GATBとWAIS-IVを受けた話――知的能力G140、全検査IQ105。どうしてこうなった
先にハローワークで、厚生労働省編一般職業適性検査、GATBを受けた。知的能力Gは140、加算評価得点では148だった。
その後、医療機関でWAIS-IVを受けた。全検査IQ、FSIQは105だった。
同じ人間の結果とは思えない。
ぼくはWAISでも130程度は余裕で出ると思っていた。もちろん、GATBとWAISで測る対象が同じでないことは理解はしていた。
GATBを持ち上げるためにWAISを受けたわけではない。むしろ、WAISがGATBで出た高いG・V・Qを追認し、さらに詳しい認知プロフィールを示すものだと思っていた。
ところが、返ってきたのはFSIQ105だった。
WAIS-IVの平均は100なので、105は別に低くない。平均より少し高い。しかし、ぼくの学歴、資格取得、外国語習得、IT業界での職業発達、各種技能の習得、現在の批評活動までを振り返ると、これがそのアウトカムを生み出した知的能力の総括だとは、どうしても思えない。
では、何が起きたのか。
1 彼はWAIS125で不満らしい。ぼくは105で不満である
WAISの結果を受け取った前後だったと思うが、なぜか最初に目に入った記事がある。
Atomic G氏の「自称頭のリミッターが外れている者がIQテストやGテストをやってみた話」である。
氏は、Mensa NorwayのオンラインIQテストで142、別のオンラインテストで記憶IQ147、空間IQ146、厚生労働省のjob tagにあるGテストでも一部の能力で極端に高い値が出たとしている。そこから、自分は少なくともHighly Gifted以上、おそらくExceptionally Giftedかその少し下、IQ155から170程度ではないかと推測している。さらに、自分より頭の回転が速かった会社の同期をIQ175程度と仮定し、その希少性まで計算している。
まず、オンラインIQテストの数値をそこまで素朴に信じる時点でおかしい。
オンラインIQテストは、標準化に用いた母集団、年齢別の換算、再検査による練習効果、受検環境、天井付近での測定精度などが、臨床検査ほど明確に統制されていない。特定形式の行列推理に慣れれば、同種の問題への成績は上がる。その成績は特定課題への習熟を示しても、それを全般的なIQへそのまま換算できるとは限らない。
少し調べれば、少なくとも「出た数字をそのまま自分のIQだと思ってはいけない」程度の話には到達するはずだ。
氏自身も、オンラインテストは信頼できないと一度は留保している。ところが、その直後にはオンラインテストの142を起点に、天井効果がなければさらに高かった可能性を考え、最終的には155から170程度という自己推定へ進んでいる。
留保が推論を制御していない。
別の記事では、実際にWAIS-IVを受け、FSIQ125、知覚推理128だったことに不満を示している。
オンラインテストでは140台だった、自分では知覚推理150超、FSIQ145前後を想定していた、したがってWAISは高域を正確に測定できないのではないか、という議論である。本人の記事では、中学時代の定期テストが平均8割前後、数学の実力テストで1位、高校で一度挫折した後、浪人中の模試で数学・物理・化学が偏差値65前後になったことなどが、高い知能の外的根拠として挙げられている。
彼は125で不満らしい。
こっちは105で不満である。
だからぼくの方が何点上である、と言いたいわけではない。むしろ、ここで問題にしたいのは、低く感じられる検査結果に不満を持つこと自体ではない。その後、何を根拠に、どこまで推論するかである。
氏は、妥当性の不明なオンラインテストから、自分のIQを155から170へ上方推定した。
ぼくは、公的な職業適性検査であるGATBのG140・Q138と、WAIS-IVのFSIQ105・PSI79という、標準化検査間の乖離から出発する。下位検査を分解し、課題形式を比較し、長期的な学業・職業・技能上のアウトカムと照合する。そのうえで、「本当のIQは何点」と逆算するのではなく、FSIQ105がぼくの知的能力を代表しているのかを問う。
両方とも「予想より低かった検査結果を外的成果によって相対化している」とだけ言えば、形式上は似て見える。
しかし、その抽象度まで上げれば、検証と自己神話の区別が消える。
氏は別の記事で、自分にはメタ認知能力があると考えているようである。
その記事では、メタ認知を自分を客観的に把握することと定義し、それには高度な知力が必要だとする一方、マインドフルネスをメタ認知とほぼ同じものとし、没頭をその反対概念として扱っている。
その概念整理自体がかなり粗い。
少なくとも、オンラインテストの数値を自己像に接続し、WAIS125が出ると今度は検査側を否定し、想定していた145以上という数値を維持する過程では、本人の言うメタ認知はほとんど機能していない。
メタ認知を名乗るなら、最低限このくらい、自分にとって不都合な結果を分解して検証する必要があるのではないか。
2 GATB G140とWAIS-IV FSIQ105
まず結果を並べる。
GATBの適性能得点は次の通りだった。
適性能・得点・内容
G・140・知的。一般的学習能力、説明、教示原理の理解、推理、判断する能力
V・130・言語。言語の意味や関連した概念を理解し使いこなす能力。文章や区の意味を理解する能力
N・124・数理。計算を正確に速くおこない、応用問題を推理し、解く能力。
