本能寺の変1582 【重史128】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史128】 『信長公記』
はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史128】 そ第11話㊷
①是れより、わきわき(脇々)の小城へは、御手遣もなく、
②国司父子、楯籠られ候大河内の城と(取)り詰め、
③其上、四方、しゝ垣二重三重結はせられ、諸口の通路をとめ、
『信長公記』
永禄十二年1569、八月二十八日。 156900828
脇々の小城へは、御手遣もなく。
信長は、そのまま、二里8kmほど南の大河内城へ向かった(三重県松阪市
大河内町)。
城には、具教(とものり)・具房父子が立て籠もっていた。
是れより、わきわき(脇々)の小城へは、御手遣もなく、
直ちに、奥へ、御通り候て、
国司父子、楯籠られ候大河内の城、と(取)り詰め、
信長、懸け廻し御覧じ、東の山に、信長、御陣を居えさせられ、
其の夜、先ず、町を破らせ焼き払ひ、
北畠氏は、伊勢の国司。 【 人物 】
北畠氏は、村上源氏の一流。
すなわち、嫡流久我家(こがけ)の分流中院家(なかのいんけ)の庶流の家。
特筆すべきは、北畠親房1293~1354である。
親房は、「神皇正統記」を著し、南朝の忠臣として、重きをなした。
親房の三男顕能1423~1471(あきよし)が、同氏の、初代の伊勢国司と
なる。
以後、九代具教へとつづいた。
具教は、享禄元年1528の生れ。
この時(永禄十二)、四十二歳。
信長の六つ上。
すでに、嫡男具房に、家督を譲っていたらしい。
具房は、生年不詳。
おそらく、二十歳前か。
実権は、父具教が握っていたようである。
そこに、「天魔」が舞い降りた。
【参照】そ第11話② 3 20本願寺退城 上町台地 天魔の所為
信長は、大河内城を完全に包囲した。
同八月二十八日 (永禄十二1569) 。
信長、自らの城攻めである。
廿八日に、四方を懸けまはし御覧じ、
南の山に、織田上野守・滝川左近・津田掃部・稲葉伊予・池田勝三郎・
和田新介・中島豊後・進藤山城・後藤喜三郎・蒲生右兵衛大輔・
永原筑前・永田刑部少輔・青地駿河・山岡美作・山岡玉林・
丹羽五郎左衛門置かれ、
西に、木下藤吉郎・氏家卜全・伊賀伊賀守・飯沼勘平・佐久間右衛門・
市橋九郎右衛門・塚本小大膳。
北には、斎藤新五・坂井右近・蜂屋伯耆・簗田弥次右衛門・中条将監・
磯野丹波・中条又兵衛。
東に、柴田修理・森三左衛門・山田三左衛門・長谷川与次・
佐々内蔵介・佐々隼人・梶原平次郎・不破河内・丸毛兵庫頭・
丹羽源六・不破彦三・丸毛三郎兵衛。
ケ様に陣取り仰せ付けらる。
信長は、兵糧攻めの構えを見せた。
北畠氏は、孤立無援。
手も足も、出ず。
其上、四方、しゝ垣二重三重結はせられ、諸口の通路をとめ、
尺限の廻番衆、
菅屋九右衛門・塙九郎左衛門・前田又左衛門・福富平左衛門・
中川八郎右衛門・木下雅楽介・松岡九郎二郎・生駒平左衛門・
河尻与兵衛・湯浅甚介・村井新四郎・中川金右衛門・佐久間弥太郎・
毛利新介・毛利河内・生駒勝介・神戸賀介・荒川新八・猪子賀介・
野々村主水・山田弥太郎・滝川彦右衛門・山田左衛門尉・佐脇藤八。
信長、御座所、御番の事、
御馬廻・御小姓衆・御弓の衆・鉄炮衆に仰せ付けられ候なり。
(『信長公記』)
【引用】 そ第11話㊷
⇒ 次へつづく
