【本】「our house Magazine issue#2 USELESS」感想・レビュー・解説
ZINE『our house』第2号(テーマ:不用)を読んでみました
以前知り合った人が作っているZINE『our house』だが、やっと時間が出来たので第2号を読んでみた。第1号の感想や、どうして「our house」を読むに至ったのかみたいな話は以下のnoteを読んでほしい。
さて、第2号のテーマは「不用」。僕はまず、「『不要』じゃないんだな」と感じた。今まで「不要」と「不用」の違いを意識したことがなかったので自分でも調べてみたのだが、「不要」は「必要としないこと」、「不用」は「役に立たないこと」という使い分けが一応あるようだ(ただ、「『不要』は何に対してもオールマイティに使える」とも書かれていた)。なるほど。また、巻末でも作り手の1人が、「敢えて『不用』を選んだ」と書いている。「要る/要らない」ではなく、「使える機能がある/ない」みたいな点に焦点が当てられているというわけだ。
どんな「学び」であれ「不用」であるはずがない
さて、「そんな彼女たちがどうして『不用』をテーマにZINEを作ることになったのか」については、冒頭にその理由が書かれている。書かれているというか、彼女たちがやり取りした手紙の画像が掲載されているのだ。その中の文章を一部抜き出してみよう。
この前、おじいちゃんに「そんなこと勉強して何の役に立つの?」って言われた。腹が立ったけど、言い返せない自分もいて。
私たちにとってすごく大事なところを否定されたような気がして、悔しかったな。文学部って、肩身狭いよね。
私たちの学びは「不用」なのかな? というか、そもそも「不用」って何?
私もバイト先のお客さんに同じようなことを言われたことあるよ(笑)。単純に「なんの役に立つの?」って聞いてるんじゃなくて、「なんの役に立つの?(そんなことを学んでても意味ないでしょ)」って意味で。
こういう場面の「役に立つ」って、結局「”社会の”役に立つ」の意味だよね。でもさ、社会のためだけに生きてるわけじゃないしー!って思う(笑)。
これが本作の出発点というわけだ。
さて、この「社会の役に立つか?」という話で、僕が真っ先に思い出す本がある。『すごい実験 高校生にもわかる素粒子物理の最前線』(多田将)という一般向けの物理学の本だ。その中にこんな文章があった。
ところが、この携帯電話に使われている技術っていうのは、「携帯電話を作ろう!」と思って開発されたものなんてほとんどないんです。まったく別の意図で開発されたさまざまな技術を結集して、この携帯電話は作られているんですね。
「携帯電話を開発しましょうか」って言って、1から開発してると100年経っても絶対にできません。科学技術の世界は、そういうものなんです。
科学においては、「何の目的で生み出されたか分からない様々な理論・技術(この時点ではまだ『不用』である)」の用途をまた別の誰かが考えることで「有用なもの」が生み出されるというわけだ。そして著者は、そんな科学技術の世界を「東急ハンズ」に例えている。
実はね、科学の世界もこれと同じなんですよ。東急ハンズみたいなものです。
科学の世界っていうのは、まずいきなり、この携帯電話を作ろうと思って、その技術を開発しようとしても無理なんです。非常に複雑な機械ですからね。だからまずは各々の学者なり技術者が自分の専門の何かを研究します。そして、「それが何の役に立つか?」は、とりあえず置いておいて、その研究成果を発表するわけです。この「研究成果を発表する」ということが、すなわち、「ハンズの棚に商品を並べること」なんです。いろんな学者が、棚にどんどん並べていくわけです。
そしたら、次の世代の学者がハンズにやって来て、棚を見て、自分の役に立つものをピックアップしていきます。そうして作り上げたもの――それがこの携帯電話なんです。そうしないとできないんですよ、これは。
この話はまさに「不用な学問などない」という主張の1つの論拠になるだろう。科学に対してはよく「それは何の役に立つのか?」みたいな目が向けられるが、1つ1つの成果は生み出された時点では「不用なもの」であることの方が多い。そしてそれを、別の誰かが「有用なもの」として生まれ変わらせるのだ。僕らの社会はそうやって発展してきたのである。
