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本能寺の変1582 【注ポ01】 №6-127 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【注ポ01】 №6-127

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮 1 2 3
2 光秀の実像 1 2 3 4 5 6
3 光秀の苦悩 1 2 3 4 5
4 武田の滅亡 1 2 3
5 信長の油断 1 勝利の余韻
         「事態急変」
         2 四国出陣
         3 足蹴事件
         4 中国出陣
         「時は今」
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

【注ポ01】 №6-127

【記事一覧】【注目ポイント】 目次
【光秀という男】 目次 1/7  目 

これが、光秀の真の姿=実像である。     →【重史241】『日本史』
「本能寺の変」の根本要因の一つとなった。       →【五大要因】

フロイスが証人。               →【人物】 【重史014】
光秀を、よく見ていた(①~㉕) 。

①信長の宮廷に
 惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。
②彼(光秀)はもとより高貴の出ではなく、
③信長の治世の初期には、
 公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していた
④その才略、深慮、狡猾さにより、
⑤信長の寵愛を受けることとなり、
⑥主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
⑦殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、
⑧ほとんどすべての者から快く思われていなかった
⑨寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
⑩裏切りや密会を好み、
⑪刑を科するに残酷で、
⑫独裁的でもあったが、
⑬己を偽装するのに抜け目がなく、
⑭謀略を得意とし、
⑮忍耐力に富み、
⑯計略と策謀の達人であった。
⑰築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
⑱選(え)り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
⑲絶えず信長に贈与することを怠らず、
⑳彼(信長)を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、
㉑彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、
㉒必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
㉓人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習した
㉔信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、
㉕信長は彼を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、
㉖比叡山の大学(延暦寺)の全収入・・・とともに彼に与えるに至った。
                       【重史241】『日本史』



 ⇒ 次へつづく




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