ロング・グッドバイ

【著書紹介文(出版社Webより)】
私立探偵のフィリップ・マーロウは、億万長者の娘シルヴィアの夫テリー・レノックスと知り合う。あり余る富に囲まれていながら、男はどこか暗い蔭を宿していた。何度か会って杯を重ねるうち、互いに友情を覚えはじめた二人。しかし、やがてレノックスは妻殺しの容疑をかけられ自殺を遂げてしまう。が、その裏には悲しくも奥深い真相が隠されていた……村上春樹の新訳で話題を呼んだ新時代の『長いお別れ』が文庫版で登場

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レイモンド・チャンドラーによる「私立探偵フィリップ・マーロウ」シリーズの6作目。これを読むのはもう5回目ぐらい。シリーズ最長編かつ最高傑作と呼ばれることが多い。

名シーン、名言があまりにも多すぎて、一つ一つを紹介することが難しいと考えるため、あくまで大筋での感想を書こうと思う。

まずはじめに、出だしから他の6作とは全然雰囲気が違うと感じた。1文1文がひきしまっており、濃縮されている。これで600ページあまりを走るのか…という圧迫感のようなものさえ感じた(とはいえそれは最初だけで、以後はミステリとしてもすらすら楽しんで読めた)。

毎度紹介している諏訪部浩一さんの『チャンドラー講義』の該当箇所を先に再読してから本編を読み始めたのだが、氏によると本作にはマーロウの(あるいは著者チャンドラーの)仕事観や人生観、具体的には「マーロウにとっては探偵業はただの仕事ではない(やさしさ・人助け)」、「なぜ探偵業をやっているのか自問自答」、「自分の人生に思いを馳せる中年男性(42歳とある)」、「仕事抜きの友人関係(テリー・レノックスとの)が彼にとっての慰めでもある」等への言及があり、確かにベースとしてそれらは色濃く出ている。例えば以下のような描写

 そのようにして、私立探偵の一日が過きていった。典型的な一日というわけでもないが、それほど特殊な一日ともいえない。どうしてこんな商売を続けているのか、自分でもよくわからない。金持ちになれるわけでもないし、愉しいことがそうそうあるわけでもない。ときには叩きのめされたり、銃で撃たれたり、留置場に放り込まれたりもする。こんなことを続けていたら、とても長生きはできないだろう。二ヵ月に一度くらいは、この商売から足を洗おうと決心する。まだ頭をしっかり上げて歩けるうちに、もう少し気の利いた仕事を見つけようと。ところがそのときドアのブザーが鳴る。待合室とのあいだのドアを開けると、見知らぬ誰かがそこに立っている。その誰かは新手の問題を抱え、新手の悲しみを背負い、ささやかな金を手にしている。
「お入り下さい、ミスタ・シンガミー。どのようなお話でしょう?」
 そこには何か理由があるはずなのだ。

(P.249 ハヤカワ文庫版)

 私の別の部分は、こんなところからさっさと立ち去り、二度と戻ってこない方がいいと囁いていた。しかしその部分から聞こえてくる声に、私が耳を傾けることはまずない。もしそんな声に耳を傾けていたら、私は生まれた町にそのまま留まり、金物店に勤め、店主の娘と結婚し、五人の子持ちになり、日曜日の朝には子供たちに新聞の漫画ページを読んでやっていたはずだ。子供たちが言うことを聞かなかったら頭をひっぱたき、子供たちにどれくらいの小遣いを与えればいいか、ラジオやテレビのどんな番組を見せればいいか、そんなことで妻とがみがみ口論をしていたはずだ。金持ちにだってなれたかもしれない。小さな町の小金持ちに。寝室が八つあり、ガレージには車が二台入り、日曜日にはチキン料理を食べ、居間のテーブルには『リーダーズ・ダイジェスト』が置かれ、妻は鋳鉄のようながちがちのパーマをかけ、私の脳味噌はポートランド・セメントの袋みたいになっていただろう。そういう人生はお断りだ。私は薄汚くよこしまな大都市に生きる方を選ぶ。

(P.391 ハヤカワ文庫版)

いずれも他の6作には少ないマーロウの内省であり、印象的であるし、僕(誠心)もこのマーロウとほぼ同世代であり、おおいに共感するところがある(ただこれは極めて個人的な話になるので詳しくは書かない)。

