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172.【小説】Golden Slumber Ⅰ-Die Stille des Goldes-

あらすじ:
かつて“黄金分割”に象徴される構造美を信奉していた美術史家レオポルト。

ウィーンの夜会で彼は、形式を乱す謎めいた女性ミレナと出会う。

美とは、秩序か、崩壊か──。

歴史と美学、記憶と感情が交錯する中、彼の「静寂な世界」に最初のひびが入る。

芸術と人間の深層に触れる、静謐かつ濃密な心理小説。


プロローグ ──鏡の向こうに、花は枯れる


かつて私は、比例と対称に安らぎを見出していた。

黄金分割の庭園、ヴァニタスを排した構図、静謐なるパラディウム様式の列柱。ウィーンという都市そのものが、一つの調和された構造体であり、私はその内側に生きていた。

否、生きていたと信じていたのだ。

今、この山荘の窓辺には、陽を浴びたラベンダーが微かに揺れている。あれほど嫌っていた“計算されぬ自然”に、私は心を寄せている。

この静けさが、かつてのあの喧騒よりも遥かに真実に近いと、そう思える日が来るとは。

書斎の壁には、かつての私が選んだ絵画がいくつか掛けられている。

一枚はラファエロの模写、もう一枚はローマ時代の石膏を描いた静物。

だが、いま最も心を惹かれるのは、小さな素描——朽ちかけた果実と、枯れかけた花と、あの人の、面影だった。

どうやら私は、かつての“私自身”から遠く離れた場所に来てしまったらしい。

けれど、それは敗北ではない。

構造の中に閉じ込めたはずの感情が、崩れ、溢れ、染み出し、ようやく“美しさ”になったのだから。


第1章「黄金の静寂」


燭台の火が揺れるたびに、壁の金箔がわずかに息をしているようだった。

ローテンベルク家の夜会は、ウィーンでも最も格式高く、静謐であることで知られている。

ここには笑いも歓声もあるが、それは決して崩れ落ちることのない建築のように、慎重に組まれている。

私は、中央のシャンデリアが映り込む大鏡の前に立ち、客人たちの配置を観察していた。

誰がどの色を纏い、誰と誰が話し、誰が中心を避けるか。

それは呼吸のようなものだった。
崩れを見つけると、どこかが疼く。

秩序を保つことこそが、私を私たらしめていた。

アレクシアは、少し遅れて現れた。

白の絹のドレス、銀の刺繍、ルビーのペンダント。

完璧な配置で現れ、完璧な位置に歩を進めた。

私たちは長年の知己であり、その再会には何の破綻もなかった。

言葉は選ばれ、笑みは控えめに、互いの間には“静謐の構造”が存在した。

そして、舞踏が始まる少し前、彼女──ミレナが現れた。

ドアの向こう、控えの間から差し込む光に、彼女の琥珀色のイヤリングが揺れていた。

誰の紹介かも定かでない。黒と茜の布地が絡み合ったドレス。裾はわずかに乱れ、笑みは制御されていない。

まるで“即興音楽(ジャズ)から抜け出してきた女”のように、リズムに身を任せ、軽やかに空間へ侵入してきた。

部屋の空気が一瞬、微かに波打った。

彼女が足を止め、周囲の視線を受け止める。

私は思わず、視線を逸らそうとした

──だが、できなかった。

彼女の目はまっすぐに、私の内側を見ていた。何の予告もなく、何の許可も得ず。

「退屈ね。」

彼が言葉を探すより早く、彼女は続けた。

「息してないのよ──アナタの世界。」

その言葉は、私の内側の何かを、確かに動かした。

それはほんの一瞬。

けれど、その“一滴の歪み”が、私という完璧な構造に、最初の“ひび”を刻んだのだった。


夜会のあと、馬車の窓をわずかに開けた。冬のウィーンの夜気は、喉に触れると少しばかり痛かった。

車輪の音が石畳に反響し、均整に整った街並みに沿って進む

──だが、私の思考だけが、どこかで“ズレ”を起こしていた。

アレクシアとの会話は完璧だった。

彼女の所作、言葉、沈黙さえも、美術史における古典の如く洗練されていた。だがなぜか、私は彼女の言葉を一つも思い出せなかった。

代わりに、耳の奥でミレナの声がこだましていた。

「退屈ね。息してないのよ──アナタの世界。」

──どうしてあんな言葉を、私は否定しなかったのだろう。

馬車が広場を通り抜ける時、ちらりと視線を上げた。

一軒の窓辺に、花瓶が置かれていた。

その中の花は、白いカーネーションだったが、一輪だけ

──赤く、そして枯れかけていた。

それが、なぜか目に焼き付いた。

黄金の均整を愛した私の眼が、それを“美しい”と感じたことに、私は戸惑った。

それは、計算から外れた配置だった。だが──確かに、そこに“意味”があった。

私はまだ、揺らいではいない。だが確かに、どこかで音がしたのだ。


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