本能寺の変1582 【重史99】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史099】 「信長文書の研究」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史099】 そ第29話①
①今度、国々本意に属するの由、
②尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、
③綸命此の如し、これを悉(つく)せ、以って状す、
「信長文書の研究」
永禄十年1567、冬。
信長は、正親町天皇より綸旨を与えられた。
信長は、一躍、全国区へ名乗りを上げた。
「天下」
名実ともに、有力大名として認知されたわけである。
綸旨とは、天皇の命をうけて、蔵人が出す、奉書形式の文書。
天皇の綸旨案は、次の通り (「経元卿御教書案」) 。
信長を大いに褒め上げ、さらに励め、と激励している。
今度、国々本意に属するの由、
尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、
弥(いよいよ)、勝に乗ぜらるべきの条、勿論たり、
そして、天皇領の回復を求めた。
就中(なかんづく)、両国御料所且つは御目録を出さるゝの条、
厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、
綸命此の如し、
これを悉(つく)せ、以って状す、
永禄十年十一月九日 右中弁 (花押)
晴豊(勧修寺)
織田尾張守殿
(「信長文書の研究」)
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