『わたしは最悪。』と『センチメンタル・バリュー』地続き『ハッピー・マニア』
『センチメンタル・バリュー』を観た。
主演俳優や脚本・監督が『わたしは最悪。』と同じチームなのは知ってて観に行ったのだけど、物語自体が『わたしは最悪。』の続きのように思えた。『わたしは最悪。』で自らの幸せの形を見つけ切れなかった主人公が、『センチメンタル・バリュー』でひとまず落ち着く場所を見つけることが出来たように思えたのだ。
とは言いながら、話の詳細を忘れていたので『センチメンタル・バリュー』を観た後に『わたしは最悪。』を観直してみた。
『わたしは最悪。』のあらすじを簡単に説明すると、「何となく何でもできるけど自分が本当に何をしたいのか何に幸せを感じるのか自分でもわからない女性が自分の幸せを求めて奔走する話」である。最初に観た時は“具体的な原因が分からないけどずっとイライラしている感じ”が何だか現代の女性っぽいと印象に残った。
『わたしは最悪。』の主人公・ユリヤは成績優秀・容姿端麗で、友達も家族もいる、彼氏もいる、仕事だって悪くない、にも関わらず、いつだって物足りなさを感じている。ユリヤには行き詰まるとその時点で抱えている人間関係を切り捨てる癖がある。
冒頭、ユリヤの性格と背景を説明するパートで、優秀だからという理由だけで医学部に進学し、花形とされる外科が自分には合っておらず身体よりも魂に興味があるという理由から心理学科に転科し、そこでも詰め込み教育の授業に変化がなかったことに嫌気がさして写真家を目指すようになる、という一連の流れが一気に説明される。このパートは5分ぐらいで簡潔に描かれるのだが、この中でもユリヤは少なくとも彼氏が3回替わっていることが示される。医学部の同級→心理学科の教授→カメラのモデルという具合に。飽きっぽいとも言えるし、モテモテとも言える。
カメラマンとして活動する中で出会った漫画家のアクセルと付き合い始めて、ある程度は安定した恋人との関係を手にしたように見えるユリヤ。しかし、アクセルの親戚の集まりに参加した際には、他のカップルたちは結婚して子供がいること、アクセルとは10個以上年齢が離れていること、アクセルがたまに子供が欲しいことを仄めかしてくること、でもそれは仕事がひと段落して暇なタイミングの時だけで仕事が忙しい時は子供について関心を示さない、アクセルの都合だけに自分は振り回されたくないこと、などがあって矢張り不機嫌になる。親戚の子供と接してるユリヤの様子を見て、君は良い母親になるよ、というアクセルの何気ない一言にも、ユリヤはいちいち引っ掛かる。
アクセルは人気漫画家で、久しぶりに発表した新作もヒットする。その記念パーティーでユリヤもアクセルを祝福するが、何となくつまらない顔をしてユリヤはパーティーを抜け出してしまう。家に帰るつもりだったが、帰路の途中で見かけた何の関わりもない他人の家で開催されているパーティーにユリヤは何の気なしに紛れ込む。そこで出会ったアイヴィンと互いにパートナーがいることを明かしつつ、羽目を外した一晩を過ごす。その日、名前も連絡先も聞かずに2人は別れる。
その後、ユリヤが働いてる本屋で2人は再会する。互いの連絡先は聞かない約束だったが、アイヴィンは自身の職場の住所を置いていく。そして、翌朝、アクセルが先に起きているリビングにユリヤも起きてきて部屋の電気を点けようとスイッチを押した瞬間、ユリヤ以外の時間が止まる。全ての時間が止まっている中、ユリヤは駆け出してアイヴィンに会いに行くのである。
この時が止まるという演出、なかなかに秀逸だと思う。恋愛をキラキラしたステキなものとして描くと同時に、不可思議で馬鹿っぽくて理不尽なものとしても描いている。
時間が止まった世界でアイヴィンと一晩過ごした後にユリヤはスイッチを点けて再び世界が動き出したと思ったらすぐにユリヤはアクセルに別れを切り出す。ユリヤとアイヴィンの逢瀬を 時が止まった世界=非現実世界 で行われたものとすると、時系列的な矛盾が生じる。ユリヤはアイヴィンといつ会って、いつアクセルと別れる決心をつけたのか。ファンタジーな表現にそんなツッコミをしてもという話かも知れないが、この自分たち以外のすべての時が止まる様子は、恋に夢中になると周りのことが見えなくなることを表現しているのは言うまでもないだろう。それと同時に理屈を超えた勢いがないと恋は進まないこと、周りが止まってるんじゃなくて2人が勝手に進んじゃってることを表現しているようにも思えた。
言ってしまえば恋はめちゃくちゃなのである。良くも悪くも。
