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本能寺の変1852 その一因 2(1)光秀の素性3 そ第157話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 2(1)光秀の素性3 そ第157話② 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
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 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 

そ第157話②

 【参照】 ←◎第157話 ←第157話
 【参照】 2光秀の年齢と嫡男光慶 ← (1)光秀の素性 ←
    1素性 そ第53話 そ第54話① そ第54話② そ第54話③
    2争乱 そ第155話① そ第155話② そ第156話① そ第156話②
        そ第157話① そ第157話②

道三の下剋上2 頼純の家臣 2/2

天文十二年1543、信長、十歳の時。

 (1)信秀が、内裏に四千貫を献上した。
  信秀は、尾張の商業地帯を支配していた。
  すなわち、経済力があった。 

  
同年、二月。
  内裏に、四千貫献上。
  
築地の修繕費用として。
  奈良にも、その噂が、流れた。
  多聞院英俊は、その額の大きさに驚いている。

   十四日、
   一、或る人、ヽ、
     内裏の四面の築地の蓋(かさ)を、
     尾張の、をた(織田)の弾正、と云ふ物(者)、
     修理して進上申すべきの由、申し、
     はや、料足四千貫計り、計上と云々、
     事実に於いては、不思議の大営(行い)歟(か)、
                    【重史054】(「多聞院日記」)

  【参照】12光秀と斎藤道三 1光秀の少年時代 80
  【参照】12 光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83

 (2)鉄炮伝来
  同年、八月。
  信長が十歳の時である。
  薩摩島津家に仕えた禅僧南浦文之(なんぽぶんし)の著作、『鉄炮記』に
  よれば、
  天文十二年八月、乗員百余人の大船(ジャンク)が種子島に漂着し、

   天文、癸卯(みずのとう)、秋、八月二十五日、丁酉(きのととり)、
   我が西村の小浦(小さな入江)に一大船有り、
   何れの国より来たれるかを知らず、
   船客百余人、
   その形、類せず(風貌が似ていない)、
   その語、通ぜず、
   見る者、以って、奇怪と為す、

  それに乗っていたポルトガル人が「鉄炮」伝えたという。

   手に、一物を携ふ、
   長さ、二、三尺、
   その体(てい)為(た)るや、中は通り、外は直(なお)くして
   重きを以って、質と為す、

   其の中は、常に通ずと雖(いえど)も、
   其の底は、密(きび)しく塞(ふさ)がんことを要す、
   其の傍(かたわ)らに、一穴あり、
   火を通ずるの路(みち)なり、
   形象、物の比倫(=比類)すべきなきなり、

   其の用為(た)るや、妙薬(火薬)を其の中に入れ、
   添ふるに小団鉛(弾丸)を以ってす、
   先ず、一小白(小さい的)を岩畔に置き、
   親(みずか)ら、一物を手にし、
   其の身を修め、其の目を眇(すが)めにして、
   其の一穴より火を放てば、
   則ち、立ちどころに、中(あた)らざる莫(な)し、  

  斯くして、日本と西欧が繋がった。
  歴史的瞬間である。

  それまで、誰も見たことのなかった新兵器。
  これを境に、戦いの有様が劇的に変化する。
  天正三年1575、長篠の合戦。
  その、32年前の出来事。

  【参照】12 光秀と斎藤道三 3光秀の青年時代 83

この年、光秀は、二十±四歳ぐらい。

 これならば、十分である。

  【参照】11光秀の年齢 5結論 
      そ第77話 ←◎第77話 ←第77話
      
☆光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

 光秀は、土岐頼純の家臣だった。
 「美濃国住人、土岐の随分衆なり」 →【重史002】
 おそらく、頼純に仕えていたものと思う。

 光秀にとって、越前は、馴染みの深い国だった。
 頼純にとっては、越前は、母の生国、また、自身の故郷。
 最も、頼りとする、きわめて、重要・大切な国であった。

 光秀は、そのような頼純の家臣なのである。
 主家、正に、危急存亡の秋(とき)。
 光秀もまた、美濃・越前間の山中路を幾度も往還したことだろう。

 以上の観点から、
 光秀にとって、越前は、馴染みの深い国だったように思う。
 このように考えれば、光秀と越前の関係がより明確化する。

 如何だろうか。

  【参照】そ第53話 美濃1 「美濃国住人」 ←◎第53話 ←第53話
      そ第54話① 立入宗継       ←◎第54話 ←第54話  
  【参照】その一因 2(2)光秀の年齢 3光秀と土岐氏
      そ第72話 永正十四年1517~天文十九年1550
                         ◎第72話 第72話
  【参照】16 光秀の雌伏時代 5 遊行上人
      第203話 頼純の反撃~永禄十一年1568



 ⇒ 次へつづく

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