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第69話『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』と、イエス・キリスト。


「弟子」って、結局なんなの?


※この記事は『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の物語後半までの内容に触れています。

デルムリン島。

モンスターたちに囲まれて育ち、「勇者になる」という夢を持っていた少年ダイ。そんな彼のもとへ、ある日、一人の家庭教師がやって来ます。

アバン。

ちょっと変わっている。ふざけているようにも見える。眼鏡をかけ、柔らかく笑いながら、とんでもない修行をさせてくる。笑

でも、その正体はかつて魔王ハドラーを倒した勇者。

そしてアバンは、自分一人が勇者として戦い続けるのではなく、

「次の世代を育てる人」

になっていました。

ダイに剣を教える。

魔法を教える。

戦い方を教える。

でも『ダイの大冒険』を最後まで見ていくと、アバンが弟子たちへ残したものは、必殺技だけではなかったことが分かります。

何のために強くなるのか。

誰のために力を使うのか。

仲間とは何なのか。

勇気とは何なのか。

自分より大切な誰かのために立つとは、どういうことなのか。

そして、そのアバンから受け取ったものを生きていく者たちには、作品の中で正式に一つの名前があります。

「アバンの使徒」。

私は、この言葉が大好きです。

私は、ポップが大好きだ。


主人公はもちろんダイです。

小さなデルムリン島から旅立った少年が、自分の出生を知り、父バランと出会い、竜の騎士としての力にも目覚め、やがて大魔王バーンと世界の命運を懸けて戦う。

めちゃくちゃかっこいい。

でも。

『ダイの大冒険』を思い出した時、私はどうしてもポップに目がいきます。

なぜならポップは、

最初から勇敢じゃない。

怖い。

逃げたい。

強い敵が出てくれば「こんなの無理だ」と思う。

修行もサボりたい。

自分より圧倒的に強いダイを見ながら、自分なんて大したことがないと思ってしまう。

そして最初のクロコダイン戦。

ダイとマァムが絶体絶命の状況に置かれているのに、ポップは怖くて動けません。

そこで背中を押すのが、まさかのニセ勇者一行の魔法使い、まぞっほ。

この回のタイトルそのものが、

「ひとかけらの勇気」。

ポップは急に怖くなくなったわけではありません。

震えている。

それでも戻った。

そしてブラスを邪悪な支配から解放し、ダイがもう一度戦える道を開いた。

ここが、私はものすごく好きです。

勇気って、

「怖くないこと」

じゃないのかもしれない。

怖い。

それでも、

一歩出る。

これ、前々回の67話で書いた「信仰」とも少し似ています。

信じるというのも、

「一切不安がなくなること」

ではありませんでした。

私自身、

「本当に神様なんているの?」

と思いながら、

それでも、

「もし本当におられるなら、知りたい。」

と一歩出したところから始まりました。


67話『天元突破グレンラガン』と、イエス・キリスト。|「信じろ」と言われても、結局何を信じればいいの?