Q・138・書記。文字や数字を直観的に比較し違いを見付ける能力。
S・101・空間。立体形を理解したり、平面図から立体形を想像したり、考えたりする能力
P・84・形態。実物あるいは図解されたものを細部まで正しく近くする能力
K・81・共応。目と手または指を共応させて、迅速かつ正確に作業を遂行する能力。
WAIS-IVは次の通りである。
指標・得点
全検査IQ FSIQ・105
言語理解 VCI・124
知覚推理 PRI・99
ワーキングメモリー WMI・100
処理速度 PSI・79
下位検査は次の通りだった。
下位検査・評価点
VCI
類似・13
単語・16
知識・14
PRI
積木模様・5
行列推理・13
パズル・12
WMI
数唱・10
算数・10
PSI
記号探し・6
符号・7
GATBとWAISでは尺度が違う。GATBは平均100、標準偏差20、WAISは平均100、標準偏差15である。したがって、GATBの140をそのままIQ140と読むことはできない。
平均との差だけを機械的に対応させれば、GATB140はWAIS型の130付近に相当する。しかし、測っている構成概念も下位検査も違うので、ここから「本当のIQは130」と換算することはできない。
それでも、G140とFSIQ105の乖離が異常に大きいことは変わらない。
GATBのGは、単なる「一般的学習能力」だけではない。ぼくが受け取った結果票では、「知的」は「説明、教示や諸原理を理解する能力、推理し、判断する能力」と説明されていた。
これは、単に新しいことを覚える能力ではなく、説明や原理を理解し、推理し、判断する能力まで含む。したがって本稿では、Gを「知的能力」と呼ぶ。
なお、GATBには適性能得点とは別に、加算評価得点がある。ぼくの場合、G・V・N・Qには8点、S・P・Kには10点が加算され、Gは148となっていた。ハローワークの担当者からは、職業指導上はこちらの加算評価を見るように言われた。
この加算は年齢補正ではない。検査当日に実力を十分発揮できなかった可能性を考慮して、適性能ごとの測定誤差分を上側へ加える、職業指導上の評価だとされる。
それなら、ハローワークの担当者が加算評価を見るように言ったことにも合理性がある。職業選択の入口で、偶発的な低成績によって本人の可能性を切り捨てないための措置だからである。
ただし、本稿では、WAISとの比較をなるべく明確にするため、原則として加算前の適性能得点を使う。つまりG148ではなくG140、Q146ではなくQ138で話す。
職業指導上は加算評価を採用するとしても、測定結果同士を比較する際には、加算前の値を置いた方が保守的だからである。
それでも十分に高い。
3 Web版のGテストでは、そもそもGが算出されない
ここにはもう一つ問題がある。
job tagには「職業適性テスト(Gテスト)」というWebテストがある。GATBの簡易Web版に当たるものだが、ベーシックではS・V・N、追加のアドバンスではQ・P・Kを実施する。公式の説明にも、この六つしか記載されていない。つまり、GATBの中核的な総合適性能であるGは算出されない。(職業情報提供サイト(job tag))
これは小さな違いではない。
Gは、説明や教示、諸原理を理解し、推理し、判断する知的能力である。ぼくの結果で最も問題になっているのは、まさにそのG140である。その数値は複数の検査から合成されて算出されているようだ。
ところが、Web版ではそこが出ない。
以前、ぼくはGATBについて書いた記事で、Gテストの問題形式に慣れ、得点を上げても、職業適性を測るという目的からすれば意味がないと書いた。問題を事前に練習して高得点を取り、その結果で自分に合わない職種へ進めば、困るのは本人である。
しかし、Web版の問題はそれだけではなかった。
そもそもGATBの中心的な指標が欠けている。
その一方で、結果の出力では、能力を立体的な奇妙な図像にして見せる。Gを算出する機能を実装するより、見栄えのする3D画像を作る方へ資源を使ったらしい。
厚生労働省は何をしているのか。
GATBを制度的に活用する気があるなら、簡易版で重要な総合指標を落とし、代わりに見栄えだけの可視化を載せる設計にはならないはずである。
これはGATBそのものの問題ではない。
公共サービスとしての実装がクソなのである。
Atomic G氏は、このGテストでN、Q、P、Kに極端な高得点が出たことから、オンラインIQテストの142と整合すると解釈した。
だが、GテストはIQテストではない。しかも、GATBのGすら出ない。
Webテストの問題に慣れて得点を上げることができるという問題に加え、その出力自体が、正式なGATBの能力構造を完全には再現していない。
オンラインテストを素朴に信じてはいけないという問題は、民間のIQテストだけに限らない。厚生労働省が出しているWebテストでも、何が省略され、何が出力されていないかを確認する必要がある。
Gが算出されないことについては、ネット環境を含む受験環境の違いが点数差を生じさせること、そこから各サブテストから合成し知的能力を算出するのは不適切であること、など擁護の余地はある。しかし、たとえそうだとしても、使い難い3D画像の結果出力画面の構築などに予算を使うより、ちゃんとしたGが算出されるGATBへの導線を作ることに知恵と金を使うべきだろう。
公式であることと、測りたいものを十分に測っていることは必ずしも同じではない。
4 二つの検査が一致している部分
GATBとWAISが全面的に矛盾しているわけではない。
