シュレディンガーはたぶん猫。[第31話]
第31話
第五章
「蟲の女王、イオ=テ=ラ・ルエガ」
みずきちゃんと別れ話をした日から丸三日、俺は家から出なかった。スマホには松岡と山瀬からかわるがわるメッセージが届いていたが、何も返すことはできなかった。
ただ。一通、あるメッセージが届いた。それを見て、俺は久々に、この家から出ることにした。ろくに食べてなくて胃の中は空っぽで、もたないと思ったけど食べたい欲求はあまりなかった。目についたクッキー状の栄養補助食品を二本だけ口の中に詰め込んで、牛乳で胃に流し込んだ。最低限、動くためのカロリーは必要だと思った。
みずきちゃんから「夏祭りの広場で待ってる」というメッセージが届いていたからだ。夏祭りの日、会場の河川敷の広場で、俺たちはふたり並んで花火を見た。手を繋いで。その記憶は今も色鮮やかに脳裏によみがえってくる……。
完全に別れるとしても、もう一度、ちゃんと話した方がいい。そう判断した俺は改めて彼女に会いに行くことにした。日曜日の早朝、という時間帯だったが、何となく無意識のうちに制服を着ていた。そもそも休日という認識もなかったので、着てしまった後に曜日と時間を認識してから、私服でも良かったと気付いた。日付の感覚が完全に飛んでいて、改めてスマホを見て「ああ、そうだったんだな」と知った。
そうして、家の玄関を出たところ、何でかそこに片山が立っていた。片山も制服だった。俺から与えられたダメージはそこそこ回復しているようで、一見、何事もなく平気そうに立っている。ただ、首筋に大きめの絆創膏がひとつだけ貼られていて、そこだけは回復が遅れているらしかった。その肩にかけられた通学かばんからは、黒い粒子で形作られたシュレの猫型の頭部が、ひょっこりとはみ出している。
『ミヤモト。そろそろ、最後の虫退治が必要らしい。始祖蝶の新たな次の変異が起こる前に、動かなければ』
どうやら、そのために奴らは揃って俺を迎えに来たようだった。ただ、引きこもる俺を無理やり家から引きずり出す気持ちまではなかったらしくて、こうして自発的に出てくるまで待っていたらしい。一体いつから待っていたんだろう。
「そう、か」
いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。分かっている。そっちもちゃんと終わらせなくてはならない。
「今から、みずきちゃんに、会うんだ。その後でいいか?」
確認すると、片山が妙に痛そうな顔になる。けれども頷いて了承してくれた。シュレも今日中に済むなら、と納得した。
ふたりと一匹で連れ立って、河川敷に向かう。早朝八時過ぎの河川敷には、走っている人や体操する人、散歩している人なんかがまばらにいた。まだ早い時間帯なのに、もう既にじわりと汗が滲む感覚がある。蒸し暑かった。
ちょうど、あの日。並んで花火を見上げた、その場所。そこに見慣れた制服の後姿が座っていた。そのハーフアップの髪の毛の結び目に、まるでゴムの飾りのようにとまって羽をきらめかせている蝶のような虫のことを、俺はとても良く知っている。殺さなくて済むように、どこかずっと遠くに行っていてほしいと願って放したはずだった。
「……そこに、いたのか」
当然と言えば当然のことかもしれない。そもそも、あの蝶型こそが全ての虫の始祖なのだ。
――本当に、俺は愚かだ。
虫は俺の弱みとして彼女のことを認識していると、とっくに分かっていたのに。あの日、力を維持しきれずにバリアーが消えた状態のまま、彼女から離れてしまった。
でも。いつかこうなるかもしれないって、最初から知っていたような気もする……。
話が終わるまで他で待っていてもいいと言ったのに、片山とシュレがあえて俺と一緒に来た理由も分かった。ふたりは俺が行く先にこそ、倒すべきお目当ての虫がいるのだと、とっくに認識していたのだ。
彼女が口ずさんで歌っているのは、彼女が好きだと言っていた女児向け変身少女ものアニメのオープニングだ。その歌声が、途中でピタリと止まる。俺たちの気配を悟って。
『ああ、見つかっちゃった』
この耳に二重に聞こえる声は、みずきちゃんだけの声なのか、それとも、始祖蝶の意志もあるのか。
ざわ、と熱をはらんだ空気がうねる。シュレが俺たち当事者のみを包む形で結界らしきものを張ったらしい。いつの間にか、ジョギングや散歩をしていた一般の人々は視界から消えていた。まるで広がる結界の外に段々と追い出されるように。何か振動音のようなものが小さく鳴り響いていて、それを聞いていると、自然と俺もここから立ち去りたくなる。そんな人間にとって「とても嫌な音」が小さく鳴り響いていた。
