小説「ヤングケアラーな私の闇は深くて愛しい」プロローグ&第1話[生きたいようには生きられない]
あらすじ
主人公森山うのは中学三年生の春、祖母の介護生活が始まる。学業と介護を両立させる生活は、これまでした経験のない過酷なものだった。母親は子供時代から祖母とは折り合いが悪く自分の親だというのに介護に無関心で娘のうのに任せっきりであった。うのには弟がいたが、弟は母親から溺愛されておりその待遇の差にも悩まされることになる。親友の眞由子と幼馴染みの佑はうのの気持ちに寄り添おうとする。
うのの中学校生活からは、中学生らしいキラキラした大切なものが一つずつ消えていく。
「生きたいように生きられない人生なんて、早く終わればいい」
いつからか、うのはそう思うようになる。
うのの心の闇はどうなっていくのだろう?
プロローグ
今日で人生を終わりにしたかった。「生きたいように生きられない人生なんて、早く終わればいい」いつからか、心の何処かでそう思っていた。安心して学校へ通うことができず、祖母に付きそう毎日。昨日も深夜に総合病院の夜間救急の待合場所にいた。体調が悪化し発熱した祖母を母の運転で夜間救急に連れて行き、診察と気休めのような点滴に付き添う。母は先に帰ってしまい、タクシーでの深夜の帰宅。食事の介助に、排泄物の処理。そして祖母の徘徊にびくびくして眠れない夜。私の人生は、まるで祖母のための人生ではないのか?
学校の帰り道、電車が真下を通る橋の欄干から身を乗り出して下をのぞき込んだ。何もかもが嫌になった私は、自由になりたかった。欄干の向こう側に行けば、自由になれる気がして……。
第1話
父親のいない家に育った。気付いたときから母親と祖母、弟の稑と私の四人暮らしだった。小さい頃から、母は家族を養うために保険会社の正社員として夜遅くまで仕事をしていたため、同居している祖母に育ててもらったようなものだった。母と違って、おおらかな祖母のことを私も弟の稑も慕っていた。家に帰ると、祖母は穏やかな優しい笑顔で迎えてくれた。
「おやつ食べる?」
「おばあちゃん、今日はなあに?」
「今日は、うのちゃんの大好きなホットケーキよ」
そのおやつは、ホットケーキだの、蒸しパンだの、クッキーだのたいていはお手製のもので、家に帰るとほんのりと甘い香りが漂っていた。弟も私も毎日楽しみにしていた。そのおやつを食べながら、その日あった出来事を祖母に話すのが楽しみだった。
「おばあちゃん、聞いて。今日、昼休みにおにごっこをやってね、一度も当てられなかった」
「うのちゃんは、足が速いからおにごっこも得意なのね」
「おばあちゃん、今日はテストで百点だったの。ほら、見て」
「うわぁ! うのちゃん。すごいね! ママが帰ったら見せようね」
でも、仕事から帰った母に百点のテストを見せると、歓びを共有することもなく
「そう。良かったわね」
と一言で済まされてしまう。その言葉に傷つく私を察知して、祖母は膝に入れてよく抱っこしてくれた。特別な言葉がなくても、祖母の愛情はしっかり伝わってきた。どんな話も、どんな気持ちも、全て受け止めてくれる祖母のことが大好きだった。
だから、おばあちゃんっ子だった自分が、まさか祖母に嫌悪感にも似た感情を抱くことになるなんて思いもよらなかった。
先月中学三年生となった私は、進路について考えなくてはならなかった。でも、どうしても高校生になっている自分が思い浮かばなかった。中学三年生と言えば普通なら、放課後は部活動に励むかっこいい男子に見とれて友達と恋バナをしたり、こっそり寄り道をして帰ったり、楽しいはずのものなのだと思う。
ところが、私ときたら、祖母の訪問介護の人と入れ替わりに家に到着するように慌てて帰宅をしなくてはならないのだ。そんな生活が数ヶ月続いている。だから、今思えば、中学二年生のうちに、もっと青春な日々を味わっておくべきだった。大好きだった祖母のためではあったが、中学生に介護は重かったのだ。
私が中学に入学した頃の祖母はとても元気で、入学祝いをしてくれたり、一緒に買い物に出掛けたりもしていた。ところが、中学二年生の或る冬空の日、祖母は地域の寄り合いに出掛けた際に転倒した。高齢者にとって、転倒ほど危険なものはないのだと後に知ることになる。