最初から大魔道士だったわけではないポップ。

最初から強い信仰者だったわけではない私。

なんだか、少し安心します。

そして、敵だったクロコダインが変わる。


このポップの勇気を見た一人が、

クロコダインでした。

百獣魔団軍団長。

最初は完全に敵です。

しかもザボエラの策に乗り、ブラスを利用してダイを苦しめるという、本来の武人としての自分なら誇れない戦い方までしてしまう。

でも、敗れた後。

クロコダインは、自分が卑怯な策に手を染めたことを悔います。

そしてダイの強さだけではなく、

あの弱そうだったポップの勇気を認める。

ここからクロコダインは変わっていく。

面白いんですよね。

見た目だけなら、

「いや、この人、最後まで敵でしょ。」

という感じなのに。笑

その後は、

誰より頼れる仲間の一人になっていく。

しかも、これは後でヒュンケルの話とつながります。

クロコダインは、

自分を倒したダイたちを助ける側になる。

そして、

かつて同じ魔王軍にいたヒュンケルまで救う側になる。

最初に何者だったかで、

最後まで決まるわけじゃない。

『ダイの大冒険』には、このテーマが何度も出てきます。

ヒュンケル。


そして、

この男です。

アバンの最初期の弟子でありながら、

魔王軍不死騎団の軍団長になった男。

ヒュンケル。

「アバンの使徒」だったはずの男が、

アバンを憎んでいる。

人間を憎んでいる。

正義を憎んでいる。

しかも彼がアバンに弟子入りした理由そのものが、

父の仇を討つため。

ヒュンケルを育てたのは、人間ではありませんでした。

魔王軍の地獄の騎士バルトス。

ヒュンケルにとっては、

大切な父。

その父をアバンに殺されたと思い、

復讐のためにアバンへ近づいた。

でも後に、

真実を知ります。

自分が信じていた物語と、

本当に起きていたことが違った。

自分が憎んでいた人は、

本当は自分を愛していた。

その瞬間、

ヒュンケルの向きが変わります。

ここは68話とそのままつながります。

過去は変えられない。

でも、

歩く方向は変えられる。


68話『るろうに剣心』と、イエス・キリスト。|「悔い改める」って、自分を責め続けることなの?


でもヒュンケルのすごいところは、

「自分が間違っていました。」

で終わらなかったところ。

敵だったヒュンケルが、今度は仲間を生かすために残った。


真実を知ったその直後。

フレイザードによって地底魔城が崩壊し、マグマが迫ります。

ダイたちを逃がすため、

ヒュンケルは残る。

自分の最後の力を使って、

仲間たちを生かす。

そして自分は、

燃え上がるマグマの中へ消えていく。

ついさっきまで、

その仲間たちを殺そうとしていた男が。

今度は、

仲間を生かすために自分を差し出した。

かっこいいですよね。

イエス様を知った今、

こういう場面を見ると私はどうしても、ある御言葉を思い出します。

「人がその友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」

ヨハネの福音書 15章13節

出典:聖書 新改訳2017


もちろん、

ヒュンケル=イエス・キリスト

と言いたいわけではありません。

ヒュンケルは過ちを犯し、憎しみに囚われ、そこから向きを変えた人。

イエス様は罪のないお方でありながら、私たちを救うために十字架へ進まれたお方です。

でも、

「自分が助かるために誰かを犠牲にする」

のではなく、

「誰かを生かすために自分を差し出す」。

その愛の形を見ると、

私は十字架を思い出します。


特別編 イエス・キリストと十字架。|なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。


そして、

さらに熱いのはここからです。

そのヒュンケルを救ったのが、クロコダインだった。


ヒュンケルは、

マグマに飲まれて死んだと思われていました。

でも、生きていた。

助けたのは、

クロコダイン。

元・魔王軍。

元・敵。

一度はダイたちの命を狙った男が、

今度は、

同じく元敵だったヒュンケルを救う。

そして二人とも、

ダイたちの仲間として立っていく。

これ、

すごくないですか。

「一度間違えた人間は、もう終わり。」

ではない。

「敵だった者は、一生敵。」

でもない。

向きを変えた者同士が、

今度は一緒に誰かを守る側になる。

私はここにも、

Good Newsへつながる何かを感じます。

私も、

最初からイエス様の弟子だったわけではありません。

むしろ、

Buddhaの弟子でした。

キリスト教には距離があった。

イエス様について、ほとんど何も知らなかった。

でも、

今こうして、

イエス・キリストのことを書いている。

人生って、

本当に分からないものです。

バランも、「敵だった父」で終わらなかった。


そして、

ダイの父。

バラン。

バランの過去は、ものすごく悲しい。

人間の女性ソアラを愛し、

子どもが生まれた。

その子がディーノ。

後のダイです。

でも人間たちによって、

愛するソアラを失う。

息子とも引き離される。

その痛みから、

バランは人間そのものを憎むようになります。

ここも、

ただの「悪役」で終わらせられないんですよね。

なぜこの人が怒っているのか。

なぜ憎んでいるのか。

その奥には、

ものすごい喪失がある。

そして、

その憎しみのまま、

自分の息子ダイとまで戦うことになる。

でも物語が進み、

父と子はもう一度向き合う。

最後には、

バランは黒の核晶の大爆発から、

自分の生命力を使い果たしてダイを守ります。

かつて息子と戦った父が、

最後は、

自分の命で息子を覆う。

そしてダイは、

父の心を知る。

これも私は、

父を知らずに育った自分と重なるところがあります。

私は、

地上の父をほとんど知りませんでした。

だから最初、

Speedy UJから、

「神様がお父さんになるんですよ。」

と言われた時も、

よく分からなかった。

父って、

何?

