石原千秋の『漱石はどう読まれてきたか』をどう読むか⑲ 電子書籍は紙くずにならない
石原千秋は「漱石」の名を冠した単行本の八割までは「紙くず同然である」と言い切る。しかも「研究の常識から言えば」と奇妙な断りを入れる。
「研究した結果」ではなく、「研究の常識から言えば」なのだ。
実際AIが私のnoteを分析したとするとどうなるだろう。一応やってみたら、批判も含めて有益だろうという判定で95%は有益なのだそうだ。
赤木桁平の『評伝 夏目漱石』は「エゴイズムがどうだこうだ」の始まりとなる評論のようだ。夏目鏡子の『漱石の思ひ出』に拠れば松山行は井上眼科で見たお嬢さんの母親の所為らしい。小宮豊隆の『漱石の芸樹』では「則天去私に向かって人格形成していく物語」を説明原理として漱石の全業績を意味づけようと試みたそうである。
則天去私の意味が安倍能成の聞いたものだとしたら、小宮豊隆の『漱石の芸樹』は紙くずになるだろうか? ちなみに石原千秋は『明暗』が漱石最後の作品となったのは偶然であり、『明暗』に漱石文学の到達点を見たがるのは誤りだという。
小宮豊隆の『夏目漱石』は「正史」だそうだ。このnoteにもいくつか小宮豊隆のテキストをそのまま(できるだけそのまま)転載している。「則天去私」は兎も角として、「ああ、そういうことなのか」と気が付かされる指摘が幾つもある。特に「材料」に関してはざっと目を通しておかないと、頓珍漢な解釈になってしまうので要注意だ。
で、さて江藤淳の『夏目漱石』は、
❶「則天去私」神話批判
❷「低音部」というキーワードの導入
➌「他者」という概念の導入
❹『明暗』のお延と小林に漱石文学の新しい可能性を見出したこと
というポイントを持つらしい。
①日本の現実を捉えたから偉い
②低音部は東洋趣味
③私小説には他者はいないが『道草』には他者がいる
④「則天去私」を放棄した
ということらしい。しかしまてよ。
ただし、『道草』が書かれた時代には「私小説」という言葉はまだなかったので、この言い方は注意が必要だ。
日本の「私小説」の起源は何時か?
AI による概要
日本の「私小説」の起源は
明治時代末期から大正時代初期に遡り、特に1907年(明治40年)の田山花袋の『蒲団(ふとん)』が近代私小説の始まりと有力視されていますが、その萌芽は明治中期からの自己暴露的な風潮や、西洋のリアリズム文学の影響下にあります。
起源を遡る流れ
明治中期(明治10年代〜20年代): 西洋文学の翻訳や、坪内逍遥の『小説神髄』(1885-1886年)による写実主義の提唱など、作者の「私」を客観的に描こうとする動きが生まれます。
明治末期(明治30年代後半〜): 自己の内面を露呈させようとする「自己暴露」の風潮が広がり、読者や友人にも作者の体験と結びつけて読まれるような作品が増え始めます。
1907年(明治40年): 田山花袋の『蒲団』が、作者自身の体験と心理を赤裸々に描いた作品として、近代私小説の確立を示すものとされています。
大正時代: 『蒲団』以降、私小説は独自の小説形式として確立され、志賀直哉の「心境小説」など、内面描写を主眼とする作品が盛んに書かれ、黄金期を迎えます。
まとめ
私小説の起源は明治時代にあり、明治末期から大正初期にかけ、田山花袋『蒲団』などをきっかけに独自の形式として確立された、日本独自の文学ジャンルです。
もし『蒲団』なら『道草』の前だが、当時は「私小説」とは呼ばれていなかったのか?