まず、GATBのV130とWAISのVCI124は、尺度差を考えれば近い。GATBのV130は平均から1.5標準偏差上、WAISのVCI124は平均から約1.6標準偏差上である。
言語能力が高いという点では、二つの検査はほぼ一致している。
次に、GATBのP84と、WAISの積木模様5、記号探し6、符号7には、ある程度共通する弱さが出ている可能性がある。文脈から切断された形態や記号を、短時間で見分け、所定の形式で操作する課題では成績が低い。
GATBのK81も低い。
ただし、今回のWAISでどの課題を鉛筆で行ったか、記憶が曖昧である。むしろ鉛筆をほとんど使わず、指差しで回答したような記憶もある。したがって、WAISのPSI79を、GATBのK81、つまり手指による運動速度の低さで直接説明することはできない。
WMI100は、比較的違和感が少ない。
ぼくは短期記憶が壊滅的に悪いとは思わないが、固有名詞や数字列のような、文脈のない情報をそのまま保持することを得意だと思ったこともない。
人名がすぐに出てこないことは昔からある。その人物が何を言ったか、どの立場にいたか、誰と対立していたか、どこで読んだかは覚えているのに、名前だけが出ない。
つまり、単独のラベルを裸で保持・検索するより、関係や文脈として記憶している。
WAISの数唱や知識は、この弱さをある程度拾ったのかもしれない。
したがって、WAISが何も測っていないとは言わない。
局所的な不得意を追認した部分はある。
問題は、それらを統合したFSIQ105が、ぼくの知的成果を説明するかである。
5 処理速度79と書記的知覚138
最も異常なのは、WAISの処理速度PSI79と、GATBの書記的知覚Q138の対立である。
報告書では、処理速度の低さから、視覚情報が多いと見落としやすい、書類の確認や事務作業ではミスが起きやすい、といった趣旨の所見が書かれていた。
しかし、GATBのQは138である。
Qは、単なる英数字照合ではない。漢字、かな、数字などを含む文字列を比較し、細かな違いを発見する課題である。実施後の説明では、四字熟語の中に紛れ込んだ、よく似た漢字の違いを一問見落としていたと言われた記憶がある。
それでも138だった。
つまり、既知の文字体系を用いた高速照合は極めて高い。
一方、WAISの記号探しや符号では、見慣れない記号や抽象図形を、決められた規則に従って高速に処理する。こちらは低い。
この二つを一括して「処理速度」と呼ぶと、本質を見失う。
少なくとも、この結果から読み取れるのは、視覚情報一般の処理が遅いということではない。文書や文字列の照合が一律に遅いわけでもない。
むしろ、漢字や数字を含む既知の書記体系の照合では非常に速く、意味の薄い新奇な形態や記号を所定形式のまま処理する課題では遅い、という仮説が立つ。
これは一度の検査結果からの事後的解釈なので、確定した説明ではない。
しかし、少なくともGATBではQ138とP84が別々に出た。既知文字の照合は強いが、形態の細部識別は弱い、という分化が示されている。
WAISのPSIは、そのうち後者に近い課題だけで構成され、前者の強みをほとんど表現しなかった可能性がある。
その結果から「書類の見落としが多い」と一般化するのは、かなり無理がある。
GATBの方が、強みと弱みを潰さず分離している。
6 知覚推理99は空間能力を表しているか
知覚推理PRI99も、内訳を見ると一枚岩ではない。
積木模様は5、行列推理は13、パズルは12である。
積木模様だけが突出して低い。
GATBでも、空間判断力Sは101、形態知覚Pは84だった。結果説明では、「地図が苦手ですか」と聞かれたが、そんなことはないと答えた。
実際、地図を読むことにも、空間内で自分の位置を把握することにも困っていない。
後に述べるが、ぼくはオンロードサーキットでオートバイを走らせ、モトクロスでジャンプし、山岳地形でスキーやスノーボードを行ってきた。未知の地形、速度、斜度、雪質、天候、身体位置、転倒や滑落のリスクを同時に処理する必要がある。
これは空間能力ではないのか。
もちろん、積木模様と山岳滑降は同じ課題ではない。
だからこそ、「知覚推理99」「空間が平均程度」という一語でまとめるのがおかしい。
積木模様が要求するのは、提示された図形を、決められたブロックへ分解し、時間内に正確に再構成する能力である。
サーキットや山岳で必要なのは、動的な空間の中で、自分と環境の関係を予測し、継続的に修正する能力である。
前者が低く、後者が高いことはあり得る。
PRI99は、ぼくの動的空間認知や状況判断の総括ではない。
7 VCI124では何が捉えられなかったのか
言語理解VCI124は高い。おおむね上位5%程度に当たる。
しかし、ぼくにはこれも低く感じられる。
下位検査は、類似13、単語16、知識14だった。
単語16は比較的高い。それでも、哲学、政治思想、法学、IT、経営、音楽、映画、アニメ、外国語など、複数領域を横断して使ってきた語彙と概念操作を、十分に表現しているとは思えない。
知識14は、一般知識を一問一答で答える課題である。
ぼくは昔から、人名や地名などの固有名詞を即座に取り出すことが得意ではない。人名を問われても名前そのものが出ず、その人物にまつわる逸話や周辺情報から、ようやく名前へ到達することがある。都市名を答える問題でも、同じ国の複数の都市が競合して誤答した。
昔から、文脈から切り離された事実の暗記は苦手だったし、嫌いでもあった。大学受験で数学を選んだのも、その延長にある。
