天国・浄土は楽しくない?ダンテの『神曲』でも見えたこの問題について考えてみる「カラマーゾフを読む」(32)
アレクセイ、俺はお前の天国なんぞ行きたくないね「カラマーゾフを読む」(32)
第四編 病的な興奮 二 父のところで
この章もフョードル節全開です。
やはりアリョーシャの前だと心が許せるのでしょうか、かなり本音に近い言葉が出ているように感じられます。
アレクセイ、わかってもらいたいね。なぜって俺は最後まで淫蕩にひたって生きつづけたいからさ、これも承知しておいてもらいたいな。淫蕩にひたっているほうが楽しくていい。みんなは悪しざまに言うけれど、だれだってその中で生きているのさ、ただ、みんなはこっそりやるのに、俺はおおっぴらにやるだけだよ。この正直さのおかげで、世間の醜悪な連中に攻撃されるけどな。
「みんなはこっそりやるのに、俺はおおっぴらにやるだけだよ。」
ものすごいパワーワードですよね。そしてこれに続けて語られる言葉は決定的です。
アレクセイ、俺はお前の天国なぞ行きたくないね
「お前の天国なぞ行きたくないね」
道化のように語られたこの言葉ですが、実は宗教における非常に重要な問題を突いているのです。
そして実はこれ、私自身、ダンテの『神曲』を読んだ時に感じたことでもあるのです。
どういうことかと言いますと、著者であり主人公のダンテは『地獄篇』で案内人ウェルギリウスと共に地獄を巡り、そこから『煉獄篇』で煉獄という場所を巡ることになりました。そして『天国篇』でいよいよダンテは天国へ向かいます。

天国は私たちの生きる現世とは違い、いとやんごとなき光の世界でもあります。そして高貴な方々や天使たちがそこにおられます。そして彼らは群をなしダンテの前に現れることになります。

無数の天使や天国の住人がこうして列をなし神への讃嘆を唱えているのがこの天国になります。
天国の住人たちは大いなる天で神を称えて生活していたのでありました。ダンテもこの作品の中でその圧倒的な光景にただただ感嘆するのみでした。
・・・ですが、この作品を読んでいる私たち読者はどうでしょうか。
正直申しまして、私はこの天国篇が読みにくいことこの上なかったのです。
このように言ってしまっては西洋文学最大の古典に対して非常に失礼になってしまうのですが、『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』と先へ進む度に面白さが減じていくように感じてしまいました。一番最初の『地獄篇』が最も面白く、ダンテの筆も生き生きとしているように感じてしまうのです。
天国の住人たちはただひたすら集団で神を讃美し続けます。その描写がかなりワンパターンになってしまうのも大きな要因でしょうし、やはり天国というのは煩悩を具えた私たちにはなかなか理解することが難しく、憧れることすら困難だということがあるのかもしれません。
私が『天国篇』を初めて読んだのは大学三年生の頃、つまり10年以上前のことになります。その時一番感じたのは「なんか、天国はそんなに楽しそうじゃないな・・・」という、何とも身も蓋もない思いだったのを今でも覚えています。フョードルと同じですね。
とてつもなく罰当たりな考えを持ってしまった私ですが、実はこれと同じことを感じていた人がやはり世の中にはいたようです。松田隆美著『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』ではこのことについて次のように語られています。
「つまらない」天国
天国の喜びが身体的欲求とは無縁で、光や宝石の輝きによって象徴的にしか表現できないものであれば、世俗文学においては、こうした天国の情景がつまらないものとして揶揄されることも理解できる。前述のコカーニュの国では、今や第三圏に上げられた地上楽園の魅力の乏しさが次のようにあげつらわれている。
楽園は光り輝き愉快かもしれないが、
コカーニュのほうがもっと美しい。
楽園には野と花と緑の小枝以外には何があるというのか?
