お願いだから貸してくれ 1話 68 紗希 2024年6月11日 23:09 [あらすじ]山根栞菜かんなは不動産屋に勤める33歳夫であり、幼馴染の涼介とは結婚して3年になる。子供はいない。栞菜は、不動産業に就くことに、抵抗を感じていた。それは亡くなった父と同じ業種だったからだ。生前の父は、ギャンブルにはまり、その度に借金を作った。家族がどれほど苦しんだことか。父が逝った後でも、栞菜の中には、複雑な思いが残っている。しかし今は仕事を選べる身分ではない。勤めていた会社が倒産。そこへ知人からの不動産屋の紹介。住まいからも近いこともあり、栞菜は社員になった。働き始めると、予想もしなかった事態に、栞菜は次々と遭遇することになる。そして幼い頃から感じていた、夫の持つ能力とは。お願いだから貸してくれ 1話栞菜はソファーで、うたた寝をしていた。「ただいま〜」午後9時過ぎ。夫の涼介が帰宅したようだ。栞菜は、寝ぼけ眼でソファーから起き上がった。「いいよ。いいよ。無理して起きなくても。疲れているんだから」リビングに入って来た涼介は、そう云ってくれた。「お帰り涼介。何だか酷く体が重くて。ごめんね」涼介は、少しの間、黙って私を見ていた。「謝らなくてもいいよ。栞菜が疲れて当然だ」そう云うと、キッチンへ行った。私は軽い頭痛がしていた。梅雨時だから、仕方がないけど、低気圧の影響を受けやすい体質なので、最近では頭痛がしない日の方が、少ないくらいだ。「紅茶を淹れたよ。飲めそう?」「うん。いま行く」私はソファーから立ち上がり、キッチンに行くと、テーブルの椅子に座った。「はいどうぞ。栞菜の好きな、アールグレイだよ」「あ〜いい香り」ホッとすると、体の力も抜けていく気がした。「いただきます」私はティーカップを持つと、もう一度、匂いを堪能してから、カップに口をつけた。「どう。味のほうは」「美味しいよ〜。ありがとね」涼介は満足そうな笑みを浮かべて、自分もテーブルについた。「今日は大変だったみたいだね。栞菜に話す気があるのなら、僕は訊くよ」私はティーカップを、ソーサーに置くと、どうしようか迷ったが、話すことにした。「昨日は水曜日だったから、店は定休日で、私も家にいたでしょう?今朝、出勤したら、古田社長の顔が曇ってたのよ。いつも穏やかで、笑顔を心がけている人なのに」涼介は、紅茶を飲みながら、頷いた。だから私、「何かあったんですか?」そう訊いてみたの。社長の話しを訊いて、質問するんじゃなかったと、後悔した。私はため息をつくと、アールグレイを飲み、自分を落ち着かせた。「一階が雑貨屋のビルがあるんだけど、上は賃貸マンションになってるのね。そこで……一昨日の火曜の深夜に、7階に住む住人が自殺したそうなの」「自殺か」哀しそうに、涼介は呟いた。社長は教えてくれた。あのビルは、雑貨屋の自社ビルでね。実は売ろうと思ってたそうなんだ。そして店を畳んで田舎で、のんびり暮らすことに決めていた。その矢先のことで、雑貨屋のオヤジさんも、肩を落としていたよ、と。「それじゃあ、昨日は大変だったろうな」涼介の云う通りだった。警察は勿論、保証人である、ご両親も駆け付けて、損害賠償のことや、特集清掃への依頼。何より今後、あのビルをどうするか。そういったことの話し合いをしたそうだ。だがたった1日では結論が出せるわけは無い。雑貨屋のオヤジさんは、頭を抱えるばかりだ。「自殺した人は、何歳だったの?男?」「男性。24歳のサラリーマン」「24歳か。若いなぁ。確かに死にたい気持ちに、年齢は関係ないとはいえ」私も涼介と同じだった。やりきれない思いが、胸の辺りに渦を巻いている。「余程のことがあったんだろう。