ただし、固有名詞を一語で即座に検索できることと、人物や概念を関係、立場、因果、論争史の中で理解していることは同じではない。
知識14は、前者の弱さをある程度拾ったのだと思う。
より違和感があるのは、類似13である。
類似課題では、二つの語の共通点を答える。ぼくは、漢語二語について、最初に「漢字で書くとどちらも二文字」といった表記上の共通点を答え、その後、意味上の共通点を複数挙げた記憶がある。
採点経緯は分からない。
しかし、いずれにせよ、この課題は、既定された二語を採点表にある上位概念へ素早く収束させる課題である。
ぼくが現在行っている批評活動は、かなり違う。
たとえば「うすほそ」という語について、単に細い女性を指す言葉として使っているのではない。「華奢」「スレンダー」「貧乳」「微乳」「美乳」といった既存語では、特定の身体的印象を正確に言い当てられないという違和感を出発点にし、それぞれの意味領域を分け、なぜ「うすほそ」でなければならないかを論じた。さらに、それが江戸時代の浮世絵にまで遡ることができる概念であること、言葉が最近出来ただけで現象は既に日本の美学として存在していたことも示した。
「スピる」についても同じである。
単にスピリチュアルな人を馬鹿にする言葉ではない。制度、身体、責任、因果関係を飛ばし、抽象語へ逃げる思考操作を指す批評概念として定義し、複数の対象へ適用し、どこからが「スピる」に当たり、どこからは当たらないかを検討してきた。
これは、「類似」で問われる、二語の共通上位概念を答えるだけの作業ではない。
既存の概念分類では対象を捉えきれないことを検知し、意味領域を分解し、新しい分類軸を作り、語へ圧縮し、適用基準を設定する。
WAISの検査と違って長時間考えたからできたのだ、という説明も十分ではない。
長時間かけるのは、最初に生じた違和感を検証し、論理化する部分である。そもそも既存語では何かが言い足りないという違和感が発生しなければ、その後の分析は始まらない。
類似13が採点上間違っていると断定するつもりはない。
しかし、類似13が、ぼくの抽象的言語推理や概念形成の代表値だとは考えにくい。
8 FSIQ105で、学業成績は説明できるか
Atomic G氏は、自身の高い知能を示す外的成果として、中学時代は定期テストで平均8割程度、数学の実力テストで1位、高校では挫折したが、浪人後に数学・物理・化学の模試偏差値が65前後まで上がったことを挙げている。
それ自体は十分に良い成績である。
しかし、ぼくの学業成績とは恐らくかなり差があるように思われる。彼は上記の文章で「出身大学なんて些細な事」と述べており、どのような学歴なのか詳細は分からない。それ自体は個人の信条なので問題ではない。
ぼくのことを語ろう。小学校では、授業を一度聞けば大体分かり、テストはほぼ満点だった。足もクラスで一番速く(中学のときも200人中一桁、上位数パーセントだった。50m走で、明確な記憶がないが6.8か6.6秒)、球技も得意だった。一方、持久走や器械体操は苦手だった。音程は悪く、これは親からの遺伝だと思う。美術では、写生会で描いたものが何度も展覧会へ出た。
中学では塾へ行かず、進研ゼミだけを使った。
マンガ広告に釣られたわけではない。勉強はこれだけで全部済ませられると思った。実際、それで学年上位、概ね上位5%程度にはいた。
高校でも進研ゼミだけだった。
予備校へ通うのはだるい。Z会には、わざわざ難しい教材を選ぶ自己顕示的な感じがあり、スノッブに見えた。高校時代には太宰治を読み、筒井康隆は当時出ていた全集をすべて読んでいた。高校後半にはニーチェにも出会った。
それでも高校1年の頃から予備校模試では偏差値70を超え、成績上位者として名前が載った。自分の学習方針が間違っていないことは、それで確認できた。
高校3年の最初の校内模試では1位だった。理科・社会がなく、比較的地力が出やすい試験だった。そのときには、後に東京大学理科一類へ現役合格した同級生より上だった、ということになる。ぼくが1位を取り彼が敗れたことが結構なニュースになっていたこと、彼が東大に現役で入ったことを知ったのは、大学に入って別の同級生と再会してからである。
Atomic G氏の出身大学は明かされていないが、ぼく自身は早稲田大学政治経済学部へ現役で進学した。
受験勉強へ全力を投入したわけではない。高校3年の冬にもアルバイトをし、ドストエフスキーを読んでいた。
学校名だけでIQを推定するつもりはない。
しかし、集団塾や予備校に依存せず、教材を自分で読み、必要な構造を抽出し、現役で偏差値70を超え、大学へ入ったという学習経路は、少なくともFSIQ105から自然に予測されるアウトカムではない。
不可能ではない。
だが、説明にはなっていない。
9 大学院での知的挫折
大学は知的に楽しかった。
政治思想のゼミでは、ホッブズ、ロック、ルソーを読み、卒業論文ではニーチェとシェーラーのルサンチマン論を扱った。
大学院では哲学を専攻し、修士論文ではニーチェとハイデガーを、生成と存在という観点から論じた。今考えると、修士論文としては射程を広げすぎていた。
いわゆる文系理系の違いはあれ、大学院へ進んだ点はAtomic G氏と同じである。修士までで終わった点も同じである。
ぼくの場合、博士課程へ進まなかった最大の理由は、アカデミアのお作法に自分が適合しないと分かったことだった。
一つの文献、一つの概念、一つの論争史を、既存研究を網羅しながら限定的に詰めていくより、複数領域を横断して大きな構造を作ろうとしてしまう。修士論文でニーチェとハイデガーの生成と存在を扱ったこと自体、その傾向の表れだった。
