文字を持たなかった昭和 帰省余話(2024秋 31) 特別な面会①

 昭和5(1930)年生れで、今年(2024)6月末に介護施設に入所したミヨ子さん(母)の様子を見に、この秋帰省した。関連して、郷里へ連れて行った話(625)に続き、施設(グループホーム)についてメモ代わりに書いた(2628)。

 面会についても述べたところで(2930)、個別の様子についてはこれ以上深掘りしないが、かなり特別だったある日の面会について単独で残しておきたい。

 それは、わたしの幼なじみで同学年のYちゃんが面会に来てくれたことだ。遠回りになるが、ここでYちゃんについて触れておく。

 子供の頃、Yちゃんの家は街のほうで商売をしていた。幼稚園や学校以外では会わないのだが、お父さんの実家、つまりおばあちゃんの家がわたしと同じ集落にあり、しかもやはり同じ集落内のミヨ子さんの実家とは坂の上と下という関係だった。Yちゃんがおばあちゃん家(ち)に来ると、わたしたちはよく一緒に遊んだ。

 Yちゃんのお母さんはYちゃんが小学校低学年のとき病気で亡くなった。Yちゃんは頻繁におばあちゃんの家に来るようになり、週末や夏休みはよく泊まった。わたしたちはレンゲが咲く田んぼで、おばあちゃん宅で、あるいはわたしの家でよく遊んだ。

 集落に同学年の女子がいなかったわたしにとっては、ほんとうに親しい友達だった。どのくらい仲がよかったかを象徴するエピソードもあるのだが、それはいつかわたし自身について書くときにとっておく(忘れなければ)。

 子供の友達が遊びに来ると、ミヨ子さんはお茶とおやつを出してくれた。子供でも日本茶だったのは、子供らしい飲み物がまだそれほど普及していなかったからで、まれにだがココアや、夏ならカルピスやジュースも出してくれた。おやつもありきたりのものだった。

 こういったおもてなし(?)はべつにYちゃんに限らなかったのだが、お母さんを亡くしたYちゃんにしてみれば、「お母さんのような存在」を身近に感じられる大切な時間だったのかもしれない。

 中学校までは部活もいっしょだったYちゃんとは、進学先が違ってから疎遠になった。何年か前に卒業何十年かの同窓会の幹事になったとYちゃんから突然連絡をもらってから、LINEでやりとりするようになったのだが、Yちゃんは時々ミヨ子さんの近況を尋ねては「二三四ちゃんのお母さんはきれいだったよね」と付け加えた。

 じっさいミヨ子さんは地域ではかなり美人なほうだったはずだ。そのあたりはミヨ子さんの来し方を書いた中で述べたこともある〈293〉。ただYちゃんのイメージの「きれいなおばさん」は、お母さんへの思慕の中で多少増幅されていった可能性が高い。

 そのYちゃんは、ずいぶん前から「二三四ちゃんが帰省したときに会いたい、おばさんにもお目にかかりたい」と言っていた。その時点でミヨ子さんはもう息子のカズアキさん(兄)たちと同居していたから、Yちゃんには、鹿児島市郊外のカズアキさんの家まで来てもらう必要があった。

 それでも一度は、鹿児島空港から比較的近いところに住むYちゃんと空港で合流し、その足でカズアキさんのところまで送ってもらい、ミヨ子さんにも会ってもらう、という段取りをした。しかしまだ新型コロナが落ち着いていない時期で、Yちゃんの家族が感染したという理由でその計画はおじゃんになっていた。

 その後ミヨ子さんは介護施設(グループホーム)に入所してしまったので、Yちゃんに施設まで面会に来てもらうしかなくなったのだった。(「特別な面会②」へ続く)

〈293〉ミヨ子さんが若い頃きれいだったことについては「二十三(きれいな姉ちゃん)」、「三十一(白羽の矢)」などで述べた。

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