ただこの点に関しては、「科学技術はそうかもしれないが、それがすべての学問に当てはまるとは言えないんじゃないか?」みたいに感じる人もいるだろう。そういう人には『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』(内田樹)という本を勧めたい。大分前に出版された本で、現状とは合わない部分もあるかもしれないが、この本では「子どもたちが授業中に、『それは何の役に立つんですか?』みたいなことを教師に平気で聞いてくる」みたいな状況を起点にした様々な考察が記されている。
そして、その中で指摘されていたのが、「教育とは、『享受した時点ではその価値が分からないようなもの』でなければならない」という主張だった。いや、もちろん「すぐに役立つような知識・技術」を教えてもいいのだが、それだけを「教育」と呼ぶのは正しくない。学んだ時には分からなかったが、10年20年後に「あの時に学んだことはこういうことだったのか」「かつて学んだことが実際に役に立った」と実感できるようなものこそ「教育」である(提供される価値がある)と著者は言っているのだ。著者のこの主張を受け入れるのであれば、「何の役に立つの?」と問われることはむしろ、「教育」のあり方として正しいとも言えるだろう。
また、『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)という小説に書かれていたことも興味深いので紹介したいと思う。
「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない」。
研究者が一番頭を使って考えるのは、自分に相応しい問題だ。自分にしか解けないような素敵な問題をいつも探している。不思議なことはないか、解決すべき問題はないか、という研究テーマを決めるまでが、最も大変な作業で、ここまでが山でいったら、上り坂になる。結局のところこれは、山を登りながら山を作っているようなもの。滑り台の階段を駆け上がるときのように、そのあとに待っている爽快感のために、とにかく高く登りたい、長く速く滑りたい、そんな夢を抱いて、どんどん山を高く作って、そこへ登っていくのだ。
「この問題が解決したら、どうなるんですか?」
「もう少しむずかしい問題が把握できる」
一般的に「学び」というのは「答えを求めること(収束させること)」だと思われている気がするが、そうではなく「問題を見つけること(発散させること)」なのである。「『分からないこと』を見つける」というのが「学び」の本質というわけだ。さらに、「分からないこと」に気づくために、「分かっていること」については可能な限り理解していなければならない。そのためにも「学び」が必要なのである。
そしてそのようなスタンスは、当然社会でも役立つだろう。「学んでいる対象」が直接的に社会の役に立たなくても、「『分かっていること』への理解を通じて『分からないこと』を発見する」という能力は、どんな場でも有用である。特に、AIが社会を席巻しつつある現代では、よりそのようなスタンスが重視されるだろう。そういう意味でも「役に立たない学びなどない」と言ってもいいように思う。
ちなみに、森博嗣は『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』という本も書いており、こちらも非常に面白いので機会があれば読んでみてほしい。
さて、本書『our house』の巻末には次のような文章があった。
合理性が重視され、検索ボックスに文字を打ち込めば、ほとんどすべての事柄について、すぐさま答えを得られる現代。わたしも最近、生成AIを活用し、論文の推敲やスケジュール管理、人生相談まで頼っています。便利な一方で、わたしがわたしの頭を使って考える時間がどんどん少なくなっていることに恐ろしさを感じます。
「ああでもない、こうでもない……」と考えを巡らす時間さえ、「不用」とみなされる時代に突入しているような気がします。
『人間はいろいろな~』は、こういう問題意識を持っている人にはグサグサ突き刺さるだろうことが書かれている本である。
「『不用なもの』に触れること」が人間を魅力的にする
さて、僕自身はというと、マジで「知的好奇心だけで生きている」なと思う。
