見返り鬼譚《耳あり芳一外伝》【最終夜】忠義の剣(連作短編)
清閑寺の女が語る、夜ごとの鬼譚。
語られるのは、祇園に生きた誰かの結末――
けれどその結末は、ひとつではない。
同じ怪異、異なる結末。
読み手の耳に委ねられた真実。
『耳あり芳一』外伝 “見返り鬼譚”、ここに開帳。
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最終夜 角一と彦七の忠義 其の七
忠義の剣
◇
夜明け。
蓮屋の格子戸の向こう、祇園の町に朝の光が差し込んでいた。
角一は、まだ汗の滲む寝間着のまま、静かに障子を開ける。
そこには、絢爛たる桜の景が広がっていた。
夜のうちに花は一気に開き、祇園の町はまさに桃源郷。
八分咲きだった木々は、今や満開となり、白と薄紅の花が空にまで届くほどである。
「……満開、か」
角一の声に、隣で支度をしていた彦七が振り返る。
「華やかなもんだな。まるで俺たちを見送ってくれているようだ」
ふたりは朝の支度を整えると、帳場へと向かった。
女将のお兼が、湯気の立つ味噌汁と、ふっくら炊きたての白飯を用意していた。
「よう眠れましたか?」
「……夢見は悪かったが、体は休まった」
「今日も泊まりに参ります。八社目のあと、また戻る予定でな」
「ええ、お待ちしておりますよ。今朝も安兵衛が腕を振るってますのでな」
笑顔を返して、ふたりは蓮屋を後にした。
桜舞う祇園の町を抜けて、五つ目の社へ。
その神社の鳥居をくぐった瞬間、ふたりは強烈な重みに襲われた。
足が、前に出ない。
肩に何かが乗っている。
背中に、見えない何かが這い上がってくるような感覚。
それでも角一は、神主に事情を話し、護符を受け取った。
礼を述べて、社を後にする。
「……重いな、角一」
「おう……昨夜の悪夢のせいかとも思ったが、これは……」
「護符のせいか」
「そうであろうな。しかし、後戻りはできぬ。行くぞ、六社目へ」
ふたりは気合いを入れ直し、次の社へと向かう。
道中、すれ違う町人たちが、ふたりの足取りに目を見張る。
役人二人が、まるで老人のような歩みで進んでいるのだ。
六社目、七社目──
護符を受け取るたび、ふたりの体はさらに重くなっていく。
七社目を終えた頃には、まるで背中に石の地蔵を背負っているかのようであった。
「角一……正直、これはもう……立っていられねえ……」
「それでも、八坂神社が最後だ……もう一息だ、彦七」
ふたりは互いに肩を支え合いながら、祇園の中心──八坂神社へと向かった。
満開の桜が、頭上から降るように散っていた。
舞い落ちる花びらの中、ふたりの姿は、まるで神のもとへ歩む者のように見えた。
「行こう、最後の護符を……!」
◇
八坂神社の鳥居をくぐった、その瞬間──空気が変わった。
桜の香りはすっと消え、代わりに鉄のような匂いが鼻腔を刺す。
咲き誇る花々の奥に、夕陽を受けて鈍く輝く御本殿の屋根が浮かび上がる。
音のない静寂の中、得体の知れぬ緊張だけが濃く、漂っていた。
角一と彦七は、もはや身体を引きずるようにして、ひと足ずつ踏み出していた。
全身に鉛でも仕込まれたかのように、足は地に吸い付いて離れず、膝がわずかに震える。
それでも、神主に頭を下げ、八つ目の護符を受け取った。
そして、護符を受け取ったその刹那──
ズン──と、
大地が鳴った。
神殿の奥から、黒煙のような瘴気が溢れ出し、空を覆う。
桜が散る音が止まり、すべての気配が凍りつく。
──ギギ……ギ、ギィ……
何かが這い出すような音が、地の底から響いた。
「こ、これは……!」
角一が立ち上がろうとするも、膝が砕けそうになる。
護符が熱を帯び、全身に異様な力が巡る。
瘴気の中から現れたのは、紅の髪に金の眼、鬼の角をもつ巨大な影──
「我が名は……酒呑童子……」
その声は地鳴りのように重く、同時に妙に甘美な響きを持っていた。
「長き封印、ようやく解かれた……さて……」
鬼の眼が、角一と彦七を捉える。
「貴様らの血で、宴の口開けとしようぞ……!」
咆哮とともに大地を踏み鳴らすと、突風が吹き荒れ、祇園の街が揺れた。
家々の壁が震え、瓦が空中に舞い上がる。
角一は歯を食いしばり、よろめきながらも、なお立ち上がった。
「……このようなところで倒れるわけにはいかぬ、なあ、彦七」
「おうよ……お役目、果たすまではな……!」
ふたりは護符を放り出し、武器を構える。
角一は打刀を、彦七は短槍を──
酒呑童子が吼えた。
両の手に宿る妖気が、雷となって地を裂く。
それをかいくぐるように、彦七が走り出す。
「角一、右から回るぞ!」
「承知!」
ふたりは息を合わせ、鬼の懐へと斬り込んだ。
──斬撃。突き。
──回避。応戦。
──打撃、反撃、転倒──
しかし、何度斬っても、鬼の体は立ち上がってくる。
「くそっ……しぶとい奴め!」
「まだだ……まだ終わらせん!」
酒呑童子が拳を振り上げ、地面を砕く。
その衝撃で彦七が吹き飛ばされる。
角一が叫ぶ。
「彦七!」
「へへ……大丈夫だ、死んじゃいねぇ……!」
角一は刀を握り直した。
「ならば……これが、最後だ!」
満身創痍のまま走り出す。
足は鉛のように重い。
呼吸は浅く、血が喉に上がってくる。
それでも。
「ここで倒れてなるものかッ……!」
角一の刀が、酒呑童子の胸を深く貫いた。
──ズウゥゥ……ッッ!!
鬼が呻き、崩れ落ちる。
その体は黒い霧と化し、空に溶けて消えた。
あとには、風の音と、散る桜の花びらだけが残されていた。
彦七がよろけながら歩み寄る。
「……やった、のか」
角一は肩で息をしながら、静かにうなずいた。
「……忠義、果たしたな」
⸻
風に揺れる花びらが、夜空へと舞いのぼってゆく。
満開の桜の下、月の光に照らされながら、
誰かがひとり、静かに語っていた。
──清閑寺の女。
朱の着物に身を包み、膝に琵琶を抱き、ほのかに微笑む。
「この二人の旅路には、いくつもの分岐点がありました。
けれどふたりは、迷わず忠義の道を選び抜いたのです。
──あなたはどうでしょう。
自分が信じた一本道を、まっすぐに歩き続けることができますか?
ふふ……ええ、みなさんの分岐点の先にも、鬼がひっそりと潜んでいるかもしれませんよ」
そのとき──
琵琶が、夜を裂くように、ひと音だけ鳴った。
ポロン……
闇の中、花びらがまたひとひら、
風に乗って、どこか遠くへ消えていった。
──おしまい。
見返り鬼譚(完)
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