AI による概要
田山花袋の『蒲団』(1907年・明治40年)は、発表当時「私小説」という用語やジャンル名では呼ばれていませんでした。
当時は「私小説」という確立された文学用語はなく、「赤裸々な告白」や「自然主義的な写実」といった文脈で評され、その大胆な内容がセンセーショナルに話題となりました。
詳細のポイントは以下の通りです。
『蒲団』発表当時(1907年)の呼称
「赤裸々な告白」「告白録」: 当時の文学者(島村抱月など)は、『蒲団』を「人間の赤裸々な懺悔録」と評しました。
「自然主義の作品」: 自分の体験や感情をありのままに描く自然主義文学の代表作として受け止められました。
技術的な評価: 当時は新しい形式として驚きをもって迎えられ、明確に「私小説」というジャンルでカテゴリー分けされていたわけではありません。
では「私小説」という言葉が使われ始めたのは何時からか?
AI による概要
「私小説(ししょうせつ/わたくししょうせつ)」という言葉が使われ始めたのは、大正時代に入ってから(特に1910年代後半〜1920年代頃)が主流です。
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始まりの作品: 1907年(明治40年)の田山花袋『蒲団』がその嚆矢(始まり)として有名ですが、この時点ではまだ「私小説」という言葉は定着していませんでした。
言葉の確立: 大正時代(1910年代〜)の文壇で、自然主義文学の潮流の中から「作者自身を主人公とする生活記録・心境吐露」を特徴とする作品群が主流となり、それを指す言葉として「私小説」という呼称が定着しました。
代表作家: 志賀直哉、近松秋江、木村荘太などが挙げられます。
なお、これより前(明治末期)に、ヨーロッパの「イッヒロマン(Ich-Roman:一人称小説)」の訳語として、あるいは自然主義文学の「写実」の極限として、自身の生活をそのまま描く手法が提唱されていました。
最初に「私小説」と呼ばれた作品は何か?
AI による概要
一般的に、日本の近代文学で最初に「私小説(ししょうせつ)」と呼ばれた(またはその原型とみなされた)作品は、田山花袋(たやま かたい)の『蒲団(ふとん)』(1907年)とされています。
この作品のポイントは以下の通りです。
内容: 自然主義文学の代表作であり、弟子に恋をした中年作家の情けない心情や日常生活を、ありのままに(赤裸々に)描いた作品です。
影響: それまでの虚構(フィクション)中心の小説とは異なり、作者自身の生活の記録という独自の形式を確立し、後の私小説の主流を作りました。
なお、これ以前にも島崎藤村の『破戒』(1906年)などが挙げられることもありますが、一般的に「私小説の幕開け」として言及されるのは『蒲団』です。
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最初に私小説と呼ばれた作品は何か
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最初に「私小説」と呼ばれた作品というより、「私小説」という名称(ジャンル呼称)自体が最初に使われた時期・文脈で考えると、明確な「この作品が最初」という単一の答えは存在しません。ただし、日本文学史の通説では、「私小説」という言葉が文壇で広く使われ始めたのは1920年(大正9年)頃からで、揶揄や批判を含んだ呼び方として登場したとされています。代表的な見解まとめ**最も有力な「私小説の始まりの作品」**として扱われるのは、**田山花袋『蒲団』(1907年・明治40年)です。
自然主義文学の頂点とされ、作者の実体験(特に女性への性的妄想や弟子の妻への思い)を赤裸々に書いたことで、「私小説」の原型とみなされることが圧倒的に多いです。
多くの教科書・文学史で「私小説の嚆矢(こうし)」と紹介されます。
「私小説」という名称が定着・確立した時期としては、 1913年頃の近松秋江『疑惑』や木村荘太『牽引』**を挙げる説(平野謙など)
1920年代初頭の白樺派(特に武者小路実篤らの一人称作品)に対する呼び方として生まれたという指摘(宇野浩二など)
