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本能寺の変1582 重要 ◎第57①②~58①②③話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第57①②~58①②③話 

9光秀という男 3土岐氏 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次 
見えてきたもの 目次 
【 重要史料 】 【 人物 】 
*加筆修正 

◎第57話① ◎小57①    第57話

 土岐頼康は、足利尊氏・義詮・義満の時代を生きた。
 
 頼康は、頼遠の兄頼清の子。
  頼貞の孫にあたる。
  文保二年(1318年)生れ、~元中四年/嘉慶元年(1387年)没す。
  足利尊氏・義詮・義満の時代を生きた。【 人物 】

 頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。
  興国三年/康永元年(1342年)。
  叔父頼遠の刑死後、美濃守護を継承。
  正平六年/観応二年(1351年)。
  観応の擾乱での活躍により、尾張守護を与えられた。
  その後、伊勢守護を兼任。

 頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。
 
 濃・尾・勢は、東西交通の要衝地。
  土岐氏は、これら主要三ヶ国を押さえる守護家となった。
  頼康は、尊氏以来の功臣。
  幕府の重鎮。
  将軍家の信任は篤い。

 頼康は、文武両道の人であった。
 
 頼康は、風雅の道にも秀でていた。
  「新千載和歌集」・「新拾遺和歌集」・「新後拾遺和歌集」など、
  勅撰和歌集にも多くの歌を残している。

 光秀にとって、土岐頼康は憧れの人だった。
 
 光秀の明智氏は、土岐氏の一族。
  頼康は、その全盛期を築いた人物。
  一族の誇りであった。
  光秀が、その名を知らぬわけがない。
  幼い時から、幾度となく、聞かされたことだろう。 

 光秀には、頼康と相通じるものがあった。
 
 光秀は、文武両道の人。
  武人としてのみならず、風流の道にも通じていた。
  正しく、土岐頼康と同じではないか。
  心の支えとしていたものと思う。

 光秀は、上昇志向の強い男。
 頼康を、強く意識していた。
 
 手柄を上げて、領地を増やす。
  そのような、時代だった。
  となれば、頼康は、その最たる人物。
  光秀は、頼康を、強く意識していた。

◎第57話② ◎小57②    第57話

 土岐氏は、土着性のきわめて強い一族だった。
 
 土岐氏は、鎌倉期、光衡の代に、美濃に土着した。
  そして、室町初期、頼貞の時、美濃の守護に任ぜられた。
  しかし、天文の終わり頃、斎藤道三によって、土岐頼芸が追放され、
  その美濃支配は終焉した。
  すなわち、土岐氏は、1200年代から~1500年代にかけて、
  300年以上の長きに亘って、美濃に君臨していたのである。

   【参照】◎第55話

 土岐氏は、一族の結束が強かった。
 「土岐の桔梗一揆」
 
 その間に、数多くの、一族・庶流が枝分かれし、美濃の各所に定着し
  て、「土岐一揆」といわれる強力な武士団を形成した。
  これが、土岐氏の軍事力の中核となった。

 土岐氏の家紋は、「桔梗」。
 それ故、「土岐の桔梗一揆」と呼ばれた。

 土岐氏は、一族の数が多い。

  明智氏・浅野氏・饗場氏・池田氏・石谷氏・一色氏・揖斐氏・今峰氏・
  植村氏・大桑氏・大竹氏・小里氏・金山氏・金森氏・神戸氏・島田氏・
  菅沼氏・仙石氏・高山氏・妻木氏・遠山氏・蜂谷氏・原氏・肥田氏・
  深沢氏・舟木氏・世保氏・・・・・等々。 

 明智氏も、その様な家の一つだった。
 
 土岐氏は、清和源氏。
  摂津源氏の流れ、美濃源氏の嫡流家。
  室町幕府の重鎮。
  濃・尾・勢、三ヶ国の守護家。
  正に、名家名門。

光秀の体内には、土岐の血が脈々と流れていた。
 光秀は、土岐明智氏の出。
 家紋は、桔梗紋。
 旗印は、水色地に白抜き桔梗。
 桔梗、すなわち、土岐氏。
 その一族であることは、光秀の誇りだった。

光秀の妻は、妻木氏の出である。
 妻木氏もまた、土岐氏の一族。
 妻木郷を本拠地とし、氏名とした (岐阜県土岐市妻木町付近) 。 
 明智氏の庶流という。
 両氏は、密接な関係にあった。

