本能寺の変1582 【重史53】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史053】 『信長公記』
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【重史053】 そ第157話①
備後守、あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて、
『信長公記』
天文十一年1542
織田信秀と今川義元の戦いが始まった。
今川軍が、西三河に攻め入った。
義元は、尾張への進出を企んでいた。
信秀、出陣。
これを迎え撃つ。
信秀は、三河を狙っていた。
第一次小豆坂の合戦。
同年、八月。
両勢力が激突した。
この時、信秀、三十一~三歳(諸説あり)。
八月上旬、
駿河衆、三川の国正田(生田)原へ取り出で、七段に人数を備へ候。
其の折節、三川の内、あん城(安祥)と云ふ城、
織田備後守、かゝへられ侯ひき。
駿河の由原(いはら=庵原)、先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。
織田方の勝利である。
信秀は、激戦のすえ、今川勢を撃退した。
則ち、備後守、あん城より、矢はぎ(作)へ懸け出で、
あづき坂にて、
備後殿御舎弟衆、与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、
既に、一戦に取り結び相戦ふ。
其の時、よき働きせし衆。
織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿。
織田造酒丞(みきのじょう)殿、是れは、鎗きず被(こうむ)られ、
内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名、
那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。
下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・
神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。
三度四度、かゝり合ひ、かゝり合ひ、折りしきて(繰り返して)、
各(おのおの)、手柄と云ふ事限りなし。
前後、きびしき様体、是れなり。
爰にて、那古野弥五郎が頸は、由原討ち取るなり。
是れより、駿河衆、人数打ち納れ侯なり。
(『信長公記』)
信長は、この戦いを忘れない。
信長、九歳の時。
今で言えば、小学1~2年生。
おそらく、幾度となく、この話を聞かされたことだろう。
その事が、深く脳裏に刻み込まれた。
そして、永禄三年1560へ。
「桶狭間の戦い」
これから、十八年後のこと。
その時、信長は、二十七歳に成っていた。
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