第54話 なぜ「御言葉にとどまる」の?|チェンソーマンを見ながら考えた、“誰の言葉を信じるのか”。
※この記事は『チェンソーマン』原作終盤までのネタバレを含みます。
『チェンソーマン』。
妻から、「このシリーズにチェンソーマン、入れられないの?」と言われた。
最初は、「聖書の奥義シリーズに、チェンソーマン?笑」と思った。でも物語を改めてさらってみたら、思った以上につながっていた。
欲望。契約。支配。恐れ。家族。愛されたいという願い。
そして、「自分の人生を、誰の言葉によって生きるのか」。
これは、私自身がずっと探してきたテーマでもあった。
デンジが欲しかったものは、そんなに大それたものじゃない。
主人公デンジは、父親が残した借金を背負い、ポチタと一緒に悪魔を狩りながら生きている。
彼が最初から、「世界を救いたい」「正義のヒーローになりたい」と願っていたわけではない。ちゃんとしたご飯が食べたい。普通の生活がしたい。女の子に好かれたい。人並みの幸せが欲しい。
そんな、とても人間臭い少年だった。
そしてポチタとの関係によって、デンジはチェンソーマンとして生きることになる。公安へ入り、アキやパワーと暮らす中で、血のつながりとは別の“家族”のような関係も生まれていく。
私は、このデンジの「欲しい」という感覚が少し分かる。
私も昔、モテたかった。認められたかった。ラップで成功したかった。自由になりたかった。
「真理を知りたい」と言いながら、その奥には、もっと満たされたい、もっと自分の人生を良くしたい、そんな願いがたくさんあった。
欲しいものがあること自体が、全部悪いわけではないと思う。
でも問題は、
その「欲しい」を、誰に握られているのか。
なのかもしれない。
欲望を知っている人は、人を動かすことができる。
『チェンソーマン』第一部で、デンジの前に現れるマキマ。
優しい。美しい。自分を必要としてくれる。そしてデンジが欲しがっていたものを、よく分かっているように見える。
しかし物語が進むと、彼女の正体が「支配の悪魔」であることが明らかになっていく。
マキマが本当に欲しかったものは、デンジ自身というより、その中にいるチェンソーマン=ポチタの力だった。そしてデンジに家族のような幸せを経験させながら、アキやパワーを失わせ、彼自身が「もう自分で決めたくない」と思うところまで壊していく。
私はここが、この作品のものすごく怖いところだと思った。
鎖で無理やり引っぱらなくても、
「あなたが欲しいものをあげるよ。」
と言えば、人は自分からついて行ってしまうことがある。
成功したい。嫌われたくない。もっと稼ぎたい。もっと美しく見られたい。認められたい。安心したい。
この世界にも、「それが欲しいなら、こうしなさい」という声があふれている。
SNS。広告。世間。人からの評価。過去の傷。そして、自分自身の欲望。
私は本当に、自分の意思だけで生きているんだろうか。
私も「自由」を探していた。
私は以前、Buddhaの弟子だった。
さらにスピリチュアルの世界へ入り、二重スリット実験、量子力学、引き寄せ、意識、スターシードなど、いろいろなものを追っていた。
なぜか。
自由になりたかったからだ。
この世界には、目に見えているもの以外の仕組みがある。それを理解できれば、もっと自由になれるんじゃないか。自分の意識を変えれば、自分の現実も変えられるんじゃないか。
やがて私は、「この世界を見ているのは自分なんだから、自分の中に神がいるんじゃないか」という方向にまで進んでいった。
自由を探していた。
でも今振り返ると、
「自分の人生を全部、自分で支配したい。」
という願いもあったのかもしれない。
第53話では、そこから私が「私が神になる必要はなかった」と知っていったことを書いた。
▶ 第53話 神の子に与えられた「権威」ってなんなの?|祈り、御言葉、そして目に見えない世界。
『チェンソーマン』に出てくる「契約」。
この作品には、「悪魔との契約」というモチーフが何度も登場する。
何かを得る。その代わりに、何かを差し出す。
もちろん、これをそのまま聖書が語る「契約」と同じものとして考えているわけではない。
でも見ていると、一つの問いが浮かぶ。
私は、何を得るために、何を差し出しているんだろう。
成功するために、家族との時間を失う。認められるために、本当の自分を隠す。快楽のために、平安を失う。お金を得るために、愛を失う。
イエスさまはこう問いかけられた。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」
マルコの福音書8章36節
これは私にも刺さる。
何を手に入れたかだけではない。
そのために、私は何を失っているのか。
支配と、愛は違う。
デンジ、アキ、パワー。
最初から仲の良い家族だったわけではない。でも一緒にご飯を食べ、生活し、ケンカし、少しずつ関係ができていく。
