120.教皇派と皇帝派
画像は以下のサイトから転載。
今回もリアルキャメロットたちについてお伝えします。
ドラマの登場人物を気取る痛い人はたまにいますが、リアルキャメロットたちもまた、ある意味では映画の中の人たちであり、物語に取り憑かれた人たちでもあります。
教皇派と皇帝派というのは、十二世紀から十三世紀の主に北イタリアで対立していたローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族たちを指します。
教皇派はゲルフ、皇帝派はギベリンともいわれます。今回はおもに、この語がどこから来たのか、という話になります。
ロタール三世
有名なマティルダ(モード皇后)は、イングランド王ヘンリー一世(一〇六八年ごろ~)とマティルダ・オブ・スコットランドの娘です。

すでにお伝えしていますが、モードは幼いころにドイツに移住し、のちに神聖ローマ皇帝となるハインリヒ五世(一〇八六年~)と結婚しました。
ハインリヒ五世が死ぬと、モードは父のヘンリー一世によってノルマンディーに呼び戻され、アンジュー伯ジョフロワ五世(一一一三年~)との結婚が手配されました。

ハインリヒ五世とモードとのあいだには子供ができなかったので、ハインリヒ五世の死はザーリアー朝の終焉を意味することになりました。
諸侯たちは跡継ぎ(皇帝)に、ハインリヒ五世の近親者ではなく、ザクセン公ロタール三世(一〇七五年~)を選びました。

このロタール三世は、結果的に皇帝派と教皇派の対立におけるゲルフ(皇帝派)の祖となりました。
インノケンティウス二世(一一四三年~)とアナクレトゥス二世(生年不明)は、教皇の座を争っていた教皇たちです。
カトリック内でも争っていたわけですが、カトリック教会の多くの指導者たちは、長年に渡ってユダヤ系の出自だと噂されていました。
事実アナクレトゥス二世は、ユダヤ系ローマ貴族、ピエトロ・ピエルレオーニとして産まれた「ユダヤ人」です。曾祖父のバルークはローマの金貸しでした。
王侯ならまだしも、「キリスト教」のトップがユダヤ人ぞろい、というのは不穏です。
教皇たちはロタール三世に皇帝の冠を与えようと申し出ましたが、ロタールはホーエンシュタウフェン家との争いに忙殺されていました。
一一三〇年、アナクレトゥス二世がローマ市民の支持を取りつけていたことで、インノケンティウス二世はピサ行きの船でフランスに逃れました。
クレルヴォーの聖ベルナール(一〇九〇年~)は、インノケンティウス二世がフランスに滞在しているあいだ、教会およびイングランド王ヘンリー一世に働きかけ、インノケンティウス二世の支持を取りつけました。

聖ベルナールは最も影響力のあった聖職者、神学者で、第二回十字軍の勧誘で諸侯に大きな影響を与えた人です。
さらにザクセンのマクデブルク大司教ノルベルトは、ドイツの教会とロタール三世を説得し、インノケンティウス二世側につかせました。
一一三一年、インノケンティウス二世と聖ベルナール、ロタール三世はリエージュで会談しました。
そしてロタール三世は、アナクレトゥス二世およびシチリア伯ルッジェーロ二世(一〇九五年~)との紛争について、支援を約束しました。
ルッジェーロ二世は、以前お伝えしたとおりアナクレトゥス二世の支持者で、海賊旗ジョリー・ロジャーの元ネタとなった人です。
交差した骨と頭蓋骨といえば、テンプル騎士団です。

交差した骨と頭蓋骨の元ネタは、ウェールズの詩人ウォルター・マップ(一一四〇年ごろ~)の『Skull of Sidon(シドンの頭骨)』という死体愛好物語です。
ロタール三世は教皇の宗主権下に身を置き、ハインリヒ五世のヴォルムス協約に基づくすべての帝国権益を教皇インノケンティウス二世に譲渡しました。
そしてインノケンティウス二世は、ロタール三世をローマ王として戴冠させました。もちろんご褒美です。
ロタール三世は最終的にローマに到着したのですが、アナクレトゥス二世がサン・ピエトロ大聖堂を掌握していたため、一一三三年にラテラノ大聖堂で神聖ローマ皇帝として戴冠しました。
シュヴァーベン系ヴェルフ家
ロタール三世が皇帝に選出されたあと、ドイツで戦争が勃発しました。
戦争をはじめたのは、ホーエンシュタウフェン家の支持者たちとザーリアー家および教皇支持者たちです。
ホーエンシュタウフェン家は、旧ザーリアー朝と同盟関係にあり、血縁関係もあった人たちです。
一一三八年から一二五四年まで君臨したホーエンシュタウフェン家は、例によって古代ローマ人とその伝統の継承者だと自負していました。
ユリウス・クラウディウス朝の初代皇帝アウグストゥス(紀元前六三年~)は、ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~)に有名なラテン語叙事詩『アエネーイス』の執筆を依頼しました。
書かせた理由は、ユリウス・クラウディウス家をローマとトロイの始祖、英雄、神々の子孫として正統化するためです。
アリエノール・ダキテーヌもヘンリー二世も、アーサー王物語を推しまくっていました。中世の民間伝承によると、ルクセンブルク家とアンジュー家、その子孫のプランタジネット家、フランスのリュジニャン家は、竜の精霊メリュジーヌを祖先としています。

