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本能寺の変1582 【重史120】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史120】 「織田信長文書の研究」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史120】 そ第11話㉛

城州、賀茂庄の内、先々より、落し来り候田畠、

                  「織田信長文書の研究」

 永禄十二年1569、四月十四日。

  光秀は、幕府の足軽だった。
  義昭の家臣リストの末尾に、その名がある。
  「足軽衆・・・・・・・・、明智。」
                  【重史051】 「永禄六年諸役人附」

  幕府を、会社に例えれば、
  義昭は、社長。
  細川藤孝は、重役。
  そして、光秀は、ただの平社員。
  その末席、と、いうことになる。

  藤孝と光秀。
  二人の間には、大きな身分の差あった。

  あの時、光秀は、本國寺にいた。            そ第11話㉔

   爾処(しかりしところ)、
   六条に楯籠る御人数、
   細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・
   津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛
   森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。
                     【重史105】(『信長公記』)

  信長は、光秀に、褒美を与えた。            そ第11話㉕

   池田せいひん、今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、
   御褒美、是非に及ばず。
   天下の面目、此の節なり。
                      【重史110】(『信長公記』)

  「池田せいひん」、とある。
  だが、彼一人だけでは、なかろう。 

  光秀は、将軍義昭の「命」を守った最大の功労者の一人。 そ第11話㉔
  『信長公記』に、その名が記録されるくらいなのだから。
  信長は、光秀に褒美を与えた・・・・・。
  そう、思う。

  この事件が、直接のキッカケになった。
  おそらく、そうだろう。
  光秀は、一目置かれる存在になった。  

  信長は、光秀を京都奉行に抜擢した。
  同(永禄十二)、四月十四日。
  光秀は、秀吉とともに、賀茂庄中に対し、摘発した隠し田畑について、
  追徴を定め、以下の如く沙汰を下した。

     猶以って、定納四百石宛に相定め候なり、以上、

   城州、賀茂庄の内、先々より、落し来り候田畠、
   少分たりと雖も、御下知の旨に任せ、
   賀茂売買の舛にて、毎年四百石宛、運上すべし、
   幷(ならび)に、軍役百人宛、陣詰め有るべきの由、その意を得候、
   聊(いささ)かも、如在、有るべからざる事、肝要に候、
   恐々謹言、

                      木下藤吉郎
       四月十四日             秀吉(花押)
                      明智十兵衛慰
                         光秀(花押)
        賀茂庄中
                 (「澤文書」「織田信長文書の研究」)

  光秀は、秀吉より、上位者だった。
  秀吉は、信長の家臣。
  光秀は、将軍義昭の家臣。
  二人による裁定である。
  したがって、書式上は、光秀が上位者。

 【引用】 そ第11話㉛



 ⇒ 次へつづく


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