「小中の情報教育、大幅拡充へ」を読む――日本語を、高等教育のできる言語の側から落とすな
文部科学省が、次期学習指導要領に向けて、小中学校の情報教育を大幅に拡充する案を示したという。
中学校の情報・技術系授業、最大週2コマに倍増https://t.co/tqOd9UQZYp
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) July 9, 2026
フィジカルAIやアルゴリズムなどを学びます。全体のコマ数は維持し、国語や算数・数学などの教科を一定割合で減らします。
報道によれば、小学校では「総合的な学習の時間」に「情報の領域」を設け、3、4年生で年間最大30コマ、5、6年生で35コマ程度を充てる。中学校では「情報・技術科」を新設し、学年によっては最大で週2コマ程度まで増やす案が検討されている。文科省の論点整理でも、小学校に「情報の領域」を付加し、中学校に「情報・技術科」を新設して、情報活用能力を抜本的に向上させる方向が明示されている。
これは確実に、2026年7月8日の中央教育審議会・教育課程部会「総則・評価特別部会」に提出された文科省資料を受けた報道である。日経ポストはその翌日の7月9日なので、時系列も一致する。元資料の表題は「情報活用能力の抜本的向上及び柔軟な教育課程の在り方等について 検討資料⑫」(PDF資料)である。
ぼくは、情報教育をするなとは言わない。
コンピュータの基本構造、ネットワーク、情報セキュリティ、プログラミング、メディアごとの特性、生成AIの基本的な仕組み。現代社会を生きる以上、知らないより知っていた方がよいものばかりである。
問題は優先順位である。
学校の授業時間は有限である。教員の数も能力も有限である。何かを増やせば、別の何かへ使える時間と資源が減る。
文科省自身、学校ごとに一部教科の標準授業時数を減らし、「裁量的な時間」や特に必要な教科へ振り替える柔軟な教育課程を検討している。つまり、「情報教育を増やしても誰も損をしない」という話ではない。何を増やし、何を減らすかという教育上の価値判断が必ず発生する。
そこでぼくは言いたい。
国語と数学を削って、情報教育を増やすな。
古文と漢文を、時代遅れの教養として削るな。
日本語の文法さえ十分に教えないまま、小学校英語を投入するな。
AI時代だからこそ、読み書きそろばんを強化しろ。
そして、日本語を、高等教育のできる言語の側から落とすな。
1.情報教育を否定しているのではない
まず、誤解されそうなところを片づけておく。
ぼくはIT業界で働いてきた。総合系コンサルを皮切りに、外資系企業やITコンサルティングの世界を歩き、企業システム、EA、方法論、モデリング、プロジェクト失敗の分析などを仕事にしてきた。その知識レベルについてはZennで発表してある論考を参照してもらいたい。
生成AIについても、仕事を奪われるから嫌だとか、子どもに触らせると堕落するとか、そういうことを言いたいのではない。
情報教育が必要なこと自体には異論はない。
文科省の資料が挙げている、情報の収集、整理、比較、発信、データ分析、メディア特性の理解、セキュリティ、プログラミング、生成AIの基本的な仕組みなどは、いずれも教える価値がある。文科省案も、単なる端末操作ではなく、「活用」「適切な取扱い」「特性の理解」の三要素を体系的に育てようとしている。
だが、それを「情報・技術」という新しい看板の下へ集め、授業時間を大幅に増やせば、情報活用能力が抜本的に向上するとは限らない。
なぜなら、情報を活用するために最も必要なのは、コンピュータの操作能力ではないからである。
文章を正確に読むこと。
言葉の意味を区別すること。
主張と根拠を分けること。
数字を読み、割合や確率を理解すること。
複数の資料を比較すること。
何が書いてあり、何が書いていないかを判断すること。
自分の考えを文章として再構成すること。
要するに、読み書きそろばんである。
情報活用能力の基盤は、情報科の内部にあるのではない。国語と数学の内部にある。
検索窓に文字を打ち込むことは、情報収集ではない。
AIに質問を入れることは、思考ではない。
グラフを自動生成することは、数量を理解することではない。
スライドを作ることは、論証することではない。
機械を使う能力と、情報を理解する能力を混同してはならない。
