【小説】ここに、おったけん――猫は何も言わんけど、佐世保は知っとるまち景色(第64話「雨音のなかで、見送るだけ」/「雨をわたる音のなかで」)
サイドB:「雨音のなかで、見送るだけ」
戸尾町の市場通りの角、ひときわ目立たん信号のそばに、照は今日も立っとった。
黄色いレインコートに赤い旗。帽子の下からのぞく白髪が、湿気で少し広がっとる。
七十七歳の手には、昔ながらの木の柄の傘。握り締めた指は、長年の家事で少し曲がっている。
「滑らんごとね、はい、気をつけて」
雨の日は、声ば少し大きめに。けれど、それもすぐに雨音に消えてしまう。
市場のシャッターは、まだ半分しか開いとらん。
野菜の箱が雨を避けるように並べられとる。
通学中の子どもたちは、傘に顔ば隠して、小走りで過ぎていく。
照はその背中ば見送る。今日も、いつもの朝やった。
あの事故があったのは、もう四十年も前。
真ん中の息子・直人が、中学二年のときやった。
雨の日の朝、傘を持たずに家を飛び出して——交差点で車に弾かれた。
急な飛び出しやった。誰も悪くなかったと言われたばってん、
照は今も、その朝の「行ってらっしゃい」が最後やったことば思い出す。
そのあと、夫を送り、子どもたちも巣立って、今はこの町に独り。
けれど、孤独とはちょっと違う。
朝のこの場所に“立つこと”が、照の心ばまっすぐにしてくれる。
雨脚が少し強うなってきた頃、ふと視界の端に、動かん影があった。
交差点の角、市場の側溝の上。
一匹の猫が、濡れたままじっと座っとった。
白と茶のぶち模様。片耳に、小さか傷。
まるで、旗振る照のことば見守っとるごたん、動かずに“おる”。
「あら…あんたも濡れとると」
傘を向けてやろうとしたが、猫は微動だにせん。
ただ目を細めて、ゆっくりしっぽば揺らした。
——なんやろうね。
誰にも気づかれん場所に、ただ“おる”ことの意味を、その猫が教えてくれたような気がした。
照は、ちいさく笑った。
この猫も、見送っとるんかもしれんね。
信号が変わる。
子どもたちの足音が、じゃばじゃばと雨を打つ。
照はもう一度、声をかけた。
「行ってらっしゃいね。今日も、元気に」
——ここに、おったけん。
たったそれだけのことが、今日の照にとっては、十分やった。
【了】
サイドA:「雨をわたる音のなかで」
雨の音は、ちょっとやさしか。
ざあざあでも、ぱらぱらでもなくて、細かい水が街ば包んどるごたん。
おれは、戸尾町の市場通りば歩いとった。
朝の魚のにおい。雨ば避けるように傘の下を急ぐ足。
ひとつ、またひとつと開きはじめる店のシャッターの音が、眠気をぬぐう。
信号の角に、小さか傘と、黄色いレインコートの人影。
毎朝おる、そのおばあさんや。
今日もまた、旗ば持って立っとる。
雨のなか、立ち続ける理由ば、おれは知っとる。
言葉はなくても、人の心の“音”は、風よりもはっきり聞こえてくるけん。
——その人の心は、ちいさか音で鳴いとった。
懐かしか名前。
あの日の声。
届かんかった「行ってらっしゃい」。
濡れた地面に立ち尽くすその背中から、揺れとる何かが伝わってきた。
それは、痛みやなかった。——祈りに近かった。
おれは、側溝の上に座った。
傘はないけど、かまわん。濡れるのはきらいじゃなか。
その人は、おれに気づいた。
ちょっと驚いた顔のあと、やさしく、細かく笑った。
「濡れとるとにね」って、静かに言った。
けど、おれは動かん。
ただ、そこに“おる”だけ。
見とるよ、っていう代わりに、しっぽば一度だけ、ふわりと揺らした。
信号が変わる。
子どもたちが、にぎやかに、でもどこか不安げに足を進めていく。
おれも、それば見よった。
そして、ゆっくり立ち上がった。
今日の“おる”役目は、もう果たせた気がしたけん。
おばあさんは、もう一度、まっすぐに旗ば掲げた。
雨のなか、その姿は、まるで空の下の灯のようやった。
ここに、おったけん。
それだけで、誰かの心は、今日もすこし、あたたかくなるとたい。
【了】
