本能寺の変1582 【重史258】 №6-153 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史258】 №6-153
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日 24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3 11日
3 足蹴事件 概略 5月12日 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 15日
足蹴事件 1/3 2/3 3/3
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史258】 №6-153
①その宮殿に隣接し、城を離れた城を離れたる山に上に
②全日本の領主信長はこの寺院を建立し、総見寺と名附けた。
③尊崇する者の受くべき功徳と利益はつぎの如し。
④第一に、富者ここに来りて崇敬すれば、
⑤第二に、生命は延びて八十歳に至り、
⑥今は盲目の極に達し、
⑦これによって己を崇拝させんためであった。
⑧信長は己自らが神体であり、生きたる神仏である。
⑨或人がボンサンと称する石を携え来た時、
「イエズス会日本年報」
信長は、傲慢になっていた。【重史236】←
それが、増長し・・・・・。
「今は盲目の極に達し」、とある。
信長は、安土山に総見寺を建立した。
而してこの嫌忌すべき希望を達せんために、
その宮殿に隣接し、城を離れた城を離れたる山に上に寺院を建築するこ
とを命じ、
この寺院につぎの如く記してその名誉心の欲するところを表した。
これをわが国語に翻訳すればつぎのとほりである。
当日本の大国において、遠方より望む者に喜悦と満足を与ふる安土山城
の山に、
全日本の領主信長はこの寺院を建立し、総見寺と名附けた。
これを大いに尊崇する者の受くべき功徳と利益はつぎの如し。
第一に、
富者ここに来りて崇敬すれば、益々富を集め、
下賤にして憫なる(哀れな)貧者ここに来りて崇敬すれば、この寺院に来
りたる功徳によって富者となるべく、
子女及び後継者なき者家系を続くるために来れば、直に子孫を得、寿を
長じ、平和と安楽を得べし。
第二に、
生命は延びて八十歳に至り、
疾病は癒え、希望、健康及び平安を得べし。
毎月予が誕生の日を聖日とし、この寺院に来るべし。
これを信ずる者は必ず彼に約束するところのものを得べく、
これを信ぜざる邪悪の人は、現世においても来世においても亡ぶるに至
るべし。
信長は、自身を崇拝させようとしていた。
聖職者フロイスの目には、そう写っていた。
「本能寺の変」
その僅か五ヶ月後の報告である。
生々しい。
前に述べたる如く、信長は政治を始めて以来常に神仏の崇拝を意としな
かったが、
今は盲目の極に達し、悪魔に勧められて大いに尊崇された偶像を諸国よ
り安土の寺院に持来った。
ただしこれを崇拝させるためでなく、これによって己を崇拝させんため
であった。
日本においては神の宮には通常神体と称する石がある。
神体は神の心また本質といふことであるが、
安土山の寺院には神体はなく、
信長は己自らが神体であり、生きたる神仏である。
世界には他の主はなく、彼の上に万物の創造主もないと言ひ、
地上において崇拝されんことを望んだ。
家臣等もまた信長自身に対するほか崇拝すべきものはないと明言し、
同所に集めた偶像に劣らざる崇拝を致さんことを望んだ。
或人がボンサンと称する石を携え来た時、
彼は寺院の最も高き所、諸仏の上に壁龕(へきがん)を造らせ、ここにそ
の石を置いた。
(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付)
→【重史052】
天文三年1534、五月十二日。
織田信長が生まれた。
かくの如く驕慢となり
【引用】5月12日 5/5
⇒ 次へつづく