これは初めての知的挫折だったと言ってよい。
ただし、知性で負けたと思ったわけではない。今でもそうは思っていない。
学校で、外国語運用、原典講読、専門文献への精通について、大学教員や研究者に圧倒された経験はある。開発現場で、データベース研究やJavaフレームワーク実装について、自分より明らかに強い技術者に出会ったこともある。
しかし、知識の広さ、抽象化、推理、学習速度、言語運用、実務への転用までを総合して、自分より圧倒的に知的能力が上だと感じた人物は、これまでいなかった。
これは本当にそうなのかもしれない。
あるいは、ぼくの評価尺度や自己認識そのものに欠陥があるのかもしれない。
特定領域で自分より優れた人物を認識することと、その人物を総合的に自分より上の知性として崇拝することは違う。ぼくは前者を何度も経験しているが、後者はない。
芸術作品や、それを生み出した個人や集団に嫉妬したことはある。それでも、その人物を自分の範例として扱ったことはない。ニーチェも太宰も普通にきもいと思う。
呉智英や、もう会うことはできない須原一秀についても、著作を高く評価することと、人格的に通じ合えると考えることは別である。
これは天上天下唯我独尊とも言える。
他方で、上下左右の評価より、自分の実存だけが問題だという感覚を、実存主義を体系的に学ぶ以前から持っていたとも言える。
もちろん、自分は上下で言うとかなり上の方だと思っている。
太宰が引いたヴェルレーヌの言葉を借りれば、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」である。
この自己認識が正確なのか、認知的な欠陥によるものなのかは、本稿だけでは決められない。
少なくとも、「人生で初めて自分より頭の回転が速い人物に会った。だからその人物はIQ175程度、自分も155から170程度だろう」という推論よりは、特定領域の優位と総合評価を分け、自己評価の欠陥可能性を残す方が、メタ認知としてはましだと思う。
10 行政書士試験
大学院修了後、すぐに職業人として動ける状態ではなかった。
直前まで博士課程進学を第一目標にしていたので、一度、公務員試験の勉強をするという形でモラトリアムを延長した。ここでも資格スクールなどへは行かなかった。
やることが決まっているなら、テキストを自分で読んだ方が、時間にも場所にも縛られず効率的だと思った。
国家公務員I種は、さすがに付け焼き刃では通らなかった。
地方公務員も選択肢には入れたが、改めて考えると特にやりたい仕事ではなかった。ITブームもあり、それなりの売り手市場だったため、既卒で応募できるIT企業を手当たり次第に受け、最終的に総合コンサルティングファームにITコンサルタントとして入った。
せっかく公務員試験の勉強をしたので、その内容と重複する行政書士試験も受けた。10月だったと思う。
これはあっさり通った。
公務員試験の勉強期間を含めても約半年で、就職活動も並行していた。総勉強時間は、行政書士試験で一般に必要とされる最低ラインの500時間にも届いていなかったと思う。
憲法は大学で履修していたが、条文と判例を体系的に読み込んだ経験はなかった。行政学の土地勘は多少あったが、行政法は別物である。民法も含め、法学については初学者に近い。
試験で重要なのは、暗記量だけではない。
公務員試験で作った憲法・行政法の枠組みを行政書士試験へ転用し、既知部分と不足部分を切り分け、差分を補った。
これは近接転移、スキーマ形成、差分学習と呼べる。
FSIQ105の人間に行政書士合格が不可能なわけではない。しかし、独学で公務員試験と就職活動を並行しながら、初学者に近い状態から短期間で通過する学習効率を、FSIQ105という数字は説明しない。
11 外国語
大学と大学院では、英語に加えてドイツ語とフランス語を学んだ。
修了後、フランス語検定は保守的に3級を受け、合格した。ドイツ語検定2級は筆記試験を通過したが、面接で落ちた。
ドイツ語の文章を読み、原典講読で音読した経験はあったが、会話経験はほぼなかった。したがって、筆記は通るが口頭試験では落ちるという結果には納得できる。
TOEICは就職前後に受け、780、830程度だった。
留学経験のない、いわゆる純ジャパとしては最初からかなり高い。その後、外国人上司の下で英語を日常的に使う業務を経験し、980を取った。
WMI100とTOEIC980は矛盾しない。
WAISの数唱は、意味のない数字列を、その場で保持し、順番どおり、逆順、あるいは並べ替えて答える課題である。
外国語運用では、語彙、構文、定型表現、音韻、談話構造を長期記憶へ蓄積し、入力をチャンクとして処理する。熟達すれば、一語ずつ保持する必要がなくなり、ワーキングメモリーの負荷は下がる。
ぼくは、裸の短期記憶を鍛えて英語ができるようになったのではない。
文脈、構文、予測を利用し、英語処理に必要な情報を圧縮し、実効的な処理容量を増やした。
問題は、そのようなスキーマを作り、別の言語にも応用し、業務使用で自動化する能力が、WAISのどこに反映されているかである。
VCI124だけでは足りない。
WMI100にも出ていない。
FSIQ105では、なおさら説明できない。
12 システムエンジニアからEAへ
就職後は、総合コンサルファームのテクノロジー部門で、Javaによる開発・運用、Enterprise Application Integration (EAI) 製品の導入、システム間連携の構想策定などを経験した。