最先端の科学であれ、よく分からない現代アートであれ、他者の価値観であれ、僕はとにかく何でも知りたい。それらを知ったところで別に社会に対して有用さを提供できるわけではないし、僕自身の人生にとってさえ「役立つ」なんてことは別にないだろう。でも、ただ「知りたい」のである。多くの人が「美味しいものを食べたい」「旅行に行きたい」と感じるのと同じような感覚で(僕にはそういう欲求はほぼない)、僕は「知りたい」と思うのだ。ホントに、ほぼこの欲求だけでどうにか社会を生きているという実感がある。
そしてそういう人間からすると、「『有用なもの』にしか触れない人間は面白くない」と感じられてしまうことが多い。ま、「僕に面白いと思われるかどうか」など別に大した問題ではない。とはいえこの話は、結局のところ「人間的魅力」に直結すると僕は思っていて、「有用かどうか」だけで物事を判断する人には「人間的魅力」が育たない気がしてしまうのだ。
例えば、僕の周りにはあまりいないのだが、「レビューを読んでから本や映画に触れるか決める」みたいな人がいる。「『つまらないもの』に時間を費やしたくない」ということなのだろうし、それはつまり「つまらないもの=不用なもの」と判断しているのだと思う。
ただ僕には、「『面白いと分かっているもの』はつまらない」という感覚がある。本書のテーマに沿って言うなら、「『不用なものである可能性』を有するからこそその『有用さ』に価値を感じる」みたいに考えているというわけだ。
また、美術展などによく足を運ぶのだが、特に現代アートには「よく分からない」と感じることが多い。そしてそれで全然いい。というのも僕には、「『よく分からない』と感じるためにアートに触れている」という感覚があるからだ。「不用度」みたいな指標があるとして、「『不用度』が高ければ高いほど、自分の脳を豊かに育てるための『腐葉土』になり得る」みたいに考えているのだと思う。「よく分からない」と感じる経験は、「人間的魅力」にとって重要だと僕は考えているのだ。
あるいは、以前何かのテレビ番組で林修が、「現代人は『離乳食のような情報』ばかり摂取している」みたいな話をしていたことも思い出した。「確かにな」という感じだ。噛まなくても飲み込めてしまうような「分かりやすいもの」ばかりが消費される時代であり、それで満足なら別にいいのだが、個人的には「それって何が面白いんだろう?」と思えてしまう。僕は「つまらないかもしれないもの」「理解できないようなもの」にも触れるからこそ自分の世界を広げられると感じているし、「自分の世界が広がれば広がるほど、さらに広範囲のものを面白がれる可能性が出てくる」とも考えている。
そしてこの話は「有用だと感じるかどうか」にも関係してくるだろう。「有用ではない(不用である)」というのは、「自分の世界の外側にある」みたいな判断なのだと思うが、「そもそも自分の世界がメチャクチャ狭いだけかもしれない」という可能性も検討すべきではないかと思う。「自分の器に入らないものはすべて不用だ」みたいに考えている人のその器が「お猪口」程度の大きさしかなかったら、「もう少し大きな器を持った方がいいんじゃない?」と思えてしまうのだ。器を大きくして「有用の範囲」を広げるためにも(その必要がないと感じるなら別にいいのだが)、「『不用かもしれないもの』にも積極的に触れて『有用/不用』の境界を拡大する」みたいなスタンスが必要になるだろう。
情報が多すぎる現代においては、「不用なもの」は本質的には「不用に”見えている”だけのもの」でしかなく、その中には「実際には自分にとって有用なもの」も含まれ得る。ただ、「結果的に不用なものだった」という状態を「コスパ/タイパが悪い」という言葉で回避しようとするがために「不用に“見えている”だけのもの」はすべて「不用なもの」であると見做されてしまうのだろう。個人的にはもったいないなと思うし、そういう社会は嫌だなとも感じる。
「不用」は「自由」をもたらす
本書『our house』にはこんな文章がある。
生き方は人の数だけある。
とはいうものの、幼稚園または保育園に通い、
小学校・中学校・高校へと進学し続け、
高校卒業後は就職か大学進学を選択し、
大学卒業後は就職するという、
ある程度決められたレールは敷かれているものだ。
そして、そのレールの外にあるものは
人生において「不用」と見なされる。
ひとたびそのレールから足を踏み外してみると、
どんな生き方を送ることになるのだろうか?
