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赤紙の向こう側──終戦の日に思う、生き延びる理由

その日、家の前で足音が止まった。戸を開けると、郵便局の制服に腕章をつけた男が立っていた。胸の前には、赤い縁取りの封筒。

 「真田正之君、おめでとうございます」

言葉は笑顔なのに、目が少しだけ泳いでいる。これが徴兵令状──いわゆる赤紙。本人にしか渡せない、特別送達だ。受け取る僕の手は、どうしても震えた。

封を切ると、そこには検査日と集合場所。「召集検査」とあるが、みんな知っている。この時期の検査は、落とすためではない。通すための儀式だ。心臓が悪かろうが、片目が悪かろうが、「甲種合格」の印を押される。

赤紙が来た時点で、もう入隊は決まっているのだ。
昭和二十年の春。ラジオは「戦況は優勢」と繰り返すが、町の若い男はほとんど帰ってこない。優勢とは、どうやら“出発方向だけ”を指す言葉らしい。


召集検査の日、僕は最後尾に並んだ。前のやつらが次々に「歩兵適性」と判定されていくのを見ながら、背中に嫌な汗が流れる。歩兵は南方行きだ。マラリア、飢え、米軍の弾丸。突撃を拒否すれば、後ろから督戦隊に撃たれる。行きも地獄、帰りも地獄だ。

 「次!」

僕の番が来た。裸にされ、背中を叩かれ、目を覗き込まれる。軍医が眉をひそめた。

 「視力は?」

 「両目とも二・〇です!」

 「……飛行科志願はどうだ?」

来た!飛行機乗りなら、まだ生き延びる道がある。空の上で雲に紛れれば、誰にも見られずに反転できる。「敵を見失いました」で帰還できる可能性が、歩兵よりは高い。

 「志願します!」
こうして僕は、訓練所に送られた。

だが、操縦訓練が始まって三日で悟る。僕は、自転車の手放し運転すらできない男だということを。着陸のたびに滑走路を外れ、教官に怒鳴られた。

 「お前は風防ガラスで敵を殺す気か!」

ひと月後、適性なしの烙印を押され、歩兵科へ回された。行き先は南方。出征の朝、駅前には町内会が日の丸の小旗を振り、あの郵便局員も立っていた。あんたの「おめでとうございます」、忘れねぇぞ──心の中でつぶやいた。


船で南方の小さな島に着いたとき、海は信じられないほど青かった。
青すぎて、このまま泳いで帰れそうな気がしたが、もちろん監視の目があった。
部隊に合流すると、最初の仕事は塹壕掘り。土を掘ってもすぐ水が滲み出る。そこに藁を敷き、泥の上で寝る。飯は芋とバナナ。たまに米。肉は噂でしか聞かない。

ある夜、分隊長が紙を手にやってきた。

 「明朝、突撃だ」

声は落ち着いていたが、隣の伍長の手が小刻みに震えているのを見逃さなかった。突撃──つまり、行って帰ってこないやつだ。
戦争の映画では、突撃は勇ましいラッパで始まるが、ここでは虫の声だけだ。
暗いうちに集合して、夜明けと同時に前進。相手の機関銃座まで50メートル。分隊長は「敵陣まで全力で走れ」と言ったが、僕は別の計画を立てていた。

夜のうちに足を叩き、痛がるふりをする。昔、村の相撲大会で捻挫して休んだときの要領だ。だが、打ってみたら自分でも驚くほど痛くて、しばらく本当に立てなかった。これで後方へ回されるかと思ったら、軍曹が笑って言った。
 
 「足が悪いなら這って行け」

突撃前夜、伍長が煙草をくれた。

 「帰ったら酒でも飲もう」

たぶん、それは叶わない約束だ。でも、口に出して言うことで、少しだけ夜風がやわらいだ気がした。
布団もない塹壕の底で、干し芋を一切れ口に入れる。祖母が赤紙の日にくれたやつだ。甘さは抜けて、硬くなっていた。
湿った土と人いきれの匂い、汗が冷えていく背中、足元を這う虫の感触。息を吸うたびに喉の奥が鉄の味になった。


夜明け前、空が白み始める頃、米軍の艦砲射撃が始まった。地面が跳ねるように揺れ、鼓膜が破れそうな轟音が続く。塹壕の土壁が崩れ、砂と泥が口に入った。突撃予定地は、砲撃で抉られた泥の海になっていた。

分隊長が「後退だ!」と叫び、全員が穴に這い戻った。
その日、突撃は中止になった。
翌日からは補給が途絶え、部隊は山に引き上げた。マラリアや飢えで次々と倒れる中、僕の意識も暗く沈んでいく。

 ……遠くで砲声が消えていく。

 代わりに、妙に甲高い声が耳を刺した。


 「おい、起きろ。朝礼だぞ」

目を開けると、そこは塹壕ではなかった。灰色のカーペットと、安い蛍光灯の光。机の上には、昨日片付けたはずの書類の山。僕は南方の島で死にかけていたはずだ。だが、目の前には上司の顔があり、その口がこう動いていた。

 「おめでとう。今日から営業一課に異動だ」

 声は笑顔なのに、目が少しだけ泳いでいる。デスクの上の辞令は、赤い縁取りこそないが、間違いなく僕を戦場に送る特別送達だった。


 人は戦場を変えて、生き延びるだけだ。



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