2.義務教育は、社会の成員を形成する制度である
「義務教育を考え直す――日本共和制論 1/5」で、ぼくは義務教育を、保護者が子どもを学校へ通わせる義務だけとして捉えるべきではないと論じた。
義務教育には、少なくとも三つの義務がある。
保護者には、子どもを教育から離脱させない義務がある。
国家と社会には、子どもを社会の成員として参加できる水準まで形成する義務がある。
本人にも、提供された教育へ参加し、成員として必要な能力を身につける義務がある。
詳しい議論は同稿を参照してもらいたい。
ここで確認したいのは、社会の成員形成に必要な最低条件である。
契約書を読めない者は、契約主体として行動できない。
行政文書を理解できない者は、権利を行使できない。
法律や制度の説明を読めない者は、国家へ参加できない。
統計を理解できない者は、政策判断に参加できない。
職場の指示を理解し、疑問点を言語化し、必要な記録を残せなければ、職業世界へ安定して接続できない。
義務教育の中心に置くべきなのは、流行している技術ではない。
社会の成員であるために不可欠な、言語能力と数理能力である。
本稿では、そのうち特に「読み書き」の側を問題にする。
読み書きとは、ひらがなと漢字を一応読めることではない。
長い文章を読み、文の構造を捉え、語の意味を区別し、要点を抽出し、反論可能な形で自分の考えを書くことまで含む。
さらに、日本語でそれを行うためには、現代文だけを読んでいればよいわけではない。
現代日本語が、どのような歴史と語彙資源の上に成立しているかを知らなければならない。
そこで古文と漢文が出てくる。
3.小学校英語はいらない
情報教育の前に、すでに同じ失敗をしている。
小学校英語である。
現在の小学校では、3、4年生から外国語活動が始まり、5、6年生では英語が教科になっている。
ぼくは英語教育に反対しているわけではない。
ぼく自身、TOEICは980点である。
英語ができないから、英語を教えるなと言っているのではない。英語を本当に学ばせたいなら、まず日本語を教えろと言っている。
国語の文法も十分に理解していない子どもへ、挨拶、単語、短い定型表現を片言隻句として投入して、何が身につくのか。
英語の語順が日本語とどう違うのか。
主語や目的語をどのように明示するのか。
冠詞とは何か。
時制や数をどのように文法化するのか。
こうしたことを理解するには、比較対象となる母語の構造を理解している必要がある。
ところが日本の国語教育は、日本語の文法を言語の構造として十分に教えない。
日本語を母語として自然に話せることと、日本語の構造を説明できることは別である。
その状態で、「英語は早い方がよい」「国際化には英語だ」と小学生へ投入しても、英語の体系的理解にはつながりにくい。
歌を歌う。ゲームをする。挨拶する。英語に親しむ。
その程度で英語への拒否感が減る子どもはいるだろう。
だが、それは義務教育の授業時間を継続的に投入するほどの効果なのか。
その時間に日本語の文章を読ませた方がよくないか。
作文を書かせた方がよくないか。
国語の文法を教えた方がよくないか。
算数をやらせた方がよくないか。
教育には機会費用がある。
「英語も情報も国語も数学も全部やればいい」というのは、政策ではない。時間も教員も子どもの注意力も無限にあるという空想である。
「日本を残せ――日本共和制論 5/5」では、日本語は閉じるためだけの言語ではなく、外へ出るための母語でもあると書いた。
世界へ出るには英語が必要だという主張と、日本語を先に固めるべきだという主張は矛盾しない。
足場を作ってから外へ出ろと言っている。
母語を痩せさせて英語へ出ても、英語で生産された概念を受け取るだけの人間になる。
日本語で理解し、日本語で問い直し、日本語で再構成し、その上で英語でも議論できる人間を作るべきである。
4.古文漢文は、現代文の外側にある教養ではない
古文漢文を減らして、現代文や情報教育を増やせという議論は、しばしば実用性の名の下に語られる。
社会へ出て『源氏物語』を原文で読むことがあるのか。
漢文の返り点が仕事で役に立つのか。
その時間に契約書の読み方やプレゼンテーションを教えた方が実用的ではないか。
一見もっともらしい。
だが、前提が間違っている。
古文と漢文は、現代日本語の外側に置かれた、過去の人間の趣味ではない。
現代日本語の内部史である。