そしてその後で、「新卒で就職した会社を1年半で退職し、ワーキングホリデーのために渡韓した」という人の文章が続く。その人物は、
それでも今、辞めずに続けられるのは、あの「不用」であると思われる韓国ワーホリでの経験と出会い、学びがあったからだと、強く思うのです。そして、その「不用」を通して、私にとっての本来の「有用」に気付くことが出来たのです。
と書いている。
僕もまあ大分レールから外れた人生を歩んできた。大学を中退し、長くフリーターとしてフラフラと働き、去年42歳で初めて正社員になったというテキトーっぷりである。正直、よくここまで生き延びてきたものだなという感じだし、我が事ながら頑張ったなと思う。
恐らく多くの人にとって、僕の人生は「回り道」「不用」みたいに感じられるだろう。確かに、「有用」とは言い難い人生だなと自分でも思う。ただ、誰だって結局1つの人生しか生きられないわけで比較など出来ないことは分かっているが、それでも僕は、「自分が辿ってきた人生で正解だったな」と感じている。というのも、「結局のところ、『自由』は『不用』の中にしか存在しない」みたいに考えているからだ。
また森博嗣の著作の話をするが、『自由をつくる 自在に生きる』の中にこんな文章がある。
自由というのは、「自分の思いどおりになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由なのだ」。
「自由であるためには、まず『思う』ことがなければならない」というのは、もしかしたら多くの人が失念しているポイントではないかと思う。そして「有用なもの」は残念ながら「思う(思考)」を刺激しない。「有用なもの」に触れている限り、「何故それをするのか」みたいなことを考えずに済むだろう。社会の中で「有用」と見做されているのだから、「理由」など考える必要がないからだ。だから「思う」が育ちにくい。
一方、「不用なもの」に触れるには理由がいる。いや、本質的には不要なのだが、特に社会に出ると、「社会人として『有用なこと』をすべきなのに、それをせずに何故『不用なもの』と関わっているのか?」みたいなことを自他共に納得させる必要が出てきてしまう。単に「やりたいから」だけでは、色んな場面で通用しなくなってくるのだ。そしてそのような経験を通じて「思う(思考)」が育っていけば、「思った通りに出来た=自由」という感覚も強まることだろう。
また、『自由をつくる 自在に生きる』にはさらに、
僕がいいたいのは、「自由」が、思っているほど「楽なものではない」ということである。自分で考え、自分の力で進まなければならない。その覚悟というか、決意のようなものが必要だ。
とも書かれている。「有用なもの」だけに触れて”楽”をしていれば、「自由」とは程遠い人生を歩むことになるかもしれないというわけだ。
「仕事」は「有用なもの」なのか?
さて、ここまでで書いてきたことを読んだ人の中には、「社会人たるもの、『仕事』を通じて社会に貢献することこそが醍醐味であり、それこそ『有用な人生』と言えるのではないか?」みたいに感じる人もいると思う。別にそう思う人はそれでいい。それでいいというか、恐らく世の中的にはそういう人間の方がむしろ「健全」だと受け取られるだろう(まあ、「ワーク・ライフ・バランス」なんかもかなり広まってるだろうし、若い世代ほどこういう感覚からは遠い印象もあるが)。
とはいえ、そもそもだが「『仕事』は果たして『有用なもの』なのか?」と感じるような話もある。
以前何かで「ブルシット・ジョブ」という単語を知った。ネットで調べると、「働いている本人さえ必要がないと感じていて、世の中や社会に何の貢献もしない仕事」みたいな意味だそうだ。生成AIが社会を激変させる以前に登場した概念で、その時点で既に「ホワイトカラーの仕事の多くがブルシット・ジョブだ」みたいに言われていた気がするが、生成AIの登場によってそのような状況が一層加速したと言っていいように思う。
また、特にコロナ禍において「エッセンシャルワーカーほど給料が低い」みたいな話がよく取り沙汰されていた記憶もある。看護師や介護士など「代替の利かない仕事」ほど軽んじられ、「具体的な成果を生み出しているようには思えない仕事」の価値が高く見える世の中は、やはり何か間違っているなと思う。
僕らは「より良い社会・未来のために仕事をしている」はずなのだが、残念ながら現実はそうはなっていない。以前読んだ『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』(ルトガー・ブレグマン)には、この点に関して印象的な文章がいろいろとあった。
この時代の、そしてわたしたち世代の真の危機は、現状があまり良くないとか、先々の暮らしぶりが悪くなるといったことではない。
それは、より良い暮らしを思い描けなくなっていることなのだ。
わたしたちは有り余るほど豊かな時代に生きているが、それは何とつまらないことだろう。フクヤマの言葉を借りれば、そこには「芸術も哲学もない」。残っているのは、「歴史の遺物をただ管理し続けること」なのだ。
(以前より世の中は遥かに良くなっているが)ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ。
そしてこのような状況は結局、僕らが日常的に従事している「仕事」によって作り出されているのである。果たしてこれを「有用」だと言っていいのだろうか?
