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温故知新(160)孝元天皇(天手力男命 宇遅比古命 宇能遅比古命 宇摩志麻遅命) 天石門別神社 スカラ・ブレイ 戸隠神社奥社 モン・サン・ミシェル 手力雄神社 クサール・ヌアイラ 田出井山古墳 物部伊莒弗 石上神宮 ジェッダ 

百舌鳥古墳群 方違神社 物部大母呂隅足尼 四天王寺 大阪城 坂上田村麻呂 履中天皇 淡輪ニサンザイ古墳 備前車塚古墳 牛窓神社 岩戸神社 オリンポス山 眞名井神社(籠神社奥宮) 中宮寺跡 天寿国曼荼羅繍帳 劔山本宮劔神社 出雲大社 金刀比羅宮 宇能遲神社 海潮神社 八重垣神社 

孝元天皇(宇摩志麻遅命)と田出井山古墳
 田出井山古墳(大阪府堺市)は、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、5世紀中頃の築造と推定されています。天皇陵に比定されている百舌鳥耳原三陵のなかで、他の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(仲姫命と推定)と比べて規模がかなり小さいことから、反正天皇陵であることを疑問視する意見も多くあります。

 前方部側の北東角の内濠に方違神社境内が接するようにあり、社伝では、崇神天皇8年に、勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原に遣わせて須佐之男神を祀らせたのを創始としています。

 田出井山古墳の中心線を、前方部から後円部方向に延長すると、崇神天皇の創始と推定される四天王寺五十瓊敷入彦命の城があったと推定される大阪城、大阪府茨木市にある天手力男命(あめのたぢからおのみこと)を祀る天石門別神社(茨木神社奥宮)があります(図1、2)。このラインは、石上神宮と、京都御所や神武天皇社とレイラインでつながるジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。

図1 石上神宮、田出井山古墳、天石門別神社を結ぶ三角形のラインと四天王寺、大阪城、石上神宮とジェッダを結ぶライン、淡輪ニサンザイ古墳
図2 図1のラインと田出井山古墳

 天石門別神社(茨木市)は、807年に坂上田村麻呂が「荊切(いばらき)の里」を作った際に鎮座されたと伝えられていますが、岩戸別神社(栃木県塩谷郡塩谷町)の祭神の天手力男命は、孝元天皇と推定されるので、天手力男命は、東漢氏の坂上田村麻呂とは関係がないと思われます。坂上田村麻呂は、天石門別神社(茨木市)に天児屋根命を祀ったのではないかと思われます。

 田出井山古墳は、物部氏の祖の宇摩志麻遅命(孝元天皇と推定)や物部氏の総氏神の石上神宮と関係付けられていることなどから、物部氏の墓と推定されます。田出井山古墳と同じく、5世紀中頃の天皇陵を調べると、5世紀中-後半頃の淡輪ニサンザイ古墳(大阪府泉南郡岬町)がありました。第17代履中天皇の陵墓と推定される淡輪ニサンザイ古墳は、田出井山古墳の比較的近くにあります(図1)。

 物部伊莒弗(もののべ の いろふつ、いこふつ)は、履中天皇に仕え、『先代旧事本紀』「天孫本紀」によれば、宇摩志麻遅命(孝元天皇と推定)10世の孫で、履中・反正天皇の時代に大連になり、石上神宮を奉斎したとされます。これらのことから、田出井山古墳は、物部伊莒弗の墓と推定されます。

孝元天皇(宇志比古尊、天手力男命)
  岡山県美作市の天石門別神社(あめの いわとわけ じんじゃ)と孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳(岡山市中区四御神・湯迫)を結ぶラインは、岡山県和気郡和気町岩戸の石門別神社の近くを通り、このラインは、天照大御神が隠れた岩と伝わる岩戸神社(兵庫県洲本市上内膳)と、天照大御神(倭国香媛)の陵墓と推定される楯築遺跡とレイラインでつながるオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。天石門別神社(美作市)は、言い伝えによると吉備津彦命が吉備国平定の手助けをした天手力男命への御礼として自ら奉斎したとされます。備前車塚古墳と岩戸神社を結ぶラインの近くには、孝元天皇(宇志比古尊と推定)と関係があると推定される牛窓神社(岡山県瀬戸内市牛窓町)があります(図3)。これらのラインは、天石門別神社の祭神の天手力男命が孝元天皇と推定されることと整合します。

図3 岩戸神社、天石門別神社(美作市)、備前車塚古墳を結ぶ三角形のラインと天石門別神社(和気町)、牛窓神社、岩戸神社とオリンポス山を結ぶライン

 孝元天皇(大国主命と推定)が天手力男命とすると、邪馬台国の中心地域にあったと推定される高砂山(岡山県瀬戸内市邑久町山手)にある孝元天皇を祀っていたと推定される八幡宮(重高大垣八幡宮)の拝殿の天井に、「天の岩戸」の絵が飾られている理由がわかります。

 岩戸別神社(栃木県塩谷郡塩谷町)と天石門別神社(和気町)を結ぶラインは、大阪府茨木市にある天石門別神社(茨木神社奥宮)と大國魂神社(府中市)とつながるオークニー諸島にあるスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、眞名井神社(籠神社奥宮)の近くを通ります(図4)。

