シュレディンガーはたぶん猫。[第28話]
第28話
「ま、さのぶ、くん……っ」
発言とは全く裏腹に、俺の両手は強く強く、みずきちゃんの両肩を掴んでいた。本当は絶対に手放したくないという気持ちが、自然とそうさせていた。
けれども、爪が強く食い込む形になっている。それに気が付いてしまって、俺は意識して手の力を必死に抜く。
放さないと、なのに、俺のこの真っ黒い変異は、みずきちゃんを飲み込みたくてたまらない。みずきちゃんの気持ちを無視してでも――そんな意思が、俺の中に確かにあるからだ。
まるでただの化け物みたいだ。今の俺は。
「これ以上、傷つけたくは、ないから」
自分に言い聞かせるようにして、俺は一歩、みずきちゃんから離れる。二歩、三歩、続けて後ろに下がる。そうしてそのまま、その場を後にした。彼女の前から一刻も早く姿を消さなければと思って、走って。変異を悟られないようになるだけ光が当たらないところへと逃げて、逃げ続けて、俺はやがてどことも分からない路地に座り込む。
辿り着いたそこで、俺はスマホを出して、アドレス帳を見る。今の俺に電話可能な相手は、もう片山しかいなかった。何度も繰り返される呼び出し音が、いつにも増してもどかし過ぎて、このまま発狂しそうだと感じる。そのくせ、直後にピッと切り替わって電話口に目当ての片山が出た雰囲気を察しても、俺はろくに言葉を発せられなかった。一体、どう続けていいのか分からなかった。
「片山、俺……おれ、は」
『位置だけ、教えろ。行くから』
他は何も聞かず、奴はただ言った。
やがて十分もしないうちに片山が来た。片山が来て、そして、そこにみずきちゃんもいることも、俺を追ってきてくれたことも、一応、分かった。分かったけれど、俺はもう二度とこの顔を彼女に向かって上げられはしなかった。片山は俺を担ぐようにして連れて彼女の前を立ち去る。
その時、名を呼ばれたような、気がしたんだ。鈴が鳴るような、あの大好きな声で、呼ばれたなって。
けど、もう、俺は……。
ふと気が付くと、どことも知れないマンションの玄関前に俺はいた。手早く鍵を開けたと思ったら、片山は俺の体をその部屋に、真っ黒い異形ごと押し込む。
「ここ、今借りてる俺の家。だから、安心していい。もう」
言われて、さらにずるりと変異があふれ出した。
ここには片山しかいない。だから、全部見られてもいいんだ。片山は、絶対に俺を怖がったりしない奴だ。だから。
感情に巻き込まれたように変異はうねる。
「俺は、もう、みずきちゃんには触れられない……壊す、から。知りたくなかった、こんなことは」
座り込もうとした俺を、片山が支える。溢れる変異もそのまま受け止めてくれて、何一つ、拒否られない。素粒子体の奥の奥まで侵食するように、まるで犯すみたいに変異が動いていても、動じることさえない。
「たぶん……俺なら壊れない。宮本」
やっと、欲しかった言葉を貰えた気がした。俺に暴力を与えられること前提の、確かな受け入れの台詞を聞いた。
「……片山」
涙がせり上がってくるのが分かる。苦しいのと、悲しいのと、喜んでいるのと。全部がない交ぜになった感覚だった。
「何しても、壊れない」
こういう時、いつも俺は、自分からは動けない。相手からの許可がないと、何もできない。
なのに、そんなことはもうすっかり理解している、と言いたげに、先に片山からキスをされてしまった。それは俺に対して、その先を促すやり方だった。最初は触れるだけだったそれが、段々と深くなる。俺の腰の素粒子体、その表面をゆるりと撫でてきていたのが、深く侵食する触れ方にじわりと変わっていく。……境目なく、混ざっていく。
あえて誘うみたいにして、俺の中の罪悪感を薄めようとしている、と分かる。そう宥められると本当に俺の自制心は弱いのだと、片山はとっくに知っていたらしかった。
帰宅した俺は、今日も鍵をかけて自室にたてこもる。ここ数日ずっとそうだから、もう家族は誰も何も言ってこない。
俺は自分の通学かばんを漁ると、中から虫かごをひとつ取り出した。あの始祖蝶入りのものだ。
ずっと習慣のようにこうして持ち歩いていて、今日も自然とそうして。また家まで持ち帰ってきた。
その虫かごを、俺は俺自身の意志で壊して、完全に消してしまう。蝶はふうわりと飛んで、この指先の素粒子体にとまった。羽を開いたり閉じたりするたびに、構造色の赤がぬらりときらめく。とても綺麗だと、やっぱり思ってしまう。
けれども。もう、今までのようには飼えない……。それでいて、殺したくもない。本当は、もう何も、誰も殺したくない。殺せない。
机の上、クリアファイルを見る。その中にはみずきちゃんに渡すつもりだった、マジカルアニマルのシールシートが一枚、存在している。タイミングを逃して渡せなかったそれは汚れることも曲がることもなく、未だにそこにあった。