「社会にとって役に立つ=有用」なのだとして、多くの人が「有用」だと思ってやっていること(=仕事)「が結局「社会をより良くすること」に繋がっていないのであれば、その「『有用』だと思ってやっていること」は実際には「不用」でしかないということにならないだろうか? 「社会の役に立っている」という免罪符が、そもそも成り立っていないのである。このような点についても考えるべきではないかと思う。
「『便利さ』とは距離を置きたい」という感覚
本作『our house』には、鳥取県・湯梨浜町で「フベン」という名前で活動する夫婦が取り上げられている。陶芸や彫刻で日用品を作っているユニットだ。僕は正直「モノに対する愛着」みたいなものがまったくないので、彼らの語る話に直接的に共感できる部分は少なかったが、ただ、「不便なものは人間の動きを変える力を持ってる」という話には「なるほど」と感じさせられた。
「便利なもの」はとにかくよく出来ているので、使う人間が悩んだり考えたりする必要がない。直感的に使用可能だし、すぐに使いこなせるだろう。ただ逆の見方をすれば、それは単に「道具に使わされているだけ」でもある。ある意味では「奴隷」とも言えるだろう。
一方「不便なもの」というのは、どう使えばいいかが直感的には分からなかったり、使い方を間違えるとすぐ壊れたりする。それは確かに面倒だが、しかしだからこそ「自発的に使う」という意識が芽生えるはずだし、それは「使わされている」のとは真逆の状態だと言えるだろう。僕は、それが何であれ「制約」がとにかく嫌いなので、そういう点でも確かに「不便なもの」の方が良いなと思う。
ただ僕は、少し違った理由で「便利さに慣れたくない」と考えている。いや、同じと言えば同じだが、「『便利なもの』に慣れてしまうと、それが無い状況で困ってしまう」という感覚がかなり強いのだ。
本作には「電子レンジや炊飯器を手放した」みたいなことが書かれている文章もあるのだが、僕の生活においては「エアコン」がそういう話として最も近い。部屋に備え付けのエアコンはあるのだが、基本的には年間通してほぼ使っていない。使うのは「夏の夜、寝ている時だけ」だ。他は真夏でも真冬でも一切使わないようにしている。
その理由は明快だ。「エアコンに慣れると、エアコンが無い環境での不快度が増すから」である。24時間365日エアコンがある場所にいられるならいいが、そんなことはまずあり得ない。そして僕は、「『エアコンが無い環境』に自分の身体を合わせられる方が、全体としての快適度が上がる」と考えているのである。そんなわけで未だに僕は、かなり外気温に近い環境で日々生活しているというわけだ。
確かにそれは「不便」なのだが、しかしその不便さは僕にとって、「『便利さ』が失われても困らない」という意味で「有用」でもあると言える。「不便であること」に、僕はこういう価値を見出しているのだ。
そんなわけで、僕は基本的に「『無くなったら困るもの』はなるべく持たない」という意識で生きている。スマホさえ、僕にとっては「最悪の最悪は全然手放せるもの」でしかない。スマホはとても便利だが、「仮にスマホが無くなってもどうにかなる」ぐらいの存在に留めるようにしている。便利さをスマホに集約させないように意識しているのだ。
そんな僕にとって「どうしても手放せないもの」は「パソコンのキーボード」ぐらいである(他にもあるかもしれないが)。これだけは無理だ。日々文章を書いているのだが、スマホよりたぶん2~3倍ぐらいのスピードで書けるので、パソコンのキーボードがない状態に置かれたらちょっと発狂する気がする。本当はこれさえも「無くなっても困らないもの」と思えたらいいのだが、ちょっと現状では無理そうだな。
「有用な不用」と「不用な有用」
さて最後に、本書『our house』を読みながら考えていた「有用な不用」「不用な有用」の話に触れて終わろうと思う。
「有用な不用」としてパッと思いついたのは「敬語」だった。単に情報を伝えるだけなら敬語は要らないし、実際に敬語的なものが存在しない言語もある。一方日本語には「情報伝達には本質的に不用な要素」が多々あり、冗長であればあるほど丁寧になるとされているのだ。
例えば、「座って」という情報を伝えたい場合、
「座って」→「座って下さい」→「お座り下さい」→「お座りいただけますか」→「お座りいただけますと幸いです」
のようにどんどん長くすることが出来る。そして、冗長であればあるほど「丁寧さ」が増していると見做されるのだ。このように「敬語」は、「本質的には不用だが有用なもの」と言っていいだろう。
あるいは、似たようなものだが「ネクタイ」もその1つだと思う。正直「ネクタイ」に機能らしい機能はなく、個人的には何故あんなものを首に巻かなきゃいけないのか謎でしかない(世界全体で集団催眠にでも掛かっているのかとさえ思う)。しかし、多くの社会で「必要なもの」と見做されているはずだ。これもまた「本質的には不用だが有用なもの」だと思う。