でなきゃ自分の首をナイフで切るなんて、そうは出来ることじゃない」(涼介、私はどんなふうに自殺したかなんて、まだ話してないよ)心の中で私はそう呟く。「さて、今夜も栞菜に、お土産があるよ」涼介は、紙袋を私に差し出した。涼介は、週に3回、仕事の後にパン作りを習いに行っている。「パンが大好きだから、自分でも作れるようになりたい」理由は、簡単明瞭だ。私と涼介は、幼馴染である。家が隣同士で、お互い行ったり来たりして、たくさん遊んだ。それはとても楽しい時間だった。まだ幼い私だったが、時折り涼介には不思議な感じを抱いていた。私には無い[何か]を涼介は持っている気がしたのだ。「もう直ぐ、郵便屋さんが来るよ」オヤツをたべながら、涼介が云う。すると「書き留めでーす」と玄関から声がしたり。「あっ、電話だよ」と、彼が云えば、ルルル ルルル固定電話が鳴る。そんなことが、何回もあった。怖いとかは、思わなかったが、羨ましくは感じた。その内、父親の転勤で、涼介は引っ越して行った。あれから20年近く経ったある日。私は銀座のパン屋さんに居た。全部買いたいほど、美味しそうなパンが並び、選べずに悩んでいたのだ。すると一人の男性が近づいて来た。トレーに乗せたパンを、私に見せると、「このパンと、こっちのパンは、買わないと損ですよ。絶品です。僕が保証します」随分と推しが強い人だなぁ。そう思い、男性の顔を見た。「あれ?」男性も私を見て、「あれ?」これが涼介との、再会だった。久しぶりということで、私達は、何か飲みながら話そうかということになった。そして近くにあった珈琲専門店に入ることにした。涼介は、大学院を出て、大手メーカーの工場で働いていた。「そういえば、その服って」上下、青色の服を、彼は着ていた。左胸元には、有名企業のロゴがあった。涼介は、にっこりしながら、「そう。作業着だよ。僕は研究職だけど、ラインでの仕事をする人以外でも、全員が作業着なんだ。上司も役職も関係なくね」その時、近くのテーブルにいた50過ぎの、女性たちの会話が訊こえた。「自分の息子には、あんな服は着て欲しくないわよね」「当然よ。やっぱりホワイトカラーの仕事に就いてもらいたいわ」それを訊いた私は、彼女たちに一言云いたくなった。作業着を着て仕事をしている人間を、底辺だと決めつける。その考えが大嫌いだからだ。涼介の会社は、誰もが知ってる、かなりの大手だ。そこでの研究職ともなれば、年収も、相当な額のはずである。だいたい、ブルーカラーだのホワイトカラーだの。そんなことで平気で人を差別するなんて、許せない。「まぁまぁ。僕なら平気だよ。結構云われるから、慣れた」涼介は笑顔だ。「僕が今の会社を選んだのは、残業がないからなんだ。これは僕にとって、大事なことでね。パン作りを習っているんだよ。週3回だけど」「パン作りを。涼介はパン職人を、目指してるとか、って無いか」「違うよ。僕がパンが大好きだから、自分でも作れるようになる為だよ」「そういえば、さっきのパン屋さんでも、熱かったものね」「ついね。栞菜もパンが好きみたいだね」「そうなの。かなり好きなんだ」この後も、涼介と私は会話が弾んだ。そして、1年が経ち、私達は結婚した。涼介の収入なら、私が働かなくても豊かな生活が送れることは、分かっていたが、私の性分では、専業主婦は無理である。涼介も、その点を理解しており、私が仕事を続けることについて、何も云わなかった。「ほら、ぼ〜としてないで。今日も大成功な出来だと思うよ。そして栞菜が大好きなパン」「なんだろう。好きなパンは、いっぱいあるからなぁ。塩バターロール?」涼介は首を振る。「え〜と。それじゃあ。アッもしかして。クロワッサン」「正解!」私は袋から、クロワッサンを取り出した。「美味しそう。食べていい?」「いいのですか?栞菜さま。