物語には力があります。筆者も子供のころはアニメの登場人物を気取っていました。
これは笑い話でも成長過程によくある話でもなく、物語は現実観を歪ませます。世の親はなぜか子供に物語を読み聞かせようとしますが、まったくの無意味どころか害悪でしかありません。
ドラマやドキュメンタリーなどでは、親が子に絵本を読むシーンが出てきます。世の親が子供に物語を読み聞かせよう、むしろ読み聞かせなければならない、と考えているのは、まちがいなくドラマやドキュメンタリーなどの影響です。登場人物を気取る「痛い人」です。
ではなぜ世の中が物語にあふれているかといえば、単に商売がしやすくなるからです。映画の都の存在がその証拠です。
現実にはモンスターなどいませんし、いくら努力してもアイドルやミュージシャンや大谷翔平にはなれません。
わかっているよといわれるでしょうが、もう手遅れです。そしてドラマの登場人物のように子供に絵本を読み聞かせ、自らわが子の現実観を歪ませます。
伝説や物語は、ユダヤの十八番です。ハリウッドがユダヤだらけなのも歴史を知れば納得、というわけです。
話が逸れましたが、ホーエンシュタウフェン家はドイツ王として、イタリア、ブルゴーニュ、神聖ローマ帝国に対する権利を主張しました。
またドイツ以外にも、シチリア王国(一一九四年~一二六八年)、エルサレム王国(一二二五年~一二六八年)も支配していました。
一一三五年、ロタール三世はついにホーエンシュタウフェン家を打ち破りました。これはヴェルフ家の尊大公ハインリヒ十世(一一〇〇年ごろ~)の助力によるものでした。

このハインリヒは、父の黒公ハインリヒ九世(一〇七五年~)の死後、バイエルン公となっていました。
ホーエンシュタウフェン家は、シュヴァーベンを支配した最も有名な一族でした。
シュヴァーベン系ヴェルフ家の記録上最古の人物は、八四二年にはじめて言及されたシュヴァーベン伯ヴェルフ一世(生年不明)です。
伝説によると、ヴェルフ一世はブルクント家の祖であるアルトドルフ伯ヴェルフ一世(八世紀後半~)の息子コンラート一世(八〇〇年ごろ~)の息子です。

https://www.detailedpedia.com/wiki-Elder_House_of_Welf
ヴェルフ三世(一〇〇七年ごろ~)は、シュヴァーベン系古ヴェルフ家の最後の男系子孫です。
このヴェルフは、シュヴァーベン貴族のアルトドルフ伯ヴェルフ二世(九五〇年ごろ~)とイミツァ・フォン・ルクセンブルクの息子です。
イミツァはルクセンブルク家のモーゼルガウ伯フリードリヒ(九六五年~)の娘で、このフリードリヒはアルデンヌ伯ジークフリート(九二二年ごろ~)の息子です。

ルクセンブルク家は有名ですが、この人たちはイミツァを通して竜の精霊メリュジーヌを祖とする血統であることを主張していました。
この主張が単なる箔づけではないことは、116.プランタジネットでお伝えしています。アンジュー家もプランタジネット家もリュジニャン家も悪魔の血統であり、しかもそれを誇っていました。
悪魔なんて存在しない、と思われた方は、先の絵本読み聞かせの話を再読してください。
権力のある人間たちが悪魔の子孫キャラを気取るとどうなるか、多少は想像できたのではないでしょうか。
ヴェルフ=エステ家
ヴェルフ家の血は、ヴェルフ三世が一〇五五年に子供を残さず死んだことで断絶しました。
ヴェルフ家の財産は、のちにヴェルフ=エステ家として知られるようになったエステ家が継承しました。
エステ家の最初の記録上の人物は、マインツ辺境伯アダルベルト(生年不明)です。
アダルベルトの息子はオベルト一世(生年不明)で、このオベルトはオットー大帝によって辺境伯の称号を認められた人です。
オベルト一世の孫、ミラノ辺境伯のアルベルト・アッツォ二世(九九六年~)は、パドヴァ近郊のエステに城を築き、その地名に因んで自らを名乗ったことからエステ家の創始者と見なされています。

アルベルト・アッツォ二世は、子孫を残せなかったヴェルフ三世の妹のクニグンデと結婚しました。

アルベルト・アッツォ二世の息子、バイエルン公ヴェルフ一世(一〇三五年ごろ~)は、母方の伯父ヴェルフ三世の財産を相続し、ヴェルフ=エステ家の最初のメンバーとなりました。

バイエルン公ヴェルフ一世は、ユーディト・フォン・フランデルンと結婚し、黒公ハインリヒ九世をもうけました。
ユーディト・フォン・フランデルンは、フランドル伯ボードゥアン四世(九八〇年~)とエレオノールの娘で、エレオノールはノルマンディー公リシャール二世(九六三年~)の娘です。
オットー大帝の母が属していたビルング家は、黒公ハインリヒの義父、ザクセン公マグヌス(一〇四五年ごろ~)が男子の後継者を残さず死んだため、ヴェルフ家およびアスカーニエン家(別名アンハルト家)に吸収されました。
この家の財産は、マグヌスと妻のソフィーアとのあいだに生まれた二人の娘に分割されました。
マグヌスの