が有力です。
「私小説」という言葉の登場時期
大正9〜10年(1920〜1921年)頃に「所謂『私小説』」「私は小説」などと揶揄的に使われ始めた記録があり、1924〜1925年の久米正雄・中村武羅夫・宇野浩二らの論争(「本格小説 vs 心境小説・私小説」論争)でジャンル呼称として定着しました。
結論として最も一般的に言われる答え最初に私小説と呼ばれるようになった作品 → 田山花袋『蒲団』この作品が「私小説」というジャンルの実質的な起点と見なされており、後から振り返って「私小説の最初」と呼ばれることがほとんどです。
(「私小説」という言葉自体が後付けで使われ始めたため、厳密に「最初にそう呼ばれた作品」は存在しないのが実情です。)もし「名称が最初に使われた具体的な作品名」を厳密に知りたい場合は、さらに当時の文芸雑誌(『文章世界』『新潮』など)の1920年前後の記事を探す必要がありますが、一般的な文学史では『蒲団』が基準となっています。
まあいいか。岩上順一はパス。荒正人の『評伝 夏目漱石』はフロイトの精神分析の枠組みで読んでいるそうだ。くだらない。越智治雄の『漱石試論』は要約できないそうである。
思うに、漱石に触れるのがまちがっていたのだ。無理をして漱石に触れるから、「推定→事実」という詐術を行わなければならなったのである。これは作品論の時代の文体の典型だ。
同じことが石原千秋にも言える。どうしても変な欲が出て、勇み足になってしまう。
蓮實重彦『夏目漱石論』は「表層批評」である。石原千秋はこの「おフランス」な文体がみっともないというう。「あった、あった主義」は一つの才能だと。
相原和邦の『漱石文学の研究―表現を軸として―』もパス。小谷野敦の『夏目漱石を江戸から読む 新しい女と古い男』はサブタイトルが結論だそうだ。
しかし三四郎が「美禰子に惚れて苦しむのではなく、美禰子に惚れられたいと思って悩む」というのは読み誤りである。菊人形を見に行った際、三四郎は仲間から離れる美禰子を追いかけている。そして「迷える子」と言われた瞬間に恋に落ちている。
何故そう言えるのか。ノートにstray sheep という字がむやみに書いてあるからだ。これは下手なラブコメでは恋に落ちた証になるが、近代文学では違うのだろうか。
つまり、主人公の男たちは、江戸文化的な「惚れられる恋」に捉えられて
自分からは身動きができないのに、男が主体となるような西洋的な恋愛を求めてしまうところに混乱が生じるということだ。
うっすら理解はできる。しかし「三四郎も、一郎も二郎も三沢も、自分が一人の女に思われているということを支えに生きていこうとし」なんてことはない。
それなら三四郎には三輪田のお光さんがいた訳だし、(惚れられているかどうかは別として)汽車の女とやっても良かった訳だ。一郎は「お貞さん」に惚れられたいとは思わず、二郎は直に変な性欲のようなものを向けはするが「植え替えられる梅」を「無意味」と突き放すように、直に惚れられることを求めているようにも見えない。三沢なんか適当に「あの女」に惚れたり、きちがい女に惚れられたりもするが、さっさと嫁さんを捕まえている。どうも西洋的ではなかろうか。
念のため、一郎と直の関係には新しい女と古い男という図式が当てはまりそうではある。「植え替えられることを期待する」のは新しい女のようでもある。しかし本当に新しい女なら那美さんのように引き上げて来ればいいのである。一郎は古い男に見える。しかし嫁のスピリッツを捕えたいなどという夫が江戸趣味かどうかは甚だ怪しい。
石原千秋の『反転する漱石』には散々触れた。側転する虚子くらいな本だった。
結局何を語るにしても作品の設定や筋が見えていなくてはどうしようもない。そうい意味でこれらの本はすべてやり直しが必要なものだ。
夜中の二時過ぎの花見、代理の寺参り、生かされる静、実氏ではないかもしれない一郎、捨て子の健三、三四郎の横顔を見つめる美禰子、不愉快な檜、入鹿じみた心持、演芸会に現れた男、知らん人、低い声、懐かしみ、先生は旨いよが解らないでも成立するのは蓮實重彦スタイルのみだが、さて。
それでもぼろは出る。
まずは丁寧に読むことだ。