俺はそれを取り出すと、始祖蝶の口元に差し出す。やはり虫はためらうことなどなく。八センチ×十センチ程度の大きさのそれを、ゆっくりと分解して残さず食べ切った。
最後の晩餐のつもりだった。
「逃げろ。俺から。なるべく遠くに行くんだ」
言い聞かせるように呟いて。俺はすっとその羽の表面を撫でる。素粒子体の右手の人差し指を押し当てると、光の加減がその部分だけ変わるようで、模様みたいに赤くきらめく。
やっぱり、綺麗だ。俺が本気で育てた虫は。本当はこのままずっと飼っていたい。だけど、今日でお別れだ。
「次に会ったら、きっと殺してしまうから」
次だ、と俺は決めてしまった。今、この瞬間でなく、次だと。完全なる悪あがきの先延ばし。馬鹿げてる。また人的被害が出るかもしれないというのに。倫理的には絶対に正しくない。分かる。でも。
「……そんな時が、来なければいいな……」
勝手な希望を呟いてから、俺はベッドに寝そべった。虫はしばらくそんな俺の周囲を飛び回っていた。
不思議と始祖蝶は俺を食おうとはせず。そして虫かごももう存在しないのに、何でか、しばらく俺から離れることなく留まっていた。まるで俺の素粒子体を、止まり木だとでも思っているかのように。……こっちは、いっそ食い殺される展開でも、全然よかったのに。
なので、俺は自分を包むようにバリアーを張る。もう俺のことを止まり木にはできないようにと。
蝶は諦めずにしばらく俺の周辺にいたが、やがて拒否の状況を受け入れたようで、ゆらりと飛び立った。そうして、ガラス窓をすり抜けるようにして、外へと去っていった。
――行った、か。
注意深く確かめて、改めて、ベッドの上で丸くなった。虫から自身を守る機能のはずのバリアーは、実際に虫がいなくとも俺の身を守ってくれているようで、少しほっとする。
微動だにせず、俺はベッドに横たわり続ける。全く、何もする気にならなかった。何もせず、ただ横になっていた。
しばらくして、シュレが俺の部屋に入ってきた。その気配が、背中越しに確かにいると、振り向かなくても分かった。
『何をやってるんだ。お前たちは。揃ってふ抜けおって』
「シュレ……」
振り向いていないし、そもそも奴に表情なんてものはないわけだが、すっかり呆れているのだとさすがに分かった。
『吾輩の目を誤魔化して逃がせるとでも、思ったのか?よくもまあ、あの始祖をあそこまで育て上げたものだな?』
完全に全部が全部、バレてしまっていたらしい。ものすごい恨み節だった。けれど、きっとシュレも結局は見逃したのだろう。次、ということにして。
『即刻殺すべきだった。こんな先延ばしなど、意味がない』
「そう、だな……」
殺すんじゃなかったのか、とブツブツと繰り返すから、ひとまず相槌を打つ。シュレが愚痴るたびに。
『愚かだ』
「うん……でも、どうしてもキラキラして綺麗で、可愛い気がして、殺せなかったんだ……」
『馬鹿だ、お前は。それも、宇宙一の馬鹿者だ』
「うん……知ってる」
ぱたぱたとその尻尾?を動かして滅茶苦茶に文句を言いながらも、シュレはずっと一緒にいてくれた。なので、やっぱりこの宇宙生物?は心優しいのだと思う。
「片山も、見てきたんだろ。どうだった……?」
一応、俺は訊いた。奴のその後が、ひどく気になる状況ではあった。心身ともに、色んな意味で。
『まぁ、お前とそれほど変わらんな』
「そっか……」
ふと見ると、シャツの襟のところに血がついていた。片山の首筋を強めに噛んだ時のだと、思い出した。
――加減は、できなかった、と思う。全く。相手が屈強な片山だったからこそ、ブレーキは欠片もきかなかった。全力の暴力をもってしても壊れない相手には、どこまでも深い安心しかなかった。酷く重い気分なのに、「その欲求の部分」だけはすっきりとしている。生まれて初めて、満足している。
おそらくコレをアウトソーシング可能な相手は「片山くらいしかいない」のだと、俺は知ってしまった。
少なくとも平均的な女の子には無理だろう。壊れたら次の子、とやれるほどのクズメンタルは、さすがに持てない。そもそも、みずきちゃん以外の女の子とするなんて、今でも考えられない……そんなことをしたい相手は、彼女だけだから。
ゲイではないので、他の男の中から探したいとも思っていない。単に「現状では唯一、片山なら可能らしい」という現実があるだけだ。
片山が何をされても全く俺に抵抗しなかったのは、きっと奴自身も今は何かしら「罰」のような強めの暴力が欲しくてたまらなくて、とても都合が良かったからだと思う。

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