現代日本語の語彙、構文、比喩、成句、感情表現、政治語彙、倫理語彙、学術語彙は、昨日突然できたものではない。
古文を知らなければ、現代日本語に残っている語感の層が見えなくなる。
漢文を知らなければ、現代日本語の抽象概念を支えている漢語の構造が見えなくなる。
日本の学校でいう漢文は、中国語を外国語として学ぶ授業とは違う。
中国古典語で書かれた文章を、語順を入れ替え、助詞や助動詞を補い、日本語として読む訓読の伝統を含んでいる。
それは、外国の文章を日本語の内部へ組み替えて読む技術だった。
つまり漢文教育は、古い中国人の言葉を暗記するだけのものではない。
異なる言語と思想を、日本語として受け取る方法の訓練でもある。
現代文を強化するために古文漢文を削るというのは、建物の上層階を補強するために基礎を削るようなものだ。
古文漢文を現在の教育方法のまま、無反省に保存すればよいとも思わない。
細かい文法事項や句法を受験問題として識別させるだけなら、古典嫌いを増やす。
どの語が現代語に残っているのか。
どの漢語が現在の政治・法律・学問を支えているのか。
漢文訓読がどのような翻訳装置だったのか。
古代・中世・近世の日本語と現代語がどこでつながり、どこで切れているのか。
そうした連続性を教えるべきである。
減らすのではなく、意味のある形に組み直せ。
5.漢文は、日本語の概念形成装置だった
日本語が高等教育まで届く言語になれたのは、日本語が最初から近代科学や法学や哲学の語彙を持っていたからではない。
なかった語を作ったからである。
西洋の学問や制度を輸入する際、日本の知識人は、英語、ドイツ語、フランス語などの語をそのまま音写するだけでは済ませなかった。
漢籍と漢語の蓄積を使い、漢字を意味の部品として組み合わせ、新しい概念語を作った。
「哲学」「科学」「社会」などは、その代表的な例である。
どの語を誰が最初に作ったか、どの語が中国や日本のどの文献に先行して現れるかは、個別に検証しなければならない。
ここで重要なのは、発明者当てではない。
外来概念を、自国語の内部で考えられる形へ作り直す知的能力があったことだ。
カタカナ語で済ませれば、原語との対応関係は残る。
しかし、その語が日本語の他の語彙とどのようにつながるかは弱くなる。
概念を理解するには、単にラベルを覚えるだけでは足りない。
近接概念との違い、反対語、語の構成、既存の思想との関係まで考える必要がある。
漢字による造語は、その関係を日本語の内部へ埋め込むことができた。
もちろん、漢語にすれば必ず正確になるわけではない。
訳語が原語の意味を狭めたり、余計な含意を加えたりすることもある。
だから翻訳語は批判され、修正されなければならない。
しかし、批判できる日本語の概念が存在すること自体が重要なのである。
英語だけが概念を生産し、日本語がそれをカタカナで消費するだけの言語になってはならない。
6.日本語には、少なくとも二つの造語能力がある
日本語の造語能力は、漢語だけではない。
大和言葉を組み合わせ、感覚を直接立ち上げる力もある。
ぼくは以前、「うすほそは日本美学の極地である」という論考を書いた。
「うすほそ」は、薄いと細いを接続し、厚みの乏しさ、華奢さ、頼りなさ、繊細さを一語の感覚として発生させる。
この語については、すでに日本語版だけでなく英語版も公開している。詳しくはそちらを参照してほしい。
ここで言いたいのは、日本語には二種類の概念形成能力があるということだ。
一つは、大和言葉を組み合わせて、身体感覚や質感を直接立ち上げる力。
もう一つは、漢字を意味素として組み合わせ、抽象的な概念を作る力。
日本語は、この二つを併用してきた。
「令和」も、その重なりを示す例である。
「令和」は『万葉集』の梅花歌序から採られた。
だが、その序文は漢文で書かれ、中国古典文学の語彙と修辞を継承している。
国書か漢籍か、日本固有か中国由来かという単純な二者択一ではない。
外来の語彙と形式を受け取り、日本語の内部へ組み込み、日本語として使う。
それが日本語の歴史だった。
だから古文漢文を削ることは、過去の文学作品を読めなくするだけではない。
日本語が新しい語を作るために使ってきた資源を削ることである。
7.AI活用を言うなら、「マインドフルネス」を訳してみろ
では、現代において新しい外来概念を日本語へ受け取るとき、何ができるか。
AIを使ってみればよい。
