人、法然上人との関係は史実と合致するのか
小局村の地名(御局、御前清水、宮畑など)から何が読み取れるのか
本章の整理を基礎として、次章では専念寺由緒書に記された「昌仁親王」「花園の局」などの伝承内容が、史実とどのように関わり合っているのかを具体的に検証していきます。