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前話です ▼
シリーズタイトル一覧:(順次、掲載予定です)
第11話:「陸(おか)に戻った日」/「帰港する心」
第18話:「I didn’t say it out loud, but you heard me.」/「声のない声、ちゃんと聞こえとるけんね」
第20話:「ふたりの間に光が灯る」/「来ると思った。根拠なんてないけど」/「別に、会いに行ったわけじゃない——とか言っても信じんやろな」
第24話:「ほどける音は、声の中じゃなく目の奥にあるとたい」/「おかあさんと、ねこさんと、知らないおじさん」/「坂の途中で、風がふたつ、重なった気がした」
第45話:「木くずとため息」/「木くずの遊び相手」
第64話:「雨音のなかで、見送るだけ」/「雨をわたる音のなかで」
あとがき
この本を手に取ってくださり、ありがとうございます。
そして、ぶんちゃんと佐世保の町を、ここまで一緒に歩いてくださったことに、心からの感謝を申し上げます。
私は佐世保で生まれ育ちました。
けれど、大学進学で町を離れ、そのまま県外で就職しました。
けれど人生の節目がいくつか重なり、今はまた、この町に暮らしています。
この短編集は、そんな「ふたたびこの町で暮らす」ようになった私の目に映る、どこか懐かしく、でも確かに変わってきた佐世保の風景と、そこに生きる人たちの姿を、“猫の目線”という静かなレンズを通して描いてみたいと思ったことから始まりました。
主人公のぶんちゃんは、白と茶のぶち模様の猫。
人の言葉は話しませんが、ただそばにいることで、人の心の奥にある小さな揺らぎや、誰にも見せていない表情を、そっと受け止めてくれます。
町の片隅にいる猫。
それだけでありながら、たしかに「ここに、おった」と記憶される存在。
この短編集のタイトルは、そんなぶんちゃんの在り方、そして、この町で過ごしてきた人々の“想いが残る場所”としての佐世保を象徴する言葉として名づけました。
なお、本書の創作には、OpenAIのChatGPTを創作パートナーとして活用しています。
最初は「猫と町を舞台に、どんな物語が生まれるだろう」と軽い気持ちでプロットを相談しはじめましたが、気がつけば、物語の呼吸や言葉の余韻を、AIとの対話によって丁寧に探りあてていく日々になっていました。
「語らない猫」「語りたがらない人」「語られずに消えていく町の記憶」——
そんなテーマを、ChatGPTとの共同作業で、時に詩のように、時に物語として形にしていけたことは、まさにこの作品にとって欠かせないプロセスだったと感じています。
佐世保は、坂と港の町です。
変わってしまった景色も、変わらずそこにある空気も、すべてが人と町の記憶を育て続けています。
ぶんちゃんの物語が、そんな記憶のひとつとして、あなたの心に、そっと寄り添えたなら嬉しく思います。
2025年 春
佐世保の町より
筆者
プロフィール|Kazuomi Matsunaga
🧭思考の案内人|Thinking Navigator

略歴:九州大学工学部卒業(材料工学)⇒愛知の金属素材メーカーエンジニア(生産技術)⇒地元長崎県のフリーペーパー広告営業⇒学校法人職員(←いま、ココ)。長崎県在住の50代。こどもは二人とも大学生となって巣立ち、妻と二人暮らし中。
“問い”と“好奇心”の交差点で、日々思考を遊ばせている書き手です。最近は、連載コラム「思好の科楽(しこうのかがく)」シリーズを中心に、教育・物語・心理・AI・デザインなどをテーマとした独自視点の思索を綴っています。既存の枠を超えた“自由な知のデザイン”を模索中。モットーは「想像力が世界をひらく」。
本業では大学・教育関連の仕事に携わりつつ、「人が何かを“好き”になる瞬間」や「問いが芽吹く場面」を丁寧に見つめることを大切にしています。
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