でもイエス様を知り、

聖書を読み、

私は少しずつ、

「父なる神」というお方を知っていきました。

そしてある日、

一人でスタジオで祈っていた時。

涙が止まらなくなりました。

「お父さん、本当にいたんですね。」

私は、

父を探していたのかもしれません。

52話「神の子」って、結局なんなの?

そしてハドラーまで変わっていく。


これも『ダイの大冒険』のすごいところだと思います。

最初のハドラー。

普通に、

魔王です。笑

アバンの宿敵。

ダイたちを倒そうとする敵。

失敗を重ねる。

プライドもある。

恐れもある。

でも物語後半のハドラーは、

もう序盤のハドラーとは違う。

自らを超魔生物へ変え、

命そのものを懸けて、

ダイと正面から戦うようになる。

ずるいやり方ではなく、

一人の戦士として。

そして最後のダイとの戦い。

全てを出し切った二人が、

敵同士でありながら、

互いを認め合う。

ところが、

その直後。

キルバーンの罠によって、

ダイ、ポップ、ハドラーが魔界の炎に閉じ込められる。

敵だったはずのハドラー。

でもそこで、

絶望しかけたダイたちを立たせるのは、

なんとハドラーです。

さらに、

ポップの代わりに炎を受け止め、

ダイたちが逃げるための時間を作る。

最初は、

世界を支配しようとしていた魔王。

最後には、

かつて敵だった者を生かすために、

自分を使っている。

私はこういう物語が大好きです。

人は、

最初の姿だけで最後を決めつけられない。

クロコダインも。

ヒュンケルも。

バランも。

ハドラーも。

そして終盤には、

あのニセ勇者一行でさえ、

世界を救うために自分たちにできることをする。

「こいつはこういう奴。」

そう決めつけていた人物が、

何度もその枠を越えてくる。

もしかすると、

神様も私たちを、

今の一場面だけで見ていないのかもしれない。

ポップもまた、「最初のポップ」で終わらなかった。


そして物語は、

もう一度ポップへ戻ります。

終盤。

大破邪呪文ミナカトールを完成させるため、

アバンの使徒たちの力が必要になります。

一人ひとり、

アバンのしるしが光っていく。

マァムには、

慈愛。

ヒュンケルには、

闘志。

それぞれの魂の力が現れていく。

でも、

ポップだけが光らない。

ずっと成長してきたのに。

命懸けで仲間を守ったことさえあるのに。

「自分にはアバンの使徒を名乗る資格がないのではないか。」

そんな不安まで湧いてくる。

私はこの気持ち、

なんとなく分かります。

周りを見たら、

みんな自分よりすごく見える。

「あの人にはGiftがある。」

「あの人には信仰がある。」

「あの人は立派だ。」

「じゃあ、自分には何があるんだろう。」

でも最後に分かる。

ポップの魂の力は、

「勇気」。

最初から勇敢だったダイではなく。

一番怖がっていたポップが、

「勇気」。

これが、

ものすごく好きです。

勇気とは、

もともと怖くない人だけが持っているものではなかった。

怖かったからこそ、

それでも踏み出した一歩が、

ポップという人間を作っていった。

第9話で、

たった「ひとかけら」だった勇気。

その小さな一歩が、

物語の終盤では、

ポップを表す魂の力になっている。

伏線回収としても、

めちゃくちゃ熱い。

五人のアバンの使徒は、全員違う。


そして、

五人のアバンの使徒が揃います。

同じ師。

でも、

同じ人間はいない。

同じ魂の力でもない。

同じ戦い方でもない。

同じGiftでもない。

それでも、

一つになる。

そして一人ひとりの力をつないで、

ミナカトールを完成させていく。

私はこの場面を見ると、

聖書の「キリストのからだ」を思います。

聖書では、

一つのからだに、

多くの器官があると語られています。

目だけでは身体にならない。

手だけでもない。

足だけでもない。

それぞれ違う。

でも、

一つの身体。

これ、

教会にも似ています。

歌う人がいる。

祈る人がいる。

御言葉を語る人がいる。

料理をする人がいる。

子どもを育てる人がいる。

人の話を聞く人がいる。

映像を作る人もいる。

そして、

ラップする人もいる。

全員、

同じである必要はない。

同じ主につながっている。

それが大切なんだと、

私は少しずつ知っていきました。

ここまで『ダイの大冒険』をディグって、一つの問いに戻る。


では、

「弟子」って、

結局なんなの?