だからこそ、それを失う場面が痛い。
そして私は、この物語を見ながら「支配」と「愛」について考えた。
支配する人だって、「あなたのため」と言うことはできる。優しい言葉を使うことだってできる。
でも愛は、相手を自分の所有物にしない。
聖書が語る神様を知るようになって、私はこの違いを少しずつ学んでいる。
神様は、私をロボットとして造られたわけではない。愛することも、従うことも、信じることも、そこには父と子の関係がある。
だから私にとって「御言葉にとどまる」というのも、思考停止して誰かの言うことを何でも聞く、という意味ではない。
私は父を知りたい。
父が何と言っているのかを知りたい。
そして、そのことばに自分の人生を合わせたい。
この世界には、“声”が多すぎる。
私たちは毎日、ものすごい量の言葉を浴びている。
「もっと持ちなさい。」
「もっと上へ行きなさい。」
「もっと評価されなさい。」
「あなたは足りない。」
「失敗したあなたには価値がない。」
「やられたらやり返せ。」
「自分さえ幸せなら、それでいい。」
しかも怖いのは、それを聞き続けていると、いつの間にか自分自身の声だと思い始めることだ。
私もそうだった。
人から認められたい。すごいと思われたい。成功しなければ価値がない。
そういう声を、「これが自分だ」と思って生きていた。
でも聖書を読むと、違うことばが入ってきた。
あなたは知られている。
あなたは愛されている。
赦しなさい。
愛しなさい。
仕えなさい。
恐れるな。
わたしについて来なさい。
そして、
「あなたは神の子だ。」
だから私は、御言葉へ戻る。
「御言葉のつるぎ」は、どう使うのか。
第53話で、私は「御言葉のつるぎ」が好きすぎて、自分でワイヤーの剣型ペンダントまで作った話を書いた。笑
『KAMINOKO』でも、
「見えない敵と戦う
我らJTM 神の子
御言葉のつるぎ」
とラップしている。
▶ KAMINOKO feat.Davy|Pistiss feat.Davy
では、その「つるぎ」をどう使うのか。
イエスさまご自身が見せてくださっている。
イエスさまが荒野で誘惑を受けられた時、その誘惑に対して御言葉をもって答えられた。
マタイの福音書4章。
「私は今こう感じるから。」
ではない。
「世間ではこう言っているから。」
でもない。
「……と書いてある。」
御言葉へ戻る。
第53話で「御言葉のつるぎ」を知り、この54話で私は、そのつるぎを持つというのは、こういうことなのかもしれないと思っている。
自分の声なら、全部正しいのか。
私は以前、「他人の言うことなんて聞かず、自分を信じればいい」という考えにもかなり惹かれていた。
一見、自由に聞こえる。
でも今は思う。
自分の中にも、傷から出てくる声がある。恐れから出る声。嫉妬から出る声。怒りから出る声。プライドから出る声。
過去の経験から、「絶対こうなる」と決めつけていることだってある。
だから、「自分の心に従えば全部大丈夫」とも私は思わなくなった。
自分自身も、御言葉によって照らされる必要がある。
私は今、自由とは「誰にも従わないこと」ではないと思っている。
真理を知り、嘘から自由にされること。
イエスさまは、
「真理はあなたがたを自由にします。」
と語られた。
ヨハネの福音書8章32節
そしてさらに、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
ヨハネの福音書14章6節
私が昔、あれほど追いかけていた「真理」。
それは、ただの法則ではなかった。
一人のお方だった。
チェンソーマンの「悪魔」と、聖書の悪霊は同じではない。
ここは、きちんと分けておきたい。
『チェンソーマン』の悪魔は、作品独自の世界設定だ。だから「チェンソーマンの悪魔=聖書の悪霊」という話をしているわけではない。
でも作品を見ながら、私は「恐れ」について考えさせられる。
チェンソーマンの世界では、人々の恐れが悪魔という存在と深く結びついている。
そして私たちの現実でも、恐れは人をものすごく強く縛る。
失敗が怖い。未来が怖い。人に嫌われるのが怖い。お金がなくなるのが怖い。病気が怖い。死が怖い。
だから、恐れに動かされて選択する。
でも聖書を読むようになって、私は恐れではなく、愛から生きる道を知った。
「愛には恐れがありません。」
ヨハネの手紙第一4章18節
御言葉にとどまることは、私にとって、恐れの声よりも父の愛の声を選び続けることでもある。
そして物語は、「死」という恐れへ向かっていく。
『チェンソーマン』の物語は、やがて戦争や死といった、人間の根源的な恐れにまで広がっていく。
人間にとって、死はずっと大きな問題だ。
だから、死をなくせたらいい。苦しみを消せたらいい。恐怖そのものを消せたらいい。
そう考えることもできる。
でも聖書が語るGood Newsは、単に「怖いものを全部世界から取り除く」という話ではなかった。
