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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第157話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第157話① 

はじめに ←目次 
その一因 目次大 目次中 2光秀の年齢と嫡男光慶 (1)光秀の素性 ← 
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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】 
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ第157話①

 【参照】 ←◎第157話 ←第157話
 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
    1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
    2争乱 そ第155話① そ第155話② そ第156話① そ第156話②
        そ第157話① そ第157話②

道三の下剋上2 頼純の家臣 1/2

1540年代、光秀の青年時代。

 天文九年1540~天文十八年1549。
 光秀、十七±四歳~二十六±四歳の時期。

 光秀は、戦国時代の真っ只中を生きていた。

  【参照】その一因 2(2)光秀の年齢 5結論
      そ第77話 ←◎第77話 ←第77話

 天文十一年1542
 
織田信秀と今川義元の戦いが始まった。

 今川軍が、西三河に攻め入った。
 義元は、尾張への進出を企んでいた。

 信秀、出陣。
 これを迎え撃つ。
 信秀は、三河を狙っていた。

  【参照】12 光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83

 第一次小豆坂の合戦。
 同年、八月。
 両勢力が激突した。
 この時、信秀、三十一~三歳(諸説あり)。

  八月上旬、
  駿河衆、三川の国正田(生田)原へ取り出で、七段に人数を備へ候。
  其の折節、三川の内、あん城(安祥)と云ふ城、
  織田備後守、かゝへられ侯ひき。
  駿河の由原(いはら=庵原)、先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。  

 織田方の勝利である。
 信秀は、激戦のすえ、今川勢を撃退した。 

  則ち、備後守、あん城より、矢はぎ(作)へ懸け出で、
  あづき坂にて、
  備後殿御舎弟衆、与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、
  既に、一戦に取り結び相戦ふ。

  其の時、よき働きせし衆。
  織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿。
  織田造酒丞(みきのじょう)殿、是れは、鎗きず被(こうむ)られ、
  内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名、
  那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。
  下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・
  神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。
  三度四度、かゝり合ひ、かゝり合ひ、折りしきて(繰り返して)、
  各(おのおの)、手柄と云ふ事限りなし。

  
前後、きびしき様体、是れなり。

  爰にて、那古野弥五郎が頸は、由原討ち取るなり。
  是れより、駿河衆、人数打ち納れ侯なり。
                     【重史053】(『信長公記』)

  【参照】12 光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83

 信長は、この戦いを忘れない。
 
信長、九歳の時。
 今で言えば、小学1~2年生。
 おそらく、幾度となく、この話を聞かされたことだろう。
 その事が、深く脳裏に刻み込まれた。
 そして、永禄三年1560へ。
 「桶狭間の戦い」
 
これから、十八年後のこと。
 その時、信長は、二十七歳に成っていた。

 徳川家康、生まれる。
 同年、十二月。
 岡崎城主松平広忠の嫡男として誕生。
 母は、刈谷城主水野忠政の娘。
 永禄九年1566、松平姓を徳川に改めた。 →【 人物 】



 ⇒ 次へつづく

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