また、訳者である村上春樹さんの「あとがき」によると(長すぎるあとがきは読みごたえたっぷり!)スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』をひきあいに出し「魂の交流の物語」であるという。確かにマーロウとテリーの関係は、キャラウェイとギャツビーに置き換えられる。本作登場の作家ロジャー・ウェイドはフィッツジェラルドに言及しているし、著者チャンドラー自身もフィッツジェラルドのグレート・ギャツビーを高く評価していたそうだ。

・・・と、あとがきからの引用はこれぐらいにしておいて…(「チャンドラーの小説の書き方」、なんかもすごくおもしろいです。いかに村上春樹さんが影響を受けているかがわかります)。

マーロウのように派手に殴られたり蹴られたり(身体的に)は無いものの、せめて精神的には何度打ちのめされても「のされても」、何度でも立ち上がり、タフでやさしく生きていきたい。
「マーロウに比べれば…」と思い出すことで、今後も人生の難局を乗り越えていけるのではないかと思う。そのためのまさにバイブル。

マーロウとテリー・レノックスの友情もすばらしいのだが、どちらかというと今回も「脇役」的な登場人物に関心がいった。

まずは新聞記者のロニー・モーガン(報道たるものを冷静にとらえ、分別がある)、億万長者のハーラン・ポッター(彼の長広舌はいわゆる「システム(カネ・権力)」や「消費社会」に言及しているが、いまいち本心のところが最後まで見えないところが興味深い)、ジョージ・ピーターズ(カーン機関の調査員、マーロウとの信頼関係が頼もしい)、キャンディー(ウェイド家のお手伝い、危険だが興味深い若者)など。

逆に連鎖的に死に追い込まれる人物たちには、やや食傷気味なのかもしれない…が、作家ロジャー・ウェイドの存在と描写は、著者チャンドラー自身の苦悶も書かれているようで興味深く読んだ。
父親の愛をほとんど受けなかったチャンドラーは、ウェイドを優しく看病するマーロウ(このシーン、とても好きで)のような存在を求めていたのかもしれない。という意味では痛い目に遭わされながらも最後には「しっかり生きろよ!」とキャンディーにエールを送るマーロウの優しさも印象に残る。
「一人の男の無実をはらす」をベースに、とにかく「マーロウの優しい物語」といってよい。

「脇役が気になる」というのは僕自身の生き方を反映しているのだろうと思う。

あらがえない「システム」は令和の時代においても日に日に巨大化しているように感じる。
自分に納得し、タフに生きていくためのマーロウの言葉を最後にもう一度…(『プレイバック』より)

「厳しい心を持たずに生きのびてはいけない。優しくなれないようなら、生きるに値しない」
(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive)

《マーロウ作品の全体感想》

『ロング・グッドバイ』におけるマーロウとリンダ・ローリングとの関係には、今後の(今までとはやや異なる)マーロウの方向性なるものが確かに垣間見える。マーロウはハードボイルド私立探偵以前に一人の人間であった。むろん、チャンドラーその人もまた一人の人間である。
次作である『プレイバック』が思うように売れなかったのは本当に残念であったろうが、僕はさらに『プレイバック』を愛しく思うようになった。さらに未完の次作『プードル・スプリングス物語』は1割がチャンドラーで9割が他者(ロバート・パーカー)の著述であるから読まないが、さかのぼっては『高い窓』『水底の女』『プレイバック』が特に好きだけれど、あまり評価できなかった『リトル・シスター』なんかについても、チャンドラーはいつも精一杯生きていたんだなぁ…と、しみじみと思い返している。

チャンドラーの人生に、キャリアに、マーロウの人生に、キャリアに、触れられたことがとても嬉しく、感謝の思いでいっぱいです。春樹さんの丁寧な翻訳からも愛情を感じまくりでした。

そして都度、こうしてレビューに書きおこしていることも、僕の人生に影響を与えているのでしょう。良い趣味(もはやライフ・ワーク)だなぁ…と改めて思いました。

以下にフィリップ・マーロウ作品(レイモンド・チャンドラー作品)の最近のnoteをリンクします。ぜひご興味のある方はご覧ください。


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