本能寺の変1582 信長の台頭10 315 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 10三好長慶の死 315
斯くして、三好長慶の時代は終わった。
そして、信長の時代へ。
信長は、犬山城を攻略した。
永禄七年~八年(1564~65)。
年次、定かならず。
犬山の家老が二人寝返った。
程なく、城は落ちた。
一、或る時、犬山の家老、
和田新介、是れは黒田の城主なり。
中島豊後守、是れはお久地の城主なり。
此の両人、御忠節として、丹羽五郎左衛門を以て申し上げ、
引き入れ、生(はだ)か城になし、四方鹿垣(ししがき)二重三重、
丈夫に結ひまはし、犬山取り籠め、
丹羽五郎左衛門、警固にて侯なり。
(『信長公記』)
信長は、謙信へ近況を伝えた。
同じ頃。
両者の交流は、順調に推移していた。
信長から、謙信へ。
書状には、美濃へ攻め入った、とある。
また、犬山落城のことが記されている。
使者は、佐々成政。
其の後、音問(音信)、絶え候、
本意の外に候、
仍(よ)って、先月、濃州(美濃)に相働き、
井口(稲葉山)近所に取り出で、城、所々に、申し付け候、
然れば、犬山、落居せしめ候、
其の刻(きざみ=時)、金山*落居候、
其の外、数ヶ所、降参候条(くだり=~の件)、
宥免せしめ候、
其の上、勢州(伊勢)辺りまで、形(かた)の如く、申し付け候、
直書を以って、申し候条、
具(つぶさ)に、能はず候、
恐々謹言、
九月九日 信長
直江大和守殿
御宿所
猶々、爾来、無音の旨趣(ししゅ=理由)、
佐々、申し入るべく候、以上、
(「歴代古案」)
*金山 美濃、金山城(岐阜県可児市兼山字古城山)。
目次
信長の台頭 10三好長慶の死 314 長慶、没す。
信長の台頭 10三好長慶の死 313 信長と謙信の交流が始まった。
信長の台頭 10三好長慶の死 312 三好長慶が安宅冬康を殺害した。
信長の台頭 8三好の衰退 308 長慶は、義継を後継者に定めた。
信長の台頭 8三好の衰退 307 三好義興が病死した。
信長の台頭 8三好の衰退 306 信長は、於久地城を手にいれた。
信長の台頭 8三好の衰退 305 信長、清洲城から小牧山城に。
信長の台頭 8三好の衰退 304 信長、小牧山に築城を開始。
信長の台頭 8三好の衰退 303 「永禄六年諸役人附」
信長の台頭 8三好の衰退 302 細川藤孝は、「御供衆」だった。
信長の台頭 8三好の衰退 301 三好長治が実休の後を継いだ。
信長の台頭 8三好の衰退 300 畠山方は、総崩れになった。
信長の台頭 8三好の衰退 299 教興寺の戦い。
信長の台頭 8三好の衰退 298 三好義興が後詰の軍勢を率いた。
信長の台頭 8三好の衰退 297 畠山氏は、飯盛山へ攻め上った。
信長の台頭 8三好の衰退 296 実休は、討死した。
信長の台頭 8三好の衰退 295 本陣がガラ空き状態になった。
信長の台頭 8三好の衰退 294 久米田合戦の事。
信長の台頭 8三好の衰退 293 十河一存の死。
⇒ 次回へつづく