アバンの使徒たちは、

アバンの必殺技を知っているから弟子なのでしょうか。

アバンの名前を知っているから?

アバンを尊敬しているから?

もちろん、

それだけではないと思います。

師から受け取ったものが、

自分の生き方に現れていく。

ポップなら、

勇気。

ヒュンケルなら、

受け取った教えへ戻り、

今度は誰かを守る生き方。

そして弟子たちは、

アバンのコピーになったのではなく、

それぞれのGiftで、

受け取ったものを生きていった。

ここで私は、

イエス様の弟子たちを思います。

「わたしについて来なさい。」


イエス様が最初の弟子たちを呼ばれた時、

「全部理解してから来なさい。」

とは言われませんでした。

「立派な人になったら来なさい。」

でもありませんでした。

「わたしについて来なさい。」

マタイの福音書 4章19節

出典:聖書 新改訳2017


ペテロ。

ヨハネ。

マタイ。

トマス。

みんな違います。

漁師もいる。

取税人もいる。

疑う者もいる。

熱くなりすぎて失敗する者もいる。

イエス様は、

最初から完成された人間を集めたわけではありませんでした。

ついて来た人たちを、

一緒に歩きながら育てていった。

これ、

アバンと弟子たちの物語を見た後だと、

なんだか少し分かる気がするのです。

私は、イエス様のファンなのか。弟子なのか。


私は今、

イエス様が大好きです。

聖書を読めば読むほど、

このお方、

めちゃくちゃかっこいいなと思います。

人々から避けられていた人へ近づく。

病に苦しむ人へ手を伸ばす。

子どもを招く。

罪を見ないふりはしない。

でも、

「お前はダメだ。」

と切り捨てて終わらない。

立ち返り、

新しく歩く道を示してくださる。

弟子たちが理解できなくても、

育て続ける。

ペテロが失敗しても、

終わりにしない。

そして最後には、

人を救うために、

ご自分のいのちを差し出した。

そりゃ、

ファンになります。

でもある時、

思ったのです。

イエス様の「ファン」と、

イエス様の「弟子」は、

同じなのだろうか。

好きな御言葉だけ読む。

好きな奇跡だけ見る。

「イエス様かっこいい。」

で終わる。

それでも、

ファンにはなれる。

でも弟子は、

師の言葉によって、

自分の生き方まで変えられていく。

イエス様は、

ご自分のことばにとどまるなら、

本当にご自分の弟子だと語られました。

つまり弟子とは、

イエス様について「知っている人」

だけではない。

イエス様について行く人。

御言葉を受け取り、

その御言葉を、

自分の人生で生きていく人。

私は、ずっと師を探していた。


振り返れば、

私はずっと師を探していたのだと思います。

岡本太郎さん。

さまざまな思想家。

Buddha。

仏教。

スピリチュアル。

成功哲学。

覚醒。

いろいろな人の言葉をディグりました。

そして、

イエス・キリストと出会った。

さらに神様は、

私に生身の人との関係も与えてくださいました。

Speedy UJ

まだ私が聖書のことをほとんど知らなかった時、

「神様がお父さんになるんですよ。」

「神の子として生きられるんですよ。」

と伝えてくれた人。

そしてJTM

そこで出会った、

ロギオン、岡野義喜牧師。

私にとって、

霊的な父。

生身の師。

メンターのような存在です。

本は、

私が間違えても何も言いません。

ページを閉じれば、

関係は終わります。

でも生身の師弟関係では、

自分を見られます。

弱いところも。

高慢も。

家庭も。

間違いも。

それでも、

関係の中で育てられていく。

この「師から弟子へ」という証は、以前『僕のヒーローアカデミア』でも書きました。 


25話 僕のヒーローアカデミアと、イエス・キリスト。


そして、

「霊的父とは何なのか」は、

こちらでさらに深くディグっています。

55話「霊的父」って、なんなの?|父から子へ。受け継がれていく御言葉と、イエスさまの弟子訓練。

でも、人間の師がゴールではない。


ここは、

私にとってすごく大切です。

Speedy UJも。

ロギオンも。

JTMの神の家族も。

私を、

「自分たちのファン」

にするために導いてくれたわけではありません。

その先におられる、

イエス・キリストへ。

父なる神様へ。

御言葉へ。

向かわせてくれた。

霊的父について書いた55話でも、

私はここを大切にしました。

私の父は、

天の父。

私の主は、

イエス・キリスト。

土台は、

聖書の御言葉。

人間の師は、

そこに取って代わる存在ではない。

むしろ、

自分が見ているイエス様を、

次の人にも指し示していく。

アバンの使徒たちも、

「アバンそっくり選手権」

をしていたわけじゃありません。

ダイはダイ。

ポップはポップ。

マァムはマァム。

ヒュンケルはヒュンケル。

私も、

ロギオンになる必要はない。

Speedy UJになる必要もない。

私は私として、

イエス・キリストの弟子として歩けばいい。

そして、私に与えられた武器は「ラップ」だった。

ダイには剣。

ポップには魔法。

マァムには癒やしと武闘。

ヒュンケルには、

彼にしかできない戦い方がある。

では、

私には?