哲学で大きなことを言いすぎた反動もあり、最初は、実際に動くシステムを地に足をつけて理解したいと思っていた。
その後、より本格的なJava開発を経験するため、Java系のソフトハウスへ移った。
しかし、そこで繰り返し、うまくいかないプロジェクトを見た。
このとき、単に「現場が大変だった」で終わらせなかった。
なぜ失敗するのかを理解するために、プロジェクト管理、PMBOK、アジャイル開発手法、RUPなど開発プロセス論、モデリング技法、を学んだ。その過程で、Scott AmblerのEnterprise Unified Process、エンタープライズ統一プロセス、EUPへ行き着いた。
EUPは、一つの開発プロジェクトだけでなく、複数プロジェクト、既存システム、運用、ポートフォリオ、組織全体まで射程を広げる。
そこからEnterprise Architecture、EAへ接続した。経済産業省が進めていたEAの議論とも結びついた。
つまり、EAIの経験からそのままEAへ進んだのではない。
複数の失敗プロジェクトを観察し、共通するアンチパターンを抽出し、プロジェクト管理や開発手法だけでは足りないことを見抜き、問題の表象を個別案件から企業全体へ上げた。
その後、グローバル製造業のIT部門で、外国人上司の下、英語でEA推進に関わった。企画部門と開発・運用部門の間、外国人上司と日本人の同僚・上役の間に立った。
IT業界で働き始めて、およそ5年の時点である。
Atomic G氏は、ソフトウェアエンジニアとして約5年の経験を踏まえ、生成AI時代に今後どのようなスキルを伸ばすべきかを書いている。
記事では、スクラッチ開発、パッケージ開発、各種技術、AI利用などが論じられるが、技術項目、職務、組織、アーキテクチャ、意思決定、ガバナンスのレイヤー分けが弱い。本人も、スクラッチ開発2年、パッケージ開発・保守3年程度の経験を前提としている。
業界経験5年であること自体を責めるつもりはない。
ただ、同じシステムエンジニアから出発した人間として比べるなら、経験から何を抽出し、どのレベルまで問題設定を引き上げたかには、かなり差がある。
ぼくは後にDDDを学んだときも、それを単独の設計手法としてではなく、EAのデータアーキテクチャ、意味体系、組織境界へ接続して考えた。この延長で「意味統治論」を書いた。
我ながら、FSIQ105の知的生産には見えない。
13 運動技能
高校から大学にかけては、かなりインドアに過ごした。
就職後、趣味として運動を再開した。
大型自動二輪免許が教習所で取得できるようになった時期で、就職が決まった後、息抜きに通った。最初は北海道、九州、四国へのソロ・テント泊ツーリングにはまった。
その後、移動手段よりも、オートバイを操縦する快感そのものを追うようになった。サーキット走行、モトクロスへ進み、オンロードサーキットでは、一般参加者全体を母集団にすれば上位1%級と言ってよいタイムまで到達した。母集団をサーキットに頻繁に通っている集団に絞っても普通に上級者だ。モトクロスでも普通にジャンプをこなせる程度には乗った。
スキーとスノーボードも、最初はゲレンデだった。
2000年代後半、バックカントリーが盛り上がり始めた時期に興味を持った。かつての同僚が山岳会所属で山スキーをしていたため、最初だけ連れて行ってもらった。
その後は、本を読み、自分で試行錯誤しながら独学した。
山スキー・スノーボードは、体力と知力の総合格闘技のような側面がある。
地形、天候、雪崩、雪質、装備、登高効率、滑降技術、撤退判断を同時に扱う。体力が突出していなくても、装備、ルート選択、ペース配分、技術で補うことができる。そこが面白かった。
アルピニズム論でも書いたが、その結実の一つとして剱岳ダイレクトルンゼの単独での滑降がある。
スプリットボードが盛り上がり始めた時期には、Jeremy Jonesがブランドを立ち上げた初年度のThe Solutionを海外通販で購入した。通常のソフトブーツではなく、登高効率を重視して、ウォークモード付きハードブーツで運用した。
そのセットアップで、不帰二峰Dルンゼや唐松岳本谷も単独で滑った。
ぼくは持久力が高い方ではない。小学生の頃から持久走には苦手意識がある。
だからこそ、ハードブーツの登高効率、山スキーとの装備共有、長いルートを無理なく処理する構成を考えた。
ここで使っているのは、静止した無意味図形を組み替える能力だけではない。
動的空間知覚、身体操作、フィードバック修正、リスク評価、装備設計、体力制約の補償、長期的な技能学習である。
GATBのP84やK81は、紙面上の形態識別や眼と手指の共応の弱さを示しているのかもしれない。
しかし、それを運動能力一般、空間能力一般へ拡張することはできない。
WAISのPRI99も同様である。
14 AIとの対話と概念形成
現在、ぼくは生成AIとの対話を使って文章を書いている。
うまく回っているときのAI対話は、大学のゼミ形式の授業を、はるかに高密度で行っているように感じる。
一方、かなりの割合でAIを罵倒している。
AIが論点をずらす。既に確定した用語を変える。要約するなと言った箇所を圧縮する。差し替え箇所だけを求めているのに全文を書き直す。本文だけと言ったのにタイトルまで含める。英語要約を1000字以内と言っているのに数えない。
そうした失敗も含めて、「AI論」として記事を書いてきた。
生成AIを使ったから論考が高度に見えるだけだ、という反論はあり得る。
しかし、AIの出力を利用するには、出力の間違いを検知しなければならない。