光秀の妹、妻木氏。
 妻方の妹なのだろうか。
 それとも、実妹か。
 定かならず・・・・・。
 信長の側近くに仕えていたらしい。
 「兼見卿記」と「多聞院日記」に、複数回登場する。 

  【参照】◎第8話 光秀の妹、妻木氏。

光秀と石谷氏。
 石谷氏は、室町幕府、奉公衆の家柄。
 明智氏と同じく、土岐氏の一族である。
 岐阜市石谷を本拠地とし、氏名とした。
 光秀の前半期、当主は、石谷光政。
 出家して、空然を号す。
 光政は、斎藤氏から、養子を入れ、娘聟(姉)とした。
 これが、石谷頼辰。
 斎藤利三の兄である。
 また、下の娘(妹)は、土佐の長宗我部元親に嫁いでいる。
 利三は、光秀の家臣。
 斯くして、光秀と元親が繋がった。
 そして、元親 ━ 光秀 ━ 信長、の関係に至る。
 なれど、・・・・・。
 最後の使者は、石谷頼辰。
 因縁深い家である。【 人物 】

  【参照】◎第146話① 長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。
  【参照】◎第146話② 石谷氏について。
  【参照】◎第146話③ 斎藤氏について。

◎第58話① ◎小58①    第58話

 第三代将軍足利義満の時代。
 
 在職期間 1369~1395年
  生没年  1358~1408年 享年51 【 人物 】  

   【参照】◎第56話②

 義満の略歴。
 
 1358 正平十三年/延文三年  義詮の子として生まれる。
  1368 正平二十三年/応安元年 征夷大将軍に就任。
  1378 天授四年/永和四年   花の御所に移る。
  1379 天授五年/康暦元年   康暦の政変
                   管領細川頼之を罷免。
  1388 元中五年/嘉慶二年   富士遊覧。
  1389 元中六年/康応元年   厳島神社参詣。
   〃    〃   〃      土岐康行の乱 (1389~90) 。
  1391 元中八年/明徳二年   明徳の乱(山名氏を討伐)。
  1392 元中九年/明徳三年   南北朝合一。
  1394 応永元年        将軍職を嫡男義持に譲る。
  1395 応永二年        九州探題今川貞世を罷免。
  1399 応永六年        応永の乱(大内義弘を討伐)。 
  1401 応永八年        日明国交の樹立(日本国王)。
  1404 応永十一年       勘合貿易が始まる(朝貢貿易)。
  1408 応永十五年       急病により死去(享年五十一)。

 義満は、将軍専制政治を目指した。
 
 すなわち、将軍権力の強化。
  しかし、そこには、解決せねばならぬ三つの大きな問題があった。
  一、鎌倉公方の事。
  一、有力守護の事。
  一、南朝勢力の事。

 義満は、富士山を遊覧した。
 
 嘉慶二年1388 (元中五年) 。
  単なる物見遊山にあらず。
  これには、理由があった。
  鎌倉公方、第二代足利氏満 (1359~1398) を牽制するため、である。

 第六代将軍足利義教も、富士山を遊覧している
  義教 (1394~1441) は、義満の子である。
  兄は、第四代将軍足利義持 (1386~1428) 。【 人物 】

  永享四年1432。
  義教もまた、富士遊覧を行っている。
  時の鎌倉公方は、第四代足利持氏 (1398~1439) 。
  同様の理由から、である。

 義教は、信長と比されることが多い。
 
 性格・施策・行動等、似ていると思わせる部分が幾つかある。

  一、義教は、専制政治を行った。

  一、永享四年1432、富士遊覧。

  一、永享六年1434~七年35。
    義教は、比叡山を攻撃し、これを屈服させた。
    根本中堂、自焼炎上。

  一、「万人恐怖」
    義教は、苛烈な性格の持主だった。

     山門(比叡山)の事、是非の沙汰すべからざるの由、仰せらる、
     而(しかれど)も、
     煎物(せんじもの)商人(茶売り)、路頭に於いて、此の事申す間、
     召し捕る、
     忽(たちま)ち、首を刎ねらると云々、
     万人恐怖、言う莫(なか)れ、言う莫れ、
           【 重史 011 】(「看聞日記」*永享七年二月八日条)

     *「看聞日記」は、この時代を生きた伏見宮貞成親王の日記で
      ある。
      親王は、崇光天皇の孫。
      子が、後花園天皇。
      すなわち、同日記は、天皇の父によって書かれた記録である。
      末尾の一行。
      義教への恐怖感が伝わって来る。