ラップ。

音楽。

レコーディング。

映像。

そして今は、

こうして文章を書くこと。

イエス様に出会った時、

私は全部捨てたわけではありませんでした。

むしろ、

68話で書いたように、

「向き」が変わった。

自分を証明するために使っていたマイクが、

Good Newsを届けるためのマイクになった。

その始まりが、

スタジオで泣きながら祈った、

あの言葉でした。

「お父さん。

ラップがしたいです。」

6話 お父さん、ラップがしたいです。|自分を証明するためではなく、福音を届けるために。

そして、受け取ったものは私一人で終わらなかった。


次に、

マイクを握ったのは、

息子のDavyでした。

父を知らずに育った私が、

今は、

息子と一緒にマイクを握っている。

一緒に祈る。

一緒に御言葉を見る。

一緒にGood Newsを歌う。

昔の私には、

想像もできなかった景色です。

私はDavyに、

「チャンティ2号」

になってほしいわけではありません。笑

Davyは、

Davyでいい。

ラップを続けてもいい。

別のGiftを見つけてもいい。

でも、

私が天の父から受け取ったもの。

御言葉。

愛。

祈り。

そして、

イエス・キリスト。

それは、

渡したい。

7話 小さなダビデが、マイクを握った日。|みことばの剣とランドセル。


ここで、

アバンの使徒へ戻ります。

弟子とは、師から受け取ったものを次へ渡す人。


アバンは、

自分一人で永遠に戦おうとはしませんでした。

弟子を育てた。

そして弟子たちは、

それぞれの場所で成長した。

聖書にも、

同じような流れがあります。

イエス様から、

弟子たちへ。

パウロから、

テモテへ。

そしてテモテから、

さらに次の人へ。

一人のところで終わらない。

愛が流れる。

御言葉が流れる。

信仰が流れる。

Good Newsが流れる。

そして復活されたイエス様は、

弟子たちへ言われました。

「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

マタイの福音書 28章19節

出典:聖書 新改訳2017



私はこの御言葉を見ると、

いつも思います。

イエス様は、

「ファンを増やしなさい。」

とは言われなかった。

「宗教人口を増やしなさい。」

でもない。

弟子としなさい。

イエス様を知る。

愛される。

救われる。

御言葉を受け取る。

一緒に歩く。

失敗しながら育てられる。

そして、

自分が受け取ったものを、

今度は次の誰かへ渡す。

弟子から、

弟子へ。

だから私は、このnoteを書いている。


閲覧数だけを増やしたいからではありません。

もちろん、

読まれたら嬉しいです。

コメントもありがとうございます。

『ダイの大冒険』が好きな人には、

「クロコダイン、やっぱかっけぇよな。」

「ヒュンケル、あそこ泣いたわ。」

「結局ポップなんだよな!」

って、

一緒に盛り上がりたい。

でも、

そのままスクロールしているうちに、

もし、

「イエス・キリストって、

どんなお方なんだろう。」

と一瞬でも思ったなら、

私はものすごく嬉しい。

だって私も、

最初から信じていたわけじゃないから。

知らなかった。

疑った。

怪しいと思った。

それでも、

少しずつディグった。

そして、

知れば知るほど、

好きになってしまった。

さらに、

好きなだけでは終わらなくなった。

私は、イエス・キリストのファンで終わりたくない。


弟子として、

生きていきたい。

ポップみたいに、

怖くなることもある。

逃げたくなる日もある。

ヒュンケルみたいに、

方向を間違えることもある。

クロコダインのように、

「なんであんなことをしたんだ。」