イエス・キリストは、
死そのものへ入られた。
十字架で死なれた。
そして、
復活された。
Good Newsは、「死に勝利された方が生きておられる」という知らせ。
私が聖書信仰(イエス・キリストの弟子)になって衝撃を受けたことの一つが、ここだった。
神様が遠くから、「頑張って死を乗り越えなさい」と言ったのではない。
イエスさまご自身が、私たちのところへ来られた。
罪のない方が、私たちの罪を負われた。
十字架で死なれ、三日目に復活された。
だから福音は、
「死なんて存在しないと思い込みましょう。」
ではない。
死に勝利された方が、今も生きておられる。
というGood Newsだ。
私は以前、死や輪廻や見えない世界について、いろいろなところに答えを探していた。
でも今、私が希望を置いているのは、
イエス・キリストだ。
▶ 特別編 イエス・キリストと十字架。|救いの核心
私が探していた「自由」は、ここにあった。
Buddhaの弟子だった私は、修行の先に自由があると思った。
スピリチュアルの世界では、意識を変えることで自由になれると思った。
歴史を調べた。社会を調べた。見えない世界を調べた。
「この世界の仕組みを全部理解したら、私は自由になれるんじゃないか。」
そんなふうに思っていた。
でも今は、全部を知っているわけではない。聖書だって、まだ分からないところはいっぱいある。
それでも以前より、ずっと平安がある。
なぜか。
全部を自分で支配しなくていいと知ったからだ。
父がいる。
私は神ではない。
私は、神の子だ。
だから自分の声だけにとどまる必要もない。世界の声に振り回される必要もない。
父のことばへ戻ればいい。
御言葉にとどまることは、愛にとどまること。
JTMで、何度も語られてきた。
「御言葉にとどまりましょう。」
以前なら、「聖書ばっかり読んでればいいってこと?」と思ったかもしれない。
でも今は、そうは受け取っていない。
聖書は、
「神は愛です。」
と語る。
ヨハネの手紙第一4章8節
そして、愛のうちにとどまる者は、神のうちにとどまると書かれている。
ヨハネの手紙第一4章16節
だから私にとって、
御言葉にとどまることは、愛にとどまること。
世間の声より。恐れより。欲望より。過去の傷より。そして時には、自分自身の感情より。
父のことばへ戻る。
これは、誰かに支配されるためではない。
むしろ、
私を支配していた嘘から、自由になるためだ。
デンジを見ながら、自分のことを考えた。
デンジは、いろんなものを欲しがった。
私もそうだった。
今だって、欲しいものはある。仕事もうまくいってほしい。家族には幸せでいてほしい。音楽も届けたい。福音ももっと伝えたい。
でも、「何が欲しいか」よりも、もっと大切な問いがあると思うようになった。
私は、誰の声を信じて生きるのか。
欲しいものをくれると言われたら、誰にでもついて行くのか。
恐れたら、その声に従うのか。
自分がそう感じたら、それが真理なのか。
それとも、
私を造られ、
私を愛し、
私のために御子さえ与えてくださった父のことばに、
とどまるのか。
私は、
御言葉にとどまりたい。
まとめ|「誰の言葉を信じるのか。」
『チェンソーマン』を見ながら、私は「支配」ということを考えた。
人は、力だけで支配されるとは限らない。
欲望でも。
恐れでも。
承認でも。
優しい言葉でさえ、人を縛ることがある。
だからこそ、私は知りたい。
誰が、何と言っているのか。
そして、その言葉は、どんな実を結んでいるのか。
私は、いろんな真理を探して歩いてきた。
でも今、戻る場所がある。
聖書。
御言葉。
そして、その中心におられる、
イエス・キリスト。
イエスさまは、私を利用するために私の命を要求されたのではない。
逆だった。
私を救うために、
ご自分のいのちを差し出された。
支配ではなく、
愛だった。
だから私は、この方について行きたい。
「あなたは足りない。」
という声ではなく、
「あなたは愛されている。」
という父の声へ。
「全部自分で何とかしろ。」
という声ではなく、
「わたしについて来なさい。」
というイエスさまの声へ。
御言葉にとどまる。
それは私にとって、宗教のルールに縛られることではない。
愛にとどまること。
そして、
本当の自由の中を歩くことだ。
次は、もう一つ大切なことを書きたい。
御言葉を知り、神の子として歩んでいく中で、私は一人で育ってきたわけではない。
父から子へ。
また、その子へ。
聖書にも流れている、「霊的な親子関係」というもの。
なぜ私は、ロギオンを霊的父として慕い、そこにとどまりたいと思っているのか。
次は、その話へ進んでみたい。
Buddhaの弟子から、キリストの弟子へ。
痛みは証に。光は闇に勝つ。
Blessings to you.
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