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かくして、僕は今日も昭和映画館に足を向ける。

今より、ずっと混沌としていた時と街で、
僕は映画の森の中を彷徨い、何かを探し続けていた。
何を、って?
それが分かっていたら、あんなに映画に夢中になれるわけない。
けれど、求めているものが、そこにあって、いつか見つかる気がした。
だから僕は今日も、ポケットの中の期待と不安が溶け合った感情を握りしめて、昭和映画館に足を運ぶ。

第1回 「青幻記〜遠い日の母は美しく〜」
第2回「さらば友よ」
Column #1 かくも主観的なハードボイルド考察
Column #2 またも主観的「さらば友よ」タイトル比較論
第3回「モナリザ」
Column #3 私的モンティ・パイソンとイギリス・ギャグ論
第4回「未来世紀ブラジル」
Column#4 無能な夢想家の私的ベストな映画論
第5回「アメリカン・グラフィティ」
Column #5 コッポラ監督に何を期待するのか私的論 Part1

第6回「太平洋の地獄」Pat1

『銀幕のスター』という言葉が死語になって久しい。
スター、という言葉そのものは『〜界のスーパースター』とか英語では『Movie Star』などと使われているので死語というほどではないことを考えると、どうやら日本の映画界だけのことのようだ。

日本の映画界が隆盛を極めるようになると『銀幕のスター』が次々に登場した。名前を挙げるとキリがないし、人によって「唯一の銀幕のスター」が存在するので一概には言えないけれど、誰もが納得する1人を挙げるなら、それは間違いなく三船敏郎だ。

僕が最初に三船敏郎の出演作を見たのは『七人の侍』だった。
まだ生まれる前の作品だ。
僕の家から歩いていける距離に国立の大学があり、まだバリケードはおろかゲバ字のタテカンすらない平和な頃(いや、あったかもしれないが)、文化祭(この辺は記憶が定かでない)か何かで、親父にそこへ連れていかれた時だ。
親父の目的は学生が上映する『七人の侍』だった。その頃の映画研究会だか研究部だか分からないが、そういった連中がフィルムを借りてきたのだろう。教室のような小さな部屋、シーツのようなスクリーン、不鮮明な映像、息切れを起こしそうな熱気…。小さかった僕は、ほとんど場面を見た覚えがない。
国立の大学の前には門前の商店街があり、帰りにそこで屋台のお好み焼きを買ってくれたことが唯一の思い出だ。

高校3年生の夏、剣道部を引退すると、途端にやることがなくなった。学校の帰り、友人たちと麻雀で時間を潰すこともあったが、それよりも1人で映画を観る方が好きだった。
ほとんど日本映画を観ることはなかったが、唯一の例外は黒澤作品。レンタルCDすらない時代、黒澤作品をスクリーンで観られる機会は稀で、それこそ新聞(私の住んでいた街の地方新聞には必ず映画館と上映している映画の情報が掲載されていた)を毎日のように調べて上映館を探さなければならかった。
そんな中で見つけたのが「オールナイト黒澤祭り5本立て」という映画イベント(まあ、そんな感じのタイトル、ということで)。
『七人の侍』とか『天国と地獄』とか『用心棒』といったメジャー作品は含まれていなかったけれど、それでも黒澤作品の全踏破を目指していた僕には朗報だった。
親には正直に「オールナイトの映画を観に行く」と告げた。その頃、兄はバイトと称してあまり家には帰っておらず、たまに帰ってきても寝るだけだったので、親も家に子供がいないことに慣れていたのかもしれない。とにかく、さして心配されることもなく、僕は夕食を食べ終えた後、隣の市の映画館に向かった。通っていた高校よりもずっと近い距離だった。
上映プログラムは『蜘蛛巣城』『静かなる決闘』『野良犬』『悪い奴ほどよく眠る』『わが青春に悔なし』の5本で、このうち4本の主役が三船敏郎だ(『わが青春に悔なし』の主演は原節子)。
途中、寝ることもなく5本全部観終わった後、映画館の外に出て都会のビルの間から上がる朝日を見た時、とても清々しい気分になった。
僕がオールナイト5本立てを観た頃、三船敏郎はすでに『銀幕のスター』を超えて『世界のミフネ』になっていた。
1951年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を取った『羅生門』や1955年銀獅子賞の『七人の侍』などの演技が高く評価され、本人も同映画祭で『七人の侍』と『赤ひげ』で男優賞を受賞している。
海外でこれだけ注目されれば出演オファーも当然、来る。
数ある中で出演を選んだ1本が、1968年に公開された『太平洋の地獄』だった…。

Part2に続く



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