もうすぐ11時になりますが」「うっ」そうなのだ。涼介の作ったパンを食べすぎて、私は太った。気に入ってる服も、ウエストがキツくなってきている。でも、食べたい。だってクロワッサンだし。「僕は、どちらでも構わないのです。ただ栞菜さまの体重……」「それ以上、云ったら許さないから」「怖いなぁ。僕は風呂に入って、もう寝ることにする。作り立てのパンを、その場で食べたから、腹一杯だしね」私は手に持ってるクロワッサンを、眺めている。「栞菜の好きにして、いいんだからね。じゃあね〜」「あの言い方。ムカつく。それでは好きにさせて頂きますわ」私はクロワッサンを、サクッと食べた。「おいし〜」顔が、ニンマリしてしまう。「けど、1つで我慢しよう」後ろ髪を引かれる思いで、私は寝室に行った。今夜は蒸し暑い。もうすぐ、夏が来るんだ。暑い夏が、今年もやって来る……。翌日、出社すると、古田社長と、雑貨屋の店主が話しをしていた。「この度は、大変でしたね」そう云って私はお辞儀をした。「ありがとうございます。正直、参りました」私は頷き、狭いキッチンへ行き、お茶を淹れて来た。雑貨屋の店主は、頭を下げて「すみませんね」と、そう云うと、湯呑みを手にした。「社長、まだ決めたわけじゃないですが、ビルを売却するのは、もう少し後にしようかと、思いましてね」「また、どうしてですか」店主は、お茶を啜ると、こう話した。「甥っ子がね、今は事故物件に住みたい人も、割といるんだよと」「ああ、確かに訊いたことがありますね。家賃は安くなりますが」「もちろん覚悟の上の話しです。自殺したサラリーマンの男性は、社内虐めにあっていたようです」「社内虐め」「ええ、それも学歴のことが原因の1つらしくて。彼は勉強の出来る生徒だったんですが、高校を中退してるんです」私は、食い入るように聞き入った。「成績も良いのに中退を」社長もお茶を口にする。「気の毒な話しでね。彼の父親が事業に失敗してしまって、多額の負債を抱えてしまったんですよ。それで彼も高校を辞めて、働くことになったんです。真面目な彼は、社長や上司には、可愛がられていたようです。ただ、社員たちからは……」社長は、湯呑みをテーブルに置くと、何とも言えない表情になった。「中卒だから、ですね」雑貨屋の店主も、沈痛な面持ちで、頷く。「けれど……彼を追い詰めた、一番の原因は父親を馬鹿にされたことのようです」「やり切れんなぁ。山根さん?どうかしましたか」私は涙が止まらなかった。通いたかった高校を辞め、家の為に真面目に仕事して、それなのに廻りからは、親を馬鹿にされた上に、自分の学歴のことまで。「泣いてすみません。悔しくて……」店主も目を潤ませていた。「山根さんと、仰いましたか。泣いてくれて、悔しいと云ってくれた。亡くなった彼の、いい供養になると思いますよ。ありがとうございます」「ただいま〜」私は玄関で、涼介を出迎えた。「お帰りなさい。涼介」「どうしたんだ、その目は。すごく腫れてるぞ」「たくさん泣いたから」「たくさん泣いたって」「話したら、また泣きそうになる」「分かった。何も云わなくていい。とにかく落ち着こう。クロワッサンは、まだあるの?」「あるよ。昨日は1つで我慢したから」「偉かった。偉かったな栞菜」「誉められると、また泣きそう」「なに?どうしたらいいんだ」駄目みたい。涙が出てしまった。えーと。そうだ、栞菜の気の済むまで泣こう。どんどん泣いていいぞ。涼介がそんなこと云うから、涙が止まっちゃった。どうすればいいんだー! 次作へ ダウンロード copy いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #創作大賞2024 #お仕事小説部門 #連作短編 68 2