  一、嘉吉元年1441。
    義教は、赤松邸に「御成」したところを同氏に襲われ、斬殺され
    た。
    実に、呆気ない最期であった。
    享年、48。

◎第58話② ◎小58②    第58話

 信長は、故事に明るい。
 
 信長は、勉強家である。
  義満のことを、良く知っていた。
  義教のことも、また然り。
  これらに、倣った節がある。 

 信長の富士遊覧。
 
 義満から二百年後。
  
天正十年1582、信長の富士遊覧。
  「歴史は、繰り返す」、のである。

 義満は、厳島神社を参詣した。
 
 康応元年1389 (元中六年) 。
  これにも、理由があった。

 信長と厳島神社。
 
 信長は、甲斐遠征の時、武田氏を滅亡させた後、富士を遊覧しつつ、
  駿河・遠江・三河を経由して安土に帰陣した。

  信長は、平氏。
  中国大遠征の時には、おそらく、毛利氏を滅ぼした後、厳島神社を参詣
  するつもりだったのではないか・・・・・。
  平清盛と同社の深い繋がりを知らぬわけがない。
  「信長は、故事に明るい」、のである。  

 中国出陣の時、信長は、淡路島に本陣を置くつもりだった。
 
 以下は、天正十年1582、信長が、三男信孝に、四国への出陣を命じ
  た時の書状である。
  この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」とある。
  おそらく、信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を、西へ向
  かうつもりだったのだろう。
  その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社である 。
  歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
  華々しい大船団の様子が目に見えるようである。

   今度、四国に至って差し下すに就きての条々、

   一、讃岐国の儀、
     一円、其方に申し付くべき事、
   一、阿波国の儀、
     一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
   一、其外両国の儀、
     信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事

   右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
   国人等の忠否を相糺(ただ)し、
   立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
   政道以下堅く申し付くべし、
   万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
   忠節たるべく候、
   能々(よくよく)、其意を成すべく候也

      天正十年五月七日           ( 朱 印 )
        三七郎殿 
     【 重史 012 】(「寺尾菊子氏所蔵文書」「織田信長文書の研究」)

◎第58話③ ◎小58③    第58話

 将軍義満は、有力守護の弱体化を画策した。
 
 先ず、手をつけたのが土岐氏であった。

 義満は、土岐氏を危険と見た。
 
 表があれば、裏もある。
  義満は、土岐頼康を警戒していた。
  何しろ、濃・尾・勢、三ヶ国の守護。
  東西を分断する交通の要衝。
  「土岐の桔梗一揆」
  その武力は、強大だった。

 土岐頼康が死んだ。
 
 嘉慶元年1387。
  享年、七十。

 土岐康行が頼康の跡を引き継いだ(世安家)。
 
 頼康は、実子がいなかった。
  弟(頼雄)の子を養子(康行)にしていた。

  康行は、従弟の詮直(あきなお)を尾張守護代とし、弟満貞を将軍義満に
  近侍させていた。【 人物 】

 義満は、康行を挑発した。
 
 満貞には、野心があった。
  義満は、それを巧みに利用した。
  満貞を尾張守護に任命。
  土岐氏の分裂を図った。

  嘉慶二年1388。
  満貞が尾張へ下向した。
  詮直がこれを迎え撃った。
  満貞は、京へ逃げかえった。
  義満に、報告。
  一族内の争いが「康行謀叛」へ発展した。

 土岐康行の乱。
 康行は、義満の罠に嵌まった。
 
 康応元年1389。
  追討軍が編成された。
  義満は、一族の土岐頼忠にこれを命じた。

 康行は、没落した。
 
 明徳元年1390。
  謀叛は、鎮圧された。
  康行は、三ヶ国を失った。

 義満は、土岐頼忠を美濃の守護に任じた(西池田家)。
 
 頼忠は、土岐頼清の子。
  頼康・頼雄の弟である。
  幕府方に与し、康行と戦った。
  この家系を土岐西池田家という。
  すなわち、美濃の土岐守護家は、世安家(嫡流)から西池田家(庶流)に
  切り替わった。

  ⑥土岐康行 (世安家) ✖ ― 頼忠 (西池田家) ― 頼益 ― 持益

 土岐氏は、解体された。
 「土岐の桔梗一揆」は、崩壊した。
 以後、土岐氏は衰退への道を歩む。



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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