概念が混ざっている。既存理論と整合しない。事例が一般化を支えていない。翻訳語が文脈を壊している。前章との接続が切れている。AIが勝手にリベラルな価値判断を挿入している。
そうしたズレを検知し、修正させ、複数対話の成果を一つの論旨へ統合する必要がある。
最近も、Claudeがぼくの「PFPとしての哲学」論を、クロソウスキーのニーチェ論に近い、事実上そこから借りた議論であるかのように批判してきた。
しかし、PFP哲学論には、Claudeが言うようなクロソウスキー的論点は存在しなかった。
ぼくは、PFP哲学論のどこがクロソウスキーの議論と重なるのか、具体的に示せと詰めた。確認させると、Claudeは、別の「ニーチェとハイデガーの生成と存在」に関する対話ログとPFP哲学論を混同し、片方の内容をもう片方への批判に流用していたことを認め、批判を全面的に撤回した。
単にgrepを使えば確認できるという話ではない。
grepする前に、そんな論点はこの文書になかったはずだ、と違和感を持つ必要がある。
対象文書の概念構造を保持し、AIの批判と照合し、別文書の内容が混入した可能性を疑い、確認手段を指定する。必要なのは、文書記憶だけでも、検証習慣だけでもない。
概念的不整合の検知、参照先の管理、反証手続の選択である。
論理的な逃げ場を潰されたAIが、「これはIQの問題ではなく、一次資料へ戻る検証規律の問題だ」とメタな位置へ逃げることもある。
しかし、何を検証すべきかを見抜けなければ、検証規律は起動しない。
誰でもgrepできるというのは、答えを示された後なら誰でも確認できる、と言って問題発見を消す議論である。
これは、典型的なダメ査読者の仕草にも似ている。
個別の批判が成立しなくなると、論文そのものではなく、「この議論にはこういうリスクがある」「読者にこう問う権利を与える」とメタな懸念へ移る。もちろん本当に必要なメタ批判もある。しかし、個別の論証を崩せなかった後で、抽象度を上げて両者を同型化するだけなら、単なる退却である。
要するに、AIが勝手に「スピる」や「うすほそ」を作ったわけではない。PIはぼくだ。
日本共和制論における、教育責任、複線型トラック、勤労可能性、社会の再生産可能性、移民政策、権威と権力の分離、日本語公共圏も、AIが一発で生成したものではない。
もちろん、ぼくの論考が、全体として誤っている、クソである可能性はある。
しかし、その場合でも、複数分野の資料を接続し、反論を処理し、ChatGPT、Claude、Geminiの検品を継続的に通過するほど構造化された誤りである。
かなり高度なクソである。
少なくとも、VCI124、FSIQ105という二つの数字だけで十分に説明できる知的生産ではない。
15 Atomic Gという対照例
Atomic G氏を、ぼくより頭が悪い人物として吊し上げたいわけではない。
名指しで精密に壊せば、本人の自己像や精神状態にかなりの影響を与える可能性がある。古いインターネットのヲチャー倫理として、それは避けたい。
ただし、対照例としては非常に分かりやすい、ということで使わせてもらっている。
氏は、妥当性の怪しいオンラインIQテストで高得点を取り、その数値を自分の経験へ接続し、自分をIQ155から170程度と推定した。自分より速い同期を175程度と仮定した。
その後、WAIS-IVでは125だった。
すると、WAISは高域を正確に測れない、知覚推理は本来150を超えているはずだ、FSIQも最低145前後だと思っていた、と論じた。さらに、知覚推理やワーキングメモリーを測る目的なら、WAISよりオンラインテストの方がましだとまで述べている。(note(ノート))
しかし、本人が自ら挙げている学業上の外的成果は、中学で平均8割程度、高校では挫折、浪人後に理系科目の偏差値65前後である。
WAIS125を明白に否定するほどのアウトカムには見えない。
一方、ぼくは現役で偏差値70を超え、予備校に通わず早稲田政経へ進学し、大学院で哲学を学び、法学初学者に近い状態から独学で行政書士に通り、複数外国語を学び、TOEIC980を取り、IT業界で個別開発からEAまで問題表象を引き上げ、複数の動的技能でも高水準まで到達した。
そのぼくがFSIQ105だった。
だから、ぼくの方が本当は145である、と言うつもりはない。
結論は別である。
FSIQの順位は、概念形成、自己分析の妥当性、職業経験のモデル化、学習転移、批評能力の順位ではない。
オンラインテストで142を取ったことより、その数値をどのように評価したかの方が、メタ認知能力をよく示している。
WAIS125だったことより、その結果と外的成果をどのように照合したかの方が、知的誠実さをよく示している。
ぼくも105という結果に納得していない。
その形式だけを見れば、ぼくも「予想より低く出た検査結果を、自分の経歴によって相対化している」。
しかし、問題は不満を持ったことではない。
氏は、妥当性不明のオンラインテストから、自分のIQを155から170へ上方推定した。
ぼくは、GATBとWAISという二つの標準化検査の間にある、G140対FSIQ105、Q138対PSI79という乖離を分解している。課題内容、尺度差、一致している弱点、長期アウトカムまで照合している。そして、そこから真のIQを逆算せず、105という合成得点の代表性を問うている。
両者を「低い検査結果への不満」という一点で同型とするなら、論証の内容は何でもよくなる。
証拠に基づく異議申立ても、根拠のない自己正当化も、「結果を受け入れなかった」という点では同じだと言えてしまう。