その転倒時に大腿骨骨折となり、即入院となった。大腿骨は、股関節に近い太ももの骨で、一番上の部分は球形となっていて細い骨とつながっているため折れやすいのだ。特に、高齢者は骨粗相症になっている場合が多く、特に骨折しやすいのだという。入院すると、寝たきりにならないように早めの手術を勧められた。高齢者の骨折は、その後の生活を左右することになるのだ。翌日は手術が入っていたため、二日後に手術の運びとなった。祖母は、手術することをとても恐れていた。見舞いに行った私の手を握って離さなかった。
手術が無事に終わると、今度はリハビリのために専門の病院に移ることになった。母は、仕事で退院に付き添えないというので、私が荷物をまとめたり、手続きを進め、タクシーでリハビリ病院に移動した。祖母はリハビリ病院に転院すると、リハビリが充実して回復が早くなるだろうと喜んでいた。病室の窓から見える景色も良いと満足気であった。
最初のリハビリは、ベッドの上で上半身を起こしたり、車いすへ移乗したりする訓練だった。そして立ち上がる訓練へと続いていった。祖母は一生懸命に取り組んでいた。
でも平行棒を使った歩行訓練が始まると、足の付け根が相当痛むようでリハビリすることを拒み始めた。アイシングをしたり、痛み止めを飲んだりしても、なかなかリハビリへの意欲は高まらず、回復は遅々としたものだった。午前と午後二十分ずつの少ないリハビリでさえも、全ての訓練内容をこなすことは難しい様子だ。
こうしたリハビリへの消極性から、歩行能力は回復せず入院日数は伸びていき、大腿骨損傷の場合の最大入院期間六十日を過ごすこととなった。
最初の頃は、普段通りの祖母であったが、入院が長引いていくうちにだんだんと元気がなくなり、食も細くなり、会話もあまりしなくなっていった。
入院二ヶ月目には夕方見舞いに行くと、
「病院は夕飯をくれないんだよ。うのちゃん何か買って来ておくれ」
と言うようになり説得するのが大変だった。時には、看護師さんに強く当たった。
「どうして、私にだけ夕飯をくれないんだよ」
食ってかかった。夕方から夜にかけてひどく混乱するようだった。手術など身体的なストレスが原因で発症する「せん妄」と呼ばれる意識障害なのらしい。看護師さんは困惑しながらも慣れた様子で、まるで小さい子供をあやすように対応していた。
そんな祖母が二ヶ月の入院を経て、私が中学三年生になる春、自宅に戻ってきた。祖母は、まるで赤ちゃん返りしたかのように自己主張し始めた。それは、私が知っている祖母とは違う人格のようだった。食べ物も、何でも良いわけではなく、その都度、「あれが食べたい」「これは嫌だ」と言うようになっていた。トイレも、誰かが付き添わないと行かないと言い出したり、眠ってもすぐに起きては、私を起こしたりするのだ。そして、ある時は咳こみ、また別の日は発熱し、目が離せなかった。母は祖母と不仲であったため病院まで車を運転すると、私と祖母を降ろしてすぐに自宅へ帰っていく。稑が一人で留守番するのが心配だと言っていた。稑だってもう小学五年生なのだから留守番くらいできるだろうと思う。
結局、私が夜間救急に付き添い、祖母をタクシーに乗せて帰宅するはめになる。自宅に居る時でも母ではなく、私が夜中のトイレに付き添ったり、罵声を浴びたりして眠れない日々を過ごした。新学期は始まったと言うのに、祖母が自宅に戻って介護に慣れるまで一週間、学校を休むことになった。母はと言えば、退院した日に仕事を一日休んだだけで、
「うの、助かるわ。ありがとう。お母さん、仕事休めないからお願いね」
と言われた。まだ中学生の私が全面的に介護を任されるのはおかしいのではないかと思いながらも、母から「ありがとう」を言われると、なぜか嬉しくなる。頼られていることが、母からの愛情なのだと思い、期待に応えたくなってしまうのだ。母を「慕いたい」気持ちと、「責めたい」気持ちの両方が自分の中に矛盾するように存在する。結果、祖母の介護は私一人の役割のようになっていった。稑はこの家の中で、唯一護られるべき子供として存在していた。
祖母に朝食を食べさせてから登校するのは至難の業だった。朝食を「今、食べたばかり」なのに「まだ食べていない」と言い張る。食は細いのに、何度も何度も要求してくる。母親は、当然のように私よりも早く仕事に出掛けて行く。私は中学校に登校する前に、毎朝、祖母と「食べた」「食べない」で揉めていた。祖母と揉めた後に向かう学校は、憂鬱だった。
