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役者の仕事は矛盾を体現すること

『俺節』の大阪公演の合間に、みれん横丁のような、かつてドヤ街と呼ばれた地域を散歩した。
駅前には食事の配給所が店舗を構えて存在しており、常在していることがわかる。しかも駅の改札を降りてすぐのところにあるのだ。この地域において重要度が高いということだ。
日陰には順番を待っているのか、ただ集まってダベっているのかは知らないが、結構な人数が集まっていた。
高架下を抜けると商店街があり、昼間からやっている立ち飲み屋さんがたくさんあった。酒飲みでもなく一見さんの私にはハードルが高すぎて入ることは出来なかったが、どの店も平日の昼間にも関わらず割と混んでいた。
有名な「居酒屋で覚醒剤を売るな!」のポスターも見た。パチンコのキャラクターが非常に大らかなデザインだった。

『俺節』原作や他の資料で知ったドヤ街の印象からすれば、かなりキレイに整備されていたが、何となく染みついた空気のようなものは感じられた。
空気の染みついた地域は結構広くて、歩いているとしばらく続いたが、急にめちゃくちゃ豪華で巨大なホテルが現れた。小さな商店街なら含んでしまうぐらいのホテル。人間臭い町と小綺麗なホテル、その落差は凄かった。
せっかくなので通天閣まで歩いた。東京で言うと浅草のようなノリで観光地化されていたが、昔ながらの猥雑な部分も目につく形で残っていた。観光地にありがちな汚いところは蓋をして隠すことをせず、開けっぴろげにしているのは何となく大阪っぽいと思った。
そのまま自分の泊まっているホテルに戻り、夕方に1ステージ『俺節』の公演をやった。

『俺節』はいつも自分が出ている小劇場の舞台と違って、かなり大規模な公演だった。あまり小劇場演劇・商業演劇と区別してもしょうがないとは思っているものの、違うものは違うんだからしょうがない。
何せ1ステージにつき1300人も入るのだ。私が10年以上所属したPeachboysの最高動員数は1100人ちょっとだ。しかもその時は下北沢のシアター711で20ステージ敢行するという、無茶な企画で何とか1000人以上動員することが出来たのだ。それを1ステージで覆されるのである。更にそれを44ステージもやるのである。そしてその数のチケットがあっという間に完売してしまうのである。もちろん宣伝部の努力の結果ではあるにしても、この落差は凄すぎる。クラクラする。

しかもチケット代は14000円もするのである。
ご時世もあるし、色々な事情があってこの値段なことはわかるが、端的に言ってこの値段はめちゃくちゃ高い。演出の福原さんも、この値段を取ることは常に意識してくださいと言っていたし、その値段に見合う作品だったという自負はあるものの、14000円は高い。絶対に高い。逆にその感覚は持ってないといけない。

そしてその金額を払ってもらったお客さんに見せていたのが、ドヤ街やストリップ小屋を中心とした社会のドン底を這いずり回る人々の世界。観客の中にその世界の当事者の人たちは恐らくいない。かつてその世界に触れていた人が来る可能性はあるかも知れないが、真っ只中にいる人はこの金額を出してわざわざ演劇を観に来ることはないだろう。
相当の余裕がなければ、14000円はおいそれと出せる金額ではない。

演劇の難しいところは本来届けるべき範囲に届かないところである。
例えば、社会的なテーマを扱っても、劇場にわざわざ足を運んで観に来てくれる人は、元々そのことに興味がある人だ。
しかし、一方で、全くそのことに関心がなく、知るべくもない人には届けようがない。特に社会的なテーマのものは、本来は全く知識として持ってない人にこそ届ける意義があるが、そういった人に高い金額を払って劇場まで観に来て貰うことは至難の業である。
もちろん観に来てくれる人には最大級の感謝である。毎回気にかけて観に来てくれる人はめちゃくちゃ有難い。マジ愛してます。
ただ届かないところに届かない虚しさ、というものが演劇はどうしても付き纏ってくるのである。

いや今回の『俺節』に関しては、『俺節』を楽しみたいお客さんには確実に届いていたから、届けるべき人に届いていたと思う。
Peachboysだって下ネタ童貞のバカな物語が好きな人たちには一定数届いていた。もっと届けたいと思いつつも、天井を叩いた感覚があったから解散した。
私は基本はコメディの人間だが、他所に出して貰う時は社会的なテーマを扱った作品に出ることも多い。そういった場合は上記のような葛藤を感じることも多い。

作品の内容と、お客さんに足を運んでもらうこと、実際の集客数、これらのことは演劇人は常に悩んでいるし、そして毎回結論として、自分のやれること・やりたいことを全力でやるしかない、ということになる。
『俺節』でも主人公コージに師匠である大野が歌に関して説くシーンがある。

お前が、日々のあれこれに打ちのめされて歯をくいしばっているような場面で、お前の頭の中でいつかの俺が発した詞とメロディが鳴り響いたなら、その時初めてそれは歌と呼ばれるものになる。俺はそう思っている。

だからな、コージ、自分の歌が果たして本当に歌だったのかなんてすぐにはわからねえぞ?それは、聴いた何十年もあとにやってくるかもしれねえからだ。

このことは全ての表現に当て嵌まることで、自分が届いてるかどうか云々と考えたことすら、そもそも烏滸がましいかも知れないことで。
届いたかどうかは、受け手が人生を過ごす中でしかわからないことで、発する側にはわかりようもないのだから、四の五の言わずにやるしかないのである。

と言って、ガムシャラに進んでいくだけでは悩む前と変わってないやんけ。

いや大野さんの言う内容は尤もだし、実際に凄く響いて、それこそ演劇活動を続けていこうとしている私が今後の人生で思い返すことが何度もありそうと思っている。かと言って、ウチは自分のやりたいことを突き詰めるんや!と無邪気にはしゃいでるだけではダメだ。あなたは何がしたいの?と言われて、それは受け手の響き次第なんで私は私のやりたいことをやるだけです!というスタンスではアホである。大野さんの言葉に甘えてはいけない。

私は役者の仕事は矛盾を体現することだと思っている。
よく台詞を言う時は逆の感情で言え、と言われるし、台詞と台詞の合間の行間を表現しろ、とも言われる。脚本を読んで伝わるのであれば、役者が実際にやる必要はないし、想像の余地があるところに創造の余地はある。

自分のやるべきことをやる、といって突き詰めていくと、大抵は矛盾にブチ当たる。演劇なんて舞台上でも舞台外でも矛盾することばかりである。
その矛盾に具体的な答えを提示していくことが役者の仕事なのだと思う。
その具体的な形は役者によって全然違うものになっていく。

『俺節』を終えて、ここ最近の私はブログを頑張ろう、ということにしてる。これは、9月に自分のソロライブでスタンダップコメディをやるので、その台本も書くために文章の勘を高めないといけないことと、このように理屈を組み立てながら演技を作るタイプなので、このことが役者としての自分を高めていくことにもなると信じているからです。
あなたは何がしたいの?という問いに対する私なりの答えが、今んとこコレなのだが、自分のやりたいことを具体化していくためには、もっと手を動かさないとですね。


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