アクセルに別れたいことを告げるユリヤ。別の男がいるのかと問われるが、そうではなくて、あなたといると自分の人生なのに主人公でなくモブを演じているような気持ちになる、自分の人生を生きたいの、とユリヤは言う。嘘を方便で乗り切ろうとしているが、この方便も本質的には真実ではない。
私が『センチメンタル・バリュー』を『わたしは最悪。』の続編のように感じたのは、『センチメンタル〜』で主人公のノーラは大観衆の前に主役として立つ舞台俳優になっているからだ。ノーラはユリヤ役のレナーテ・レインスヴェが演じている。そのノーラが自身が主演の舞台の幕が上がる直前(何なら開演時間はとっくに過ぎてる)なのに逃げ出そうとするところから『センチメンタル〜』は始まるのである。ユリヤとノーラは別人だが、性格がそっくりだ。問題と正面から向き合わずに逃げ出そうとする癖があるのだ。
その点はアクセルにもバレていて、アクセルは必死に引き留めるが、説得も虚しくユリヤは出て行ってしまうのだった。
アイヴィンと暮らし始めて、ユリヤは自然体でいられる幸せを感じていた。しかし、それでも何とも言えない物足りなさは感じている様子。その物足りなさの原因は相変わらず自分でも掴めない。
そんな折に、アクセルがフェミニストがMCの番組にゲストで出ているのをテレビで見かける。アクセルの漫画はエログロアングラなんでもアリで、社会問題を皮肉に風刺するブラックコメディな作風だった。その中の差別表現は以前から問題視されていたが、その番組では女性蔑視の表現者としてアクセルは叩かれまくっていた。一時代を築いたアクセルだったが、落ち目の漫画家としてそんな扱いを受けていたのだった。
その様子をテレビで見てる時のユリヤの表情がまた絶妙だ。感情を読み取るのは難しいが、たぶん嬉しそう、という顔をしている。
しかし、その後、町で偶然に再会したアクセルの親戚から、彼が膵臓がんにかかったことを知らされるのである。彼ががんになったこともショックだし、知らされてなかったこともショックだし、知らなかったとはいえがんになった彼が衆目の前で恥をかかされてるところを見て喜んでしまったことにも罪悪感を覚えてくる。ユリヤが家に帰ると、アイヴィンがユリヤが書いた文章が面白いと誉めてきた。ユリヤが書いたけどボツにしてゴミ箱に捨てた文章をたまたまアイヴィンは見つけて読んだのだ。アイヴィンはユリヤに文章を書く才能があると絶賛するのだが、ユリヤは全く喜ばずに勝手にゴミ箱を漁るなんてどうかしてるんじゃないかとアイヴィンを攻め立てる。完全に八つ当たりである。
その後、ユリヤはアクセルに会いに行く。
アクセルはユリヤに会えたことは喜んだが、性格はすっかり自虐的になっていた。自分は多くの作品を書いたけど、それも全て過去のものになってしまった。皮肉も芸術と思っていたが、それも時代遅れだ。未来のことも考えられないし、自分には何もなくなってしまったんだ、と。
そんなアクセルに対して、ユリヤはそんなことはない、私はあなたにずっと嫉妬していたのだと、素直な感情を吐露する。死にゆく恋人を見て、ようやく向き合おうとするのである。ユリヤは手遅れにならないと向き合えない。でも、その頃には遅いのである。
また、ユリヤはアイヴィンとの子を妊娠していた。アイヴィンも、ユリヤ自身も、子供は望んでいなかった。何より母親になれる自信が全くなかった。自分勝手な性格は自覚しているから、こんな私が母親になれるわけがない、と。
そんなユリヤに対して、アクセルは君はいい母親になるよ、と励ます。昔、僕が君に言っていたことは嘘じゃない。君は今の彼と別れようとしているんじゃないか?君は行き詰まると男を捨てる癖がある。彼と話し合うんだ、と。そして、ユリヤに対して、君は僕の生涯の恋人だった、と告げる。僕の人生を思い返すと君との日々が輝いていた。君は最高だ、と。
タイトルの伏線回収がここで行われる。皮肉は時代遅れと言ったアクセルの言葉が、この映画のタイトルとして使われるほど最大の皮肉として響く。
ユリヤはアイヴィンに妊娠したことを告げるも、アイヴィンは良くも悪くもない反応で、具体的な話し合いもできずに日々は過ぎていく。
アクセルと思い出の場所を訪ねていくユリヤ。病状が悪化して弱気になったアクセルは「本当は君と幸せに生きたい」とこぼす。その晩、親戚からアクセルの容体が悪化し、今晩が山だと電話で告げられる。しかし、ユリヤは駆けつけることも出来ず、ただ海辺で呆然と過ごす。
また、シャワーを浴びていると股の間から血が流れてくる。流産したのだ。そのことを確認したユリヤは笑顔とも取れる表情を見せる。
数年後、カメラマンとしての仕事をするユリヤ。ふと外を見ると、アイヴィンが別の女性と子供を連れて歩いている。
