プラスの主張とマイナスの気遣い
こういう夢を見た。
大喜利大会に参加したのに、一人一人の回答が長すぎて、何かの研究会か討論会のような変な空気になる。オモシロ俳優枠として呼ばれたのに何だかなと思っていたところに、歌の能力を買われてバンドに加入する。しかし、いざ初めてみると何故かベースをやらされ、出来ないと言っても聞いて貰えない。どうしようと思っていたらものすごいフェスに参加することになり、メインのMrs.GREEN APPLEの前座で演奏させてもらえることに。でも自分はベースなど全く弾けない。どうしようと思っていたら、自分たちのバンドの演奏が始まってしまった。しまったトチった怒られる!と思ったけど、ミセスのリハでも弾いていた三味線ベースの格好いい人が自分の代わりにバリバリ弾いていた。実質上のクビか…とトボトボ歩いていたら、陽気なお兄さんに絡まれ、大楽屋のようなところに連れて行かれた。そこにはそのお兄さんの仲間だという人たちが何十人もいて、大人数でバンドをやっているんだ、今日から君もここのメンバーだ!ヒュウ〜〜!!と盛り上がってる中に、最初の大喜利会場にもいた誰かを発見、それはどんぐりたけしだった…!というところで目が覚めた。
とりとめのない内容だが、夢の中の自分の境遇に共感を覚えた。
ベースが弾けないのに何となくやらされるところや、出来ないことを強く主張しないところ。また、期待された上でふいっと諦められるのでは、ということを強く恐れている気持ち。最近の自分はそこに強く怯えている。
演劇を始めて15年以上、小劇場に立つようになって10年以上は経過しているので、流石に若手と言い張るには無理のある、中堅の役者としか言いようのないポジションに自分は今、立っている。出来ることもそれなりに増えてきたので、役割的に大事な仕事を任されることもある。所属も無くなって完全なフリーのため、ここは頑張り時だ。その気負いが上記の夢を見させたのだと思う。しかし、このように気負って仕事に臨むやり方は、本来の自分とは合ってない気もしている。元々自分は自己主張するのが苦手だ。というか、嫌いだ。
何をしている時が楽しいの?とよく聞かれる。今まさに楽しいと思っていたところに聞かれる時もあるので、そういう時は結構ショックである。
楽しい時は楽しいという感情が伝わりやすいように分かりやすく表現しないといけないのか?しかし、そうするとそれは嘘の楽しさになるのではないのか。さっきまでフツーに楽しかったのに、誇張して楽しさをわざわざ伝えないといけないのか。
自分は何というか、場が良い形に収まるのであれば、そこに積極的に自分が関与していなくても良い、と考える節がある。
気遣いには何かしてあげる気遣いとあえて何もしない気遣いがあると思うが、自分は選べるのであれば後者を選ぶことが圧倒的に多い。
例えば、学童で子供を見ている時、一人で退屈そうにしている子がいれば話しかけて適当に一緒に遊ぶが、やってるうちに子供が増えてきて、自分が抜けても成立しそうだとさっさと抜けてしまう。子供が増えてもブン回し続けて遊びの輪をひたすら広げていくタイプの人もいるが、自分は成立するかどうかを側で見て問題がありそうだったら介入する、ぐらいのスタンスである。
こういう性質は子供の頃からあって、大人数のイベントの時など、みんなが楽しそうにしてるならそれで良い、と思っちゃうところがある。
社会科見学で数人しかやれない実験の時など、やりたい子たちがめっちゃ手を上げてる時などは絶対に手を上げないし、逆に誰も手を上げなくて進行が進まない時は手を上げてたりしていた。
部活では副部長も部長もやったことがある。部長をやった時は誰もやりたい人がいなかったので、自分がやるしかないだろうな、という気持ちだった。副部長の時は、部長に選ばれた子が実力的に一番で、その相方だったから選ばれたという感じだった。部長の子の抜けてる部分をフォローする役目だったので性分には合っていたように思う。部長の時は、こういう風にやりたい!という気持ちより、こういう風に動けば付いてきてくれるかな、という感じでやっていた。凄い良い言い方をすれば背中で語るタイプだった。グイグイ引っ張れている感じはしなかった。
端的に言ってしまえば、自己主張するのが苦手なのだ。目立つことも好きではない。なら何故、役者をやれているのか、とよく言われるが、役者には自己主張する余地があまり無いからだと思う。脚本があって、言うべき台詞があって、演じるべき役があって、プロデューサー・演出家・観客が望んでいる姿を見せられるよう、持ち得る技術を全て使って応える仕事が役者だ。
自分が美大でデザインを学んだことも大きい気がする。うちは家族全員美大出身なのでアーティスト一家と言われることが多いが、家族全員、デザイナー気質だ。アートとは、世に訴え問い掛けるモノであり、アーティストはそれを創る者、つまりは自己主張の塊である。しかし、デザインというのは欲求とその受け手の橋渡しをするのが仕事だ。如何に繋げるかが重要なのであって、そこに自分の主張は必要ない。アーティストは企画を立案するプロデューサーや脚本家の方で、役者はデザイナーに近いものだと常々思っている。役者が自分の気質に合っているから、今まで役者として活動してこれたのだろう。
でも今は、このまま役者だけを粛々としていれば何とかなるとは全然思っていない。どう考えても自分で作品を作って発表していかないといけないフェーズに突入している。
役者の仕事だけで食っていけるのは、とんでもない魅力と技術を兼ね備えたスーパー役者のみである。そして全く自分の意思を持たないことも条件として必要だ。ここまでの文章を読めばわかるように、自分は結構メンドくさい性格である。意思がないように見せかけて、めっちゃある。これだけ意思がある場合は、自分で発信していかないとウソになる。嘘があると、役者はダメになる。すぐ病む。だから、発信していかなければならない。役者であり続けるためにも。
つまり、今、自分がやりたいことはバリバリ作品を作って発表していくことなのだが、一方で自分の得意なことはどちらかと言えば、自己主張の強い・やりたい意思が強い者のフォローであって。でも、今なりたい自分とそれは違って、自分もそっち側に回る覚悟を持つために腹を括らなきゃいかんのよな〜…という葛藤が現れてるのが冒頭の夢だったのだと思う。
ミセスのバンドで弾いていたベース三味線の人はめちゃくちゃロックで格好良かったし、そういう人に憧れもするけど、研究会みたいな空気の中でも粛々と大喜利を答えつつフツーに楽しそうにバンド活動をやっているどんぐりたけしのような人にも、私はなりたい。
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