と後悔することもあるかもしれない。

でも、

最初の姿が、

最後の姿とは限らない。

戻れる。

向きを変えられる。

また立てる。

そして、

受け取った愛を、

今度は誰かへ流していける。

弟子とは、

師の名言をたくさん暗記している人ではない。

師から受け取ったものを、

自分の人生で生きる人。

そして、

その光を、

次の誰かへ渡していく人。

アバンから、

ダイへ。

ポップへ。

マァムへ。

ヒュンケルへ。

そして、

次の世代へ。

二千年前。

イエス様から、

十二弟子へ。

弟子から、

また次の弟子へ。

国を越え。

時代を越え。

海を越え。

そのGood Newsが、

今、

日本にいる私のところまで届いている。

そう考えたら、

ものすごいですよね。

そして今度は、

私のところで止めない。

妻へ。

Davyへ。

神の家族へ。

この文章を読んでくださっている、

あなたへ。

私は、

受け取ったものを渡したい。

イエス・キリストというお方を。

そして、その弟子の旅の先には何があるのだろう。


ここまで、

66話から一緒にディグってきました。

66話。

見えない世界を求め続けた私が、

聖霊というお方を知った。

67話。

「信じる」と言っても、

結局何を信じればいいのかを考えた。

68話。

過去を消すのではなく、

神様のほうへ向きを変える、

「悔い改め」を知った。

そして69話。

向きを変えたその先で、

誰について歩くのか。

「弟子」をディグりました。

では、

その道の先には、

何があるのでしょうか。

聖書には、

とんでもない言葉が出てきます。

「永遠のいのち」。

永遠に、

生きる。

……そんなもの、

本当にあるのだろうか。

私はこの言葉を考えた時、

もう一人、

子どもの頃から知っている少年を思い出しました。

愛する母を奪われた少年。

死という現実を突きつけられ、

喪失を抱え、

怒りを抱え、

「死なない身体」を求めた少年。

星野鉄郎。

そして彼を、

銀河の彼方へ連れていく女性。

メーテル。

銀河超特急999。

鉄郎は、

永遠に生きられる機械の身体を求め、

999へ乗り込みます。

でも。

もし、

聖書が語る「永遠のいのち」が、

ただ、

「死なない身体になること」

ではないとしたら?

母を失った悲しみ。

死への恐れ。

憎しみ。

復讐。

そして、

人間がずっと抱えてきた、

「なぜ人は死ぬの?」

という問い。

その全部の先に、

イエス・キリストが語った

「永遠のいのち」

があるとしたら。

66話から始まった旅を、

次で一度、

締めたいと思います。

次回、第70話。


『銀河鉄道999』と、イエス・キリスト。

「永遠のいのち」って、ただ死なないことなの?

999に乗って、

最後の旅へ。

一緒にディグってみたい。

ディグってみたい


あなたには、

「この人から受け取ったものがある。」

と言える人がいますか。

そして、

あなたは今、

誰について歩いていますか。

もし、

イエス・キリストというお方が、

ほんの少しでも気になったなら。

もう少しだけ、

ディグってみてください。

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6話 お父さん、ラップがしたいです。|自分を証明するためではなく、福音を届けるために。


7話 小さなダビデが、マイクを握った日。|みことばの剣とランドセル。


特別編 イエス・キリストと十字架。|なぜ神の子は、苦しみを知りながら従われたのか。


Blessings to you.

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