また、「会話」に対して似たようなことを感じることもある。例えば、僕は同性より異性と話している方が楽しいしラクなのだが、一般的に「女性同士の会話」は、男には「不用」に感じられることが多いように思う。例えば、「久しぶり~。前いつ会ったっけ?」みたいな会話が始まったとしよう。この場合、女性同士は割と、「◯◯の時だっけ?」「えっ、△△の時じゃなかった?」みたいなやり取りをしばらく続けると思うのだが、もしこの場に男がいたら、「LINEのやり取りとか見たら分かるんじゃない?」みたいに言っちゃうような気がする。で僕は、そういう人に対して「この状況における会話の本質を理解していないなぁ」みたいに感じてしまうのだ。
女性同士の場合は特にだが、「会話の内容」以上に「会話をしている状態」の方に価値を置いている印象がある(で、僕もそういう状況は結構好きだ)。「前いつ会ったっけ?」という話をしている時、女性同士は恐らく「答えを知りたい」とは思っていない。「その話題をメインにして『会話をしている状態』を続ける」ことにこそ価値が置かれているのだと僕は理解している。
しかし恐らく男は、そういうやり取りを「不用」と見做すだろう。だから「前にいつ会ったのか知りたいなら、LINEとか見たら分かるじゃん」みたいなことを言ってしまうのだ。そして女性からしたら、まさにその提案こそが「不用」でしかないのである。このように「男には不用に思えるが、女性には有用なもの」もあるなと思う(もちろん、逆もあるだろう)。
また僕には「お金」も似たようなものに感じられている。
僕には「お金があったらやりたいこと」はほぼない。そういう意味でお金は「不用」である。ただもちろん「日々の生活」や「将来」のために必要なものでもあり、そういう観点からは「有用」だ。
このように考えてみると、「本質的な意味では不用だが、表面的には有用」みたいなものは色々ある。では逆はどうだろうか?
例えば、僕の頭にすぐに浮かんだのが「因数分解」だ。「因数分解なんか習っても社会で何の役にも立たないだろう」と学生が真っ先に言いそうなものだが、実はこの因数分解、我々の生活を土台から支えている。というのも、「WEBサイトやアプリへのログイン」などに使われるパスワードは、因数分解をベースにした「RSA暗号」によって作られているからだ。詳しいことは自分で調べてほしいが、「因数分解が存在しなかったら、僕らはインターネットやアプリを安全に使えなかったかもしれない」のだ。
あるいは、「アート」なんかもここに含まれるだろう。「アート」には「具体的な機能」はないので、そういう意味で表面的には「不用」である。しかし、「機能」という言葉では表現できないような「何か」がアートには内包されているからこそ、多くの人がそれに惹かれ、保有しようとし、その結果として「金銭的な価値」までが生まれているのだと思う。そう考えれば「有用」とも言えるだろう。
また僕にとっては、「文章を書くこと」もここに含まれる。僕は20代前半ぐらいから20年近くずっと何らかの文章を日々書き続けてきたわけだが、僕としては単に「書きたいから書いている」だけであり、「読んでもらう」とか「『書くこと』で自分の能力を伸ばす」みたいな意識はあまりなかった。そういう意味では本当に「不用」な行為だと言っていいと思う。
ただ、僕には明確に「文章を書き続けてきたお陰で喋れるようになった」という感覚がある。僕は文章を書くのがかなり早い。なので、「文章を書くこと」と「喋ること」がかなり近い行為に思えている。「口から言葉を発するかどうか」の違いだけで、脳の動きなどはほぼ同じような気がしているのだ。だから、パソコンに向かってただ黙々と文章を書き続けてきた時間すべてが、たまたま「喋る訓練」にもなっており、学生時代はどちらかと言えばコミュ障寄りだったのに、今では誰とでもペラペラ喋れるようになった。そしてそのお陰もあって、性格もガラッと変わったように思う。全然そんなつもりはなかったのだが、結果的に「文章を書くこと」は僕にとってメチャクチャ「有用」な行為だったというわけだ。
あと、これは少し違う話だが、僕は「身近な人間に『不用な有用』だと思われたい」という意識を持っていたりする。「いてもいなくても別にいいが、いる時は有用な存在である」みたいな印象になっていたらいいなと考えているのだ。そういう比較的雑な扱いの方が、僕自身も関わりやすいなと思っている。
そんなわけで、「有用な不用」とか「不用な有用」について考えてみるのも面白いかもしれない。
最後に
というわけで、今回の記事は『our house』の感想というより、それを土台にして自分の考えをひたすら展開させただけみたいなものになってしまった。でも、こんな風に思考のきっかけになってくれるものは僕にとってとても価値がある。今回も色々と思考を巡らせることが出来て楽しかった。
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