大いなる喜びや楽しみがあったとしても、
食物は果物しかない。
館もあずまやも長椅子もない。
渇きを癒すには水しかない。
人だって、エリヤとエノクの
2人しかいなくて、もう誰も住まない場所を、
哀れっぽく歩いているのだ。
また、一二九〇年頃にフランス語で記された宮廷風騎士物語へのパロディ、『オーカッサンとニコレット』では、騎士のオーカッサンが天国に送られる者たちの退屈さを嘆いている。
天国でわたしに何をしろと申すのか。これほどに愛う思うている恋人ニコレットが一緒でなければ、天国には行きとうもない。天国にはこれから申すような人間どもしか行かないのだ。
そこに行く奴原はあの老いぼれの坊主どもに、老いぼれのびっこひき、腕のない不具者、この連中ときたら日がな一日、夜は夜通し祭室や古い地下祭室に踞うずくまっている輩だ。それに例のごとく擦り切れた外套や古いぼろをまとい、靴も股引もはかず裸同然、飢えと渇き、寒さと貧窮のために死にそうになっている連中さ。こんな手合が天国に行くのだ。そんな奴らに用はない。
わたしが行きたいのは地獄さ。地獄には美男の僧侶に騎馬試合や大合戦に討ち死した美丈夫の騎士、勇敢な郎党どもに高貴な者が行くのだ。そんな連中とこそ一緒になりたいものだ。おまけに夫のほかに二人、三人と情人を持つほどに典雅美麗なる婦人たちも行きまするぞ。金や銀、玉虫色や銀鼠色のりすの毛皮、竪琴弾きに旅芸人、はては浮世の王様方も行きまする。わが愛しのニコレットさえ一緒なら、わたしが行きたいと思う所もそこなのだ。
キリスト教の天国は物質的な豊饒と現世的快楽の延長線上には存在しない。しかし、喜びをそのようにしか認識しない俗世の主人公にとって天国は魅力に乏しく、そしてそうした人間たちの世界を描く世俗の物語文学にとって天国は対象外なのである。
※一部改行しました
そしてもう一カ所、こちらは天国ではなくその直前の地上の楽園について書かれた場所なのですがこちらも非常に重要な指摘がなされているので引用します。
楽園では生きるために食物自体を必要としないと考えるならば、豊饒を享受する意味もない。現世での欠乏の代償として与えられるのは飽満ではなく、むしろ必要自体からの解放であり、死後世界探訪譚では、煉獄で償罪を完遂した結果として迎え入れられる地上楽園はそうした場所として描かれる。(中略)
地上楽園は光と色に満ちている。硫黄の火が弱々しく反射する「可視の闇」によって特徴づけられる煉獄とは対照的に、地上楽園になると視野が開け、人間の視界がとどく限り美しい野が広がり、純粋な明るさのもとで、さまざまな美しい色が「調和のとれた多様性」によって風景を作り上げている。
澄んだ空は常に明るく輝き、夜が訪れることはない。そこには互いに祝福しあう大勢の男女がいて、神を称える聖人たちの歌声に満ち溢れている。暑さも寒さも感じることなく、すべてが平和で穏やかな憩いの場である。
地上楽園の悦びは身体的必要の満足とは無縁なもので、それは味覚や触覚ではなく、五感のなかでも上位に位置する嗅覚、視覚、聴覚を満たすものとして展開される。そこでは、人間を現世につなぎ止めている肉体的な欲求から解き放たれた、言い換えれば環境を意識する必要自体が生じない、理想的な自然状態が存在している。
※一部改行しました
「現世での欠乏の代償として与えられるのは飽満ではなく、むしろ必要自体からの解放」であるというのはとてつもなく重要な指摘です。
これはどういうことかといいますと、次のようになります。
私たちが求める喜びや楽しみというのはそのほとんどが肉体の欲求から来ています。食欲だったり、快適な生活だったり、あるいは性的な欲求だったりと様々なものがあるでしょう。
これらの喜びや楽しみを得られることを私たちは求めてしまいます。その喜びの反映が理想郷として描かれます。
ですがキリスト教の天国や地上の楽園はそうした喜びが満たされる場ではないのです。
上の解説でも示されたように、そもそも肉体的な欲望が消え去ってしまうのです。つまり、そもそも欲望を感じない状態になるのでこれまで求めていた喜びや楽しみにも全く興味関心を失ってしまうのです。
だからこそひとつ目の引用に出てきた中世の騎士は「そんな天国などごめんだ!」と悪態をつくのです。天国に行ってしまったら愛する人への肉体的恋情も無くなってしまいますし、戦いを通じての肉体的興奮もありません。そもそもそうしたものへの興味関心も全く失われた境地になるのです。
う~む、これは難しいですよね。
天国というのは欲望が充足される場所ではないのです。
私たちは天国や極楽浄土というと、「あ~極楽極楽」というようなものすごく快適で何もかも満たされたような場所や、これまでの苦労に見合ったご褒美をたんまり味わわせてくれるような場所を想像してしまいます。
ですがそうではないのです。「私たちが今欲しいと思うものをそもそも欲しいとすら思わなくなる境地」になるのが天国やお浄土なのです。
これはなかなか行きたいとは思えないですよね。
実はこうした「天国に行きたくない」問題は浄土真宗の開祖親鸞聖人の言葉を記した書物として知られる『歎異抄』にも出てくる問題でもあるのです。
『歎異抄』の中で弟子が「私はお浄土に行きたいという気持ちになれないのです」と親鸞聖人に相談したところ、「私も同じだ」と答える有名なやりとりがあります。
この「天国やお浄土に行きたくない」問題は非常に大きな問題であり、同時に宗教とは何かを問う上でも非常に興味深い問題であります。
死んだ先に全ての欲望を満たしてくれる場所に行くことを願うのが宗教なのか。
それともすべての欲望から解放された境地になることを願うのか。
いや、さらにもっと大きな意味があるのだろうか。
こうしたこととも繋がってきます。
フョードルがふと漏らしたこの言葉には実は意義深い問いが含まれているのです。やはりフョードルは単なる道化ではありません。機知ある道化なのです。
続く
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