「マジカルアニマルの九話にね。好きじゃない展開があるの」
みずきちゃんはそう呟いて、その場に立った。まだ俺たちを振り向かず、じっと川面を見つめているままだ。朝日が輝いて、水面がキラキラ光っていた。
「仲間のマジカルドッグがね、闇落ちしちゃうんだ。そして力を敵のために使ってしまうの。どうしても好きになれなかった。だって、私にそっくりなキャラなんだもん。すごくリアルで、見ていて辛かった。私だって、本当はずっとキャットになりたかった。でもね、ドッグに一番、共感したの……」
キラキラした、水面の光だと思っていた。みずきちゃんの背後にあるのは。オレンジ色の朝日が反射しているのだと思っていた。けれども――違う。血の赤だ。オレンジ色の向こうに、紛れるように赤いキラキラが確かにある。
それまでずっと髪の結び目から動かずにいた始祖蝶が、ふわりと移動して、彼女の指先にとまる。
「――想いの力が未来を繋ぐ。マジカル・『イオ=テ=ラ・ルエガ』、メモタルフォーゼ」
まるで虫自身から教わったかのように。そして人間には絶対に発音できない「宇宙的な虫特有の声色」を獲得したかのように。とても正確に、彼女は虫の女王の名を呼ぶ。
水面に紛れた赤の奥から大量の蝶型の虫が現れて、みずきちゃんの全身を包み込む。目を閉じてそれを完全に受け入れるように伸ばされた四肢。取りついた虫たちは、みずきちゃん自身の素粒子体と一体となって、ピシリと電気的に弾けた音を立たせながらただの制服を俺たちの攻撃から守るための戦闘用コスチュームへと変異させる。踊るようにふわふわと飛んだ始祖蝶は、赤いキラキラの鱗粉を振りまくようにしてその形を変えながら、背中へ。彼女の羽へと変異した。
確認するかのように羽を大きく羽ばたかせて薄く目を開けた彼女の前、もう一つ、何かが浮いている。俺はそれも見たことがある。鍵だ。みずきちゃんの自宅の鍵。マジカルアニマルのリンちゃんの杖のモチーフがついていた。
杖だ、と分かった瞬間、わずか数センチの大きさのはずのそれが途端に五十センチくらいの長さに膨らむ。
全ての変身を終えてその真ん中あたりを掴んだみずきちゃんは、カッ、とその先端を俺の喉元に向けていた。
「みずきちゃん……」
呟いたっきり、俺は何も言えなくなる。
ああ、なんて。すごく俺好みの仕上がりなのか。この期に及んで、まだ可愛いとか思っている。妖精さんかな?とか思ってしまっている。でも、同じくらい禍々しい。最悪だ。吐き気がする。似合ってる。俺に対して本気の敵意を表明している。抱きしめたい。やっぱり好きだ。でも殺さなきゃ。
けれど、俺はまだろくに動けずにいる。するとみずきちゃんは再び目を閉じて唱えた。
「ドッペルベンガー」
瞬間、みずきちゃんから別れる形で虫が大量に現れて、彼女そっくりの影を作り出す。影はみずきちゃんの形を保ったまま、ラ・ルエガらしく透けていた。その影が割って入るようにして俺と片山の間を引き離す。
「あのね。片山くん。本当はずっと思ってたの。邪魔」
ニコッ、とみずきちゃんは笑って片山に言った。以後、俺と片山を引き離すポジションを取って影は動く。
「一緒にいられる時間が限られるなら、『私とだけ』いてくれる方が嬉しいかな。他の人はいらないよ、政信くん」
ひとりっきりで来なかったことを怒っているのだと理解した。なので、俺は片山とシュレに声をかける。
「彼女の相手は、俺がする。ふたりとも、遠慮してくれ。俺には、責任があると思う……他の誰にも任せたくない」
でもきっと、それだけじゃなくて。独占欲もある。
「そっか」
『やれるのだな?』
「ああ。……俺も片山も負けたその時は、シュレに全部任せる。俺ごと全部の虫を、この星から消してくれてもいい」
『いいだろう。その時までは被害の縮小化に集中しよう』
「なら、そっちは任せた」
シュレは結界の強化に集中し、片山は影に取り掛かるために背を向けた。俺は改めてみずきちゃんに相対する。
「やっと逃げずに私と向き合ってくれてる……嬉しい」
ふわ、と頬を赤らめてみずきちゃんが呟く。可愛い。
逃げ……。そうだな、あれは完全に逃げだった。俺は例えほんのわずかでも、彼女に拒絶されることが怖かった。
でも、彼女は俺から逃げていない。虫として殺される可能性を分かっていても。すっかり素粒子体が虫と一体化したその姿になってでも、俺とこうして再び会うことを選んだ。
俺よりも、みずきちゃんの方が、よっぽど覚悟が決まっている気がする。強い心を持っている気がする……。

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