ただし、英語の文章を要約させ、カタカナ語を並べたレポートを書かせるためではない。
語源、既存訳、中国語圏での訳語、仏教語、漢籍、日本語の語感を横断して、訳語候補を作らせる。
実際に、「マインドフルネス」を例に、ぼくとAIで次のようなやり取りをした。
ぼく:
マインドフルネスは、英語をカタカナにしただけで、日本語として何を意味しているのか分かりにくい。中国語圏ではどう訳されている。漢籍や仏教語も踏まえて、明治の知識人のように日本語の訳語を考えてみろ。
AI:
仏教語としては「正念」がある。中国語圏では「正念」が広く使われ、香港などでは「静観」という訳も見られる。「内観」「気づき」なども日本語で使われている。新しい候補としては、「現観」「在覚」などが考えられる。
ぼく:
「正念」は、日本語では正念場や正しい信念のように聞こえる。「静観」は普通の日本語としては傍観に近い。「内観」は内面だけを見る感じが強い。「気づき」は軽すぎる。「現観」は悪くない。「在覚」も、初めてマインドフルネスと聞いたときよりは何を言いたいか分かる。
ここで、候補を一つに確定する必要はない。
「正念」には、仏教史上の連続性がある。
「静観」は、静かに観察するという現代語としての分かりやすさがある一方、何もしないで眺めるという含意が強い。
「内観」は既存の心理療法や宗教実践との混同がある。
「現観」は、現に生じているものを観るという構成が、マインドフルネスの一部を比較的よく表す。
「在覚」は、現在そこにあることと、覚知することを組み合わせられるが、日本語として定着していない。
こうして候補を出し、違和感を言語化し、語の境界を詰める。
これがAIの使い方である。
AIに「正解」を教えてもらうのではない。
AIに候補を大量に出させ、人間が切る。
語源と用例を確認する。
既存語との衝突を見る。
必要なら採用しない。
そもそも、ぼくはマインドフルネスという概念自体に好意的ではない。
文脈によっては、制度や身体や責任の問題を、個人の心の置き方へ回収するスピ語として機能する。
訳語を作ることと、その概念を受け入れることは別である。
だが、概念が嫌いだからこそ、カタカナの雰囲気に逃がさず、日本語で何を意味しているのか露出させる価値がある。
訳せば、批判できる。
カタカナのままでは、分かったような顔だけが増える。
8.本来、これは人間がやる仕事である
ここでAI礼賛へ行くつもりはない。
本来、この仕事は人間がやるべきである。
外国語を学ぶ。
原典を読む。
漢籍を読む。
既存の日本語を調べる。
意味の境界を考える。
訳語を作り、批判を受け、修正する。
明治の知識人は、それを人間の頭でやった。
現代人がAIを使わなければ新しい訳語を作れないなら、明治より知的に後退している。
だから、「AIによって明治の翻訳語形成を再実装する」という言い方は、半分はアイロニーである。
人間でできるなら、それが一番よい。
だが、政治家も官僚も企業も学校も、口を開けばAI活用と言う。
それなら、作文を代筆させ、感想文を作らせ、検索結果を要約させるだけで満足するな。
語源調査。
既訳比較。
複数言語の横断。
漢籍との照合。
訳語候補の生成。
概念の境界分析。
そういう、人間の知的作業を広げる方向へ使え。
「日本を残せ――日本共和制論 5/5」でも、AIは翻訳、比較、制度読解を助けうる一方、もっともらしい空疎な日本語を量産し、概念を丸める危険があると書いた。
何を言うか。
どの概念を採用するか。
どの訳語を使うか。
その結果に誰が責任を負うか。
これは人間の仕事である。
AIを使うとは、AIに書かせることではない。
問いを立て、出力を疑い、候補を切り、意味を詰め、最終的な責任を引き受けることである。
9.言語も再生産しなければならない
「この国を次の世代に渡せ――日本共和制論 4/5」で、ぼくは少子高齢化を単なる人口減少としてではなく、社会の再生産可能性の問題として論じた。
働く人を確保すればよい、というだけではない。
子どもを育てること。
介護を制度へ接続すること。
地域で暮らせること。
農地、海、食料供給能力を次世代へ渡すこと。
社会が社会として続くための条件を一体として考えなければならない。
詳しくは同稿を参照してほしい。
ここに、言語の再生産可能性を加える必要がある。
日本語話者の数が残れば、日本語が残ったことになるのではない。
日常会話ができる。
アニメが見られる。