図4 天石門別神社(茨木神社奥宮)、岩戸別神社(塩谷町)、天石門別神社(和気町)を結ぶ三角形のラインと天石門別神社(美作市)、天石門別神社(茨木神社奥宮)とスカラ・ブレイを結ぶラインと眞名井神社(籠神社奥宮)

 戸隠神社奥社(長野市)の祭神は天手力雄命ですが、戸隠神社奥社は、和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群と、孝元天皇の皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命、少彦名命、事代主神と推定)の陵墓と推定される姫塚古墳を結ぶラインの近くにあります

 戸隠神社奥社は、岩戸別神社(塩谷町)とほぼ同緯度にあり、戸隠神社奥社と天石門別神社(美作市)を結ぶラインは、天石門別神社(茨木神社奥宮)と丹生都比売神社や摩耶山とつながるモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。

図5 天石門別神社(茨木神社奥宮)、戸隠神社奥社、天石門別神社(美作市)を結ぶ三角形のラインと岩戸別神社(塩谷町)、天石門別神社(茨木神社奥宮)とモン・サン・ミシェルを結ぶライン

 天手力男命は、岐阜県各務原市の手力雄神社や、徳島県名東郡佐那河内村の天岩戸別神社でも祀られています。手力雄神社と天岩戸別神社(佐那河内村)を結ぶラインは、中宮寺跡(奈良県生駒郡斑鳩町)と、高天原やアトランティスの都市があったと推定されるクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインの近くに天石門別神社(茨木神社奥宮)があります(図6)。クサール・ヌアイラは、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳箸墓古墳聖徳太子と関係があると推定される音羽古墳群とレイラインでつながっています。

図6 中宮寺跡、手力雄神社、天岩戸別神社(佐那河内村)を結ぶ三角形のライン、中宮寺跡とクサール・ヌアイラを結ぶラインと天石門別神社(茨木神社奥宮)

 中宮寺には、倭迹迹日百襲姫や孝元天皇と関係があると推定される「天寿国曼荼羅繍帳」があります。「天寿国」とは、聖徳太子が亡くなった後に行ったとされる、阿弥陀如来の住む西方極楽浄土のことです。図6のラインから、「天寿国」と「高天原」がつながります。

 クサール・ヌアイラは、約1万年前から5000年前頃にかけて緑豊かな温暖で湿潤な気候だったと推定され、ブッダガヤの大菩提寺ともレイラインでつながっているので、西方極楽浄土だったのかもしれません。もしかすると、出雲大社の大国主命が西を向いているのも、そのためかもしれません。

 クサール・ヌアイラと出雲大社を結ぶラインの延長線付近には、金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)や、白兎神社とつながる劔山本宮劔神社(徳島県美馬市)があります(図7)。

図7 クサール・ヌアイラと劔山本宮劔神社を結ぶラインと出雲大社、金刀比羅宮

孝元天皇(宇遅比古命、宇能遅比古命)
 
紀国造の祖である宇遅比古命も孝元天皇と推定されますが、「宇遅比古命」をGoogleAIで検索すると下記のように紹介されました。『出雲国風土記』に登場する「宇乃治比古命」や「宇能遅比古命」も孝元天皇と推定されます。

紀国造の祖 宇遅比古命の妹・宇遅比女(亦は山下影日売とも云)は、孝元天皇の皇子 彦太忍信命の児 屋主忍男武雄心命の妻となり、武内宿禰を生む。

出典:武内宿禰を訪ねて(2)真理探究と歴史探訪  

宇遅比古命(うのちひこのみこと)は、『出雲国風土記』に登場する日本の神です。別名として「宇乃治比古命」「宇能遅比古命」とも書かれます。父は須我禰命(須義祢命)とされ、海神や水神として信仰されています。神話と伝承『出雲国風土記』に登場する出雲固有の神(記紀には見られない)。

出典:GoogleAI

 宇能遲比古命を祀る神社には、宇能遲神社(島根県雲南市加茂町宇治)があり、宇能治比古命を祀る神社に海潮神社(島根県雲南市大東町南村)があります。須佐之男命を祀る八重垣神社(島根県松江市)と宇能遲神社を結ぶラインは、海潮神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。このラインから、須我禰命(須義祢命)は須佐之男命(孝霊天皇と推定)と推定され、宇能遲比古命が孝元天皇と推定されることと整合します。

図8 海潮神社、八重垣神社、宇能遲神社を結ぶ三角形のライン、海潮神社とモン・サン・ミシェルを結ぶライン

 孝霊天皇や孝元天皇に多様な名前を付けて分かりにくくしているのは、第10代崇神天皇よりも後の時代の渡来系大和政権によって、風土記などを廃棄されたり、改ざんされたりするのを防ぐためではないかと思われます。丹生氏の系図が暗号的に記されているのも、同様な理由と考えられます。

 もしかすると、古代人が得意とする天文知識や地理的知識を利用してつくられたと推定されるレイラインも、真実の歴史を後世に伝えるためにつくられたのかもしれません。