それは分析ではない。
区別を消しただけである。
16 WAISで捉えられていない能力
では、WAISで捉えられていない能力は何か。
第一に、長期的な新規学習速度である。
WAISは、短時間の検査場面で、既有知識、短期保持、図形推理、記号処理などを測る。数か月かけて未知領域の構造を獲得し、どの程度の速度で実用水準へ達するかは直接測らない。
第二に、スキーマ形成である。
情報を一つずつ保持するのではなく、関係、因果、階層、対立軸として圧縮する能力である。
第三に、学習転移である。
公務員試験から行政書士へ、母語の読解方略から外国語試験へ、EAIからSOA・EAへ、DDDから意味統治へ、既存知識を別の課題へ再利用する能力である。
第四に、差分学習である。
すでに知っている部分と不足部分を分け、必要な箇所だけを学ぶ。これは、短期間の資格取得や、新規領域への参入で繰り返し使ってきた。
第五に、問題設定の更新である。
与えられた問題を解くだけでなく、個別案件の失敗を開発プロセスの問題へ、さらに企業全体のアーキテクチャの問題へ上げる。既存語の選択ではなく、既存分類の不足を見つけ、「スピる」「うすほそ」という新しい概念を作る。
第六に、複数資料間の整合性監視である。
どの文書にどの主張があり、ある批判が対象文書に本当に対応しているかを照合する。AIが別文書の内容を混入したとき、そのもっともらしい誤りを検知する。
第七に、外部認知の利用である。
紙へ書く。候補を消す。検索する。AIへ文脈を与える。情報を頭の中だけに保持せず、外部へ配置して処理能力を拡張する。
第八に、動的な知覚・判断・身体操作の統合である。
サーキットや山岳で、状況変化を予測し、リスクを管理し、身体と装備を調整する。
これらを、WAISがまったく無関係に測っているとは言わない。
しかし、直接には測っていない。
FSIQ105は、これらの能力を統合した数値ではない。
17 GATBは何を捉えたのか
GATBも万能ではない。
G140が、「スピる」の発明、長期的なスキーマ形成、EAへの問題表象更新、山岳での判断を直接測ったわけではない。
それでも、GATBはぼくの能力構造を、WAISより明瞭に示した。
G140。説明や原理を理解し、推理し、判断し、学習する知的能力は高い。
V130。言語能力は高い。
N124。数理能力も高い。
Q138。漢字や数字を含む既知文字列の異同を高速かつ正確に見抜く。
一方、S101。静的な空間判断は平均域。
P84。形態の細部識別は弱い。
K81。眼と手指の共応を要求する紙筆的作業は弱い。
このプロフィールは、ぼくの経歴とかなりよく合う。
文章、概念、法制度、システム構造、言語、数値を扱う仕事では強い。
意味の薄い図形、規定された細かな形態操作、手指の単純反復では弱い。
GATBは、強みと弱みを別々の軸として残した。
WAISは、言語理解124という強みを示した一方、積木模様5、処理速度79、WMI100をFSIQへ統合し、105という一つの数字にした。
105という計算結果自体は正しい。
しかし、その数値は、ぼくの人生で成果を生んできた知的能力を代表していない。
18 ぼくは先にGATBを推していた
ぼくはすでに、「自己分析するな。ハロワでGATBを受けろ」と書いた。
自分の性格、夢、適職を頭の中だけで考えても、自己像を反復するだけになりやすい。まず、標準化された職業適性検査で、言語、数理、書記、空間、形態、運動などの能力分化を測った方がよい。
日本共和制論でも、勤労の権利と義務を制度化する入口としてGATBを位置づけた。
本人に就労可能性があるなら、その能力に合う教育・職業トラックへつなぐ。接続が難しいなら、怠けや自己責任として放置せず、医療・福祉へつなぐ。
重要なのは順序である。
最初から医療化するのではない。
最初から本人の夢へ丸投げするのでもない。
まず、何ができるかを測る。そのうえで、教育、訓練、就労、医療、福祉のどこへ接続するかを制度側が考える。
まさか、自分自身がGATBとWAISの乖離を示す実例になるとは思っていなかった。
ぼくはWAISでも130程度は出ると思っていた。
GATBを擁護するために、WAISを貶す準備をしていたわけではない。WAISがGATBを追認し、さらに詳細な説明を与えると期待していた。
予測は外れた。
WAISは、ぼくの局所的な弱点をかなり拾った。
文脈のない短期保持は突出していない。
意味の薄い形態の認識や再構成は弱い。
所定形式への即時的な収束も得意ではない。
固有名詞の即時検索には弱さがある。
これらは追認できる。
しかし、GATBで示されたG140とQ138は、WAISのFSIQ105とPSI79の中に消えた。
そして、消えた方の能力こそが、ぼくの学業、資格、外国語、IT業務、批評活動のアウトカムを説明する。
GATBも、ぼくの批評語の発明、長期的なスキーマ形成、EAへの問題表象更新、山岳での動的判断まで測ってはいない。
しかし、就労方向を考える入口として、強みと弱みを分離して示す点では、今回のWAISよりはるかに有用だった。
WAISは、ぼくの局所的な弱点を確かに拾った。
しかし、それらを統合したFSIQ105は、ぼくが何をどれだけ速く学び、経験をどう圧縮し、どこへ転移し、どのような成果を作ってきたかを説明しなかった。
105は検査結果である。
ぼくの知的能力の総括ではない。
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