SNSへ短文を投稿できる。
それだけでは、日本語公共圏は維持できない。
日本語で法律を理解できる。
日本語で医学を学べる。
日本語で工学を学べる。
日本語で哲学を読める。
日本語で制度を批判できる。
日本語で外国概念を翻訳できる。
日本語で新しい概念を作れる。
その能力が世代ごとに再形成されなければならない。
現在、日本語は高等教育まで届く言語である。
日本語だけで世界のすべての研究にアクセスできるという意味ではない。
最先端研究では英語を読む必要がある。
海外の研究者と議論するには英語その他の外国語が必要である。
しかし、法律、医学、工学、自然科学、社会科学、人文学を、日本語で学び始め、日本語で制度へ接続し、日本語で公共的議論へ参加できる。
これは当たり前ではない。
長い翻訳、造語、出版、教育、辞書編纂、専門家養成の蓄積によって成立した状態である。
一度痩せれば、簡単には戻らない。
専門家が英語でしか考えなくなる。
高等教育が英語文献の紹介へ縮小する。
日本語では概念の細部を語れなくなる。
一般市民と専門家のあいだが切れる。
英語ができる階層だけが高等知識へ接続し、それ以外は要約された結論だけを受け取る。
それでは、日本語公共圏は階層的に分断される。
日本語を残すとは、英語を拒否することではない。
英語を読める者だけが知識を独占しないようにすることである。
10.文科省は、応用の前に基礎を見ろ
文科省案は、情報活用能力を「探究的な学びを支える基盤」と位置づける。
だが、その基盤のさらに下に何があるのか。
文科省の資料にも「言語能力」は学習の基盤となる資質・能力として置かれている。
ならば、なぜ情報の看板ばかり新しくするのか。
表やグラフを作る前に、数字を理解させろ。
インターネットで情報収集する前に、文章を読ませろ。
スライドを工夫する前に、論証を書かせろ。
生成AIの出力特性を学ぶ前に、自分で文章を書かせろ。
メディアごとの印象の違いを論じる前に、語の意味を区別させろ。
新しい教科や領域を設ければ、政策を実行したように見える。
AI、プログラミング、メディアリテラシー、データサイエンス。
看板はいくらでも作れる。
だが、基礎能力がなければ、それらは操作体験と用語暗記に終わる。
情報教育を増やすなら、国語と数学を削らずにやれ。
そのための授業時間と教員を追加できないなら、優先順位を考え直せ。
小学校英語も同じである。
全部盛りにして、どれも薄くするな。
義務教育は、流行語を一通り体験させる展示会ではない。
社会の成員を形成する制度である。
11.日本語を、高等教育のできる言語の側から落とすな
日本語は、自然に現在の日本語になったのではない。
古代の日本人が漢字を受け取った。
漢文を日本語として読む方法を作った。
中国由来の語彙を日本語へ組み込んだ。
仏教語、儒教語、政治語、倫理語を蓄積した。
近代には、西洋の法律、科学、哲学、社会思想を訳した。
出版社が本を作った。
辞書が編まれた。
学校が教えた。
大学が専門家を養成した。
そうして、日本語で高等教育まで届く社会が作られた。
「日本を残せ――日本共和制論 5/5」で、ぼくは残すべきものの一つとして日本語公共圏を挙げた。
日本語で教育を受ける。
日本語で制度を理解する。
日本語で世界思想に触れる。
日本語で公共的な議論を行う。
日本語でこの社会の次の形を考える。
本稿は、その議論への教育課程上の補論である。
日本語公共圏を残したいなら、それを作る教育を残さなければならない。
国語を残せ。
数学を残せ。
古文漢文を、過去の飾りとしてではなく、現代日本語の内部史として教えろ。
英語は、日本語の基礎を作った上で体系的に教えろ。
情報技術は、読み書き数理の上に載せろ。
AIは、日本語で考える過程を省略するためではなく、日本語で考えられる範囲を広げるために使え。
日本語を守るとは、日本語話者の数を維持することではない。
日常会話が残ればよいという話でもない。
日本語が、高等知識を受け取り、批判し、翻訳し、制度を設計し、新しい概念を作れる言語であり続けるようにすることである。
小中学校の情報教育を増やすという目先の政策変更も、その長い時間軸の中で評価しなければならない。
日本語を、高等教育のできる言語の側から落とすな。
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