「学校なんてなくなっちゃえばいいのに」と思いながら重い足取りで登校する。授業を受けても、以前のように先生の話に集中できない。
みんなみたいに、気軽に学校に行けたらどんなにいいだろうということばかりが頭の中をぐるぐる回って堂々巡りをする。それでも、私は学校に行くことをどうにか続けていた。本当にかろうじて通っているくらいで、宿題もレポートも、できたり、できなかったりした。担任の村松先生は、ベテランの女性教師で二年生の時から私のことを知っている。驚くほど早く私の異変に気付いてくれた。とても心配して、特別に個人面談を実施してくれたのだ。
「うのさん、最近、何か困っていることないですか?ちょっと話してみない?」
「朝、学校へ行く気になれません」
「あら、うのさんらしくないわね。どうしたの?」
二ヶ月の入院後、祖母が自宅に戻って在宅介護が始まったが、痴呆気味であり、母が介護をしたがらないため、私にほぼ全ての負担がかかっていることを伝えた。
村松先生から心配して寄り添ってくれる気持ちは伝わってきた。でもやはり、家庭環境をどうしたら変えていけるかという具体的な解決策には辿りつかなかった。「家庭の問題は、家族にしか解決できないんだな。先生は学校の問題なら、なんとかしてくれるだろうけど・・・・・・」
こんな当たり前のことに気付いて、落胆した。私には、誰にも解決できない家庭の問題が降りかかっている。押し潰されそうになりながら授業を受ける。内容は頭に入ってこない。だんだん勉強が嫌になってくる。これまでは学年で五番以内を常にキープしていたのに。なんだろう?このやる気のなさは。祖母の介護という重荷は、私の行動や性格を徐々に変化させていった。集中力はなくなり、体はだるくなり、授業中には必ず眠くなってしまうのだ。
クラスも部活も同じ親友の眞由子は、私が徐々に不安定になっていく様子を心配しているようだった。
「うのちゃん、最近、元気がない感じ。なんかあった?」
「ううん。特に何もないよ」
「そうかな?何かあったら話ぐらい聞けるからさ。言ってね」
眞由子は優しくて、面白い。私が男子だったら、きっと告白しているに違いない。女子テニス部の部長も務め頼りがいがある。下級生にも親切だ。でも私には、特別に優しい。だからそんな眞由子に心配はかけたくなかった。
遅刻すれすれでどうにか登校し、部活動はやらずに帰宅する。眞由子や他の部員、顧問には、喘息がひどくなり部活動も試合も参加できなくなったと伝えた。三年生と言えば、これまでの練習の成果を試す地区大会を目標に熱中する時期なのに、どれほど淋しい青春だろう。色々なものが、消化不良になっていく。自分の人生のパレットから好きな色が一色ずつ消えていくような心持ちだ。
「残っていく色は、茶色や、灰色みたいな心が弾まない色ばかり。私の人生ってこんなんで良かったのかな?」
自問自答するも、答えは見付からなかった。ただ「しんどい」という言葉ばかり浮かんでくる。私が教室で一人で闇に捕らわれて考え事をしていると不意に、幼馴染みの佑が心配そうな表情でこっちを見ているのに気付く。
「そうだな。佑君はパレットに残ったままだといいけど」
小さな声でつぶやいた。
私は、一学期の終わりには、時々介護で「しんどく」なると学校を欠席するようになっていた。そんな時、佑は帰り道にノートをコピーして届けてくれたり、LINEでメッセージを送ってくれたりする。さり気ない気遣いが嬉しかった。どうにか「学校に行こう」という気持ちが続いていた。眞由子も休みがちになった私を心配してくれた。でも、この欠席したくなる理由をまだ誰にも話していなかった。中学生の私が、親の代わりに全面的に祖母の介護をしているだなんて、誰が信じてくれるだろう?
色々な祖母のコンディションと共に、私の心の状態も変動した。祖母があまりにも支離滅裂なことを言い出すと、怒りで破裂しそうになる。その怒りや嫌悪感に任せて、ひどい言葉を祖母にぶつけると、その後で言い知れない後悔の念に襲われる。
「小さい頃に、あんなに良くしてもらったのにな。あの時のばあばみたいに優しく接することができない」
私は自分がしてもらったように、祖母にその優しさを返せていないことに余計に腹が立ち自分を責めてしまう。
「もうこんな毎日なんて終わりにしたい!」
そう思ったところで夏休みが訪れた。