仕事を終えたユリヤは、アイヴィンともアクセルとも暮らしていた部屋ではない家に帰り、撮ってきたカメラの写真をパソコンで整理しているところで映画は終わる。
『わたしは最悪。』を最初に観た時は、すごい今っぽいなと思ったが、観直して思い出したのは安野モヨコの『ハッピー・マニア』だった。『ハッピー・マニア』が連載されていたのは95〜01年で、今から20年以上も前の作品だ。
『ハッピー・マニア』は主人公のシゲタが“全身がふるえるほどの幸せ”を求めて奔走する物語である。もとい、幸せを求めて次々とろくでもない男に引っかかり続ける話である。シゲタには慕ってくれるタカハシという男もいるが、タカハシのことだけは認めようとせず、見てくれは良いけど絶対に幸せにはなれなそうな欠陥付きのイケメンばかりを追いかける。タカハシは凡庸だが誠実な男である。だが、シゲタは「あたしはあたしのことスキな男なんてキライなのよっ」と突っぱねる。
『ハッピー・マニア』は自分の望む幸せを追い求め続ける話といえば聞こえは良いが、ろくでもないイケメンに引っかかっては次のろくでもないイケメンを追いかけ、ありきたりかも知れないが程よい幸せを提供してくれそうなタカハシからは逃げ続けるのである。その姿は自分の等身大に見合った幸せとは何なのか具体的に考えることから逃げ続けているようにも見える。
『ハッピー・マニア』最終回では何だかんだあってタカハシのプロポーズを受け入れたシゲタが結婚式直前で逃亡を匂わせるところで終わる。追い詰められると男を替えるユリヤと、自分の主演舞台から逃げ出そうとしているノーラと、シゲタの3者は重なって見える。
『わたしは最悪。』は2021年、『センチメンタル・バリュー』は2025年の映画だ。『ハッピー・マニア』で「女性の猛烈に幸せになりたい気持ち」は描かれはしたものの、その具体的な幸せな形は20年経っても未だに見つかっていないということなんだろう。
ハリウッドスター同士のカップルが結婚と離婚を繰り返しまくっているのを見ると、お金や社会的地位が同列になると結婚のシステムは破綻するものなのだなあと感じる。
もちろん、結婚が幸せの全てではないし、むしろ結婚はゴールではなく新しい生活形態のスタートだし、そもそも必ずしも結婚する必要だってない。これさえあれば幸せ、なんて確定条件もないし、どんな状況だって不満は生まれる。
ユリヤやシゲタに必要なのは、自分で幸せを築いていくんだ、という覚悟ではないだろうか。人生の選択肢なんて幾らでもあるし、増してや情報に溢れている現代だと、もっと良い条件があるのではないか、と目移りしようと思えば幾らでも出来てしまう。どこかで腹を決めて、私はここで幸せになるんだ、と踏ん張らないといつまで経っても自分らしい幸せは手にすることが出来ないのではないか。
ユリヤがアクセルと向き合うようになるのが彼に膵臓がんが見つかってから、というのが象徴的だ。身も蓋も無いことを言えば、彼が死にそうにならなければ、ユリヤはアクセルと向き合うことはしなかっただろう。だが、結局アクセルの死そのものにはユリヤは向き合わない。子供の誕生、自分が母親になることに対しても、流産によって向き合うことから逃げおおせる。
ユリヤが幸せになりたいのはわかった。
ではその幸せはいったいどこにあるのか?
その問いに一応の答えを出したのが『センチメンタル・バリュー』だった。
『センチメンタル・バリュー』では主人公のノーラが父親のグスタフと向き合わずに逃げまくる。が、最終的には妹のアグネスの手を借りて、グスタフの方はレイチェルという女優の手を借りて、お互いに親子として向き合うことに成功する。
女性の幸せがどこにあるのかが分かるわけでは決して無いが、一つの落とし所には落ち着ける。闇雲に走り回ってたユリヤやシゲタも報われるというものだ(?)。
『わたしは最悪。』も『センチメンタル・バリュー』も女性の心理がよくわかっているなと思うが、監督も脚本も男性なのが凄い。
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インコさん主催、高円寺アート&コメディフェスティバルのスタンダップコメディライブに出ます。




詳細
予約
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舞台『俺節』に出ます。
東京公演 2026年6月10日(水)〜30日(火)@東京建物Brillia HALL
福岡公演 2026年7月8日(水)〜12日(日)@キャナルシティ劇場
大阪公演 2026年7月19日(日)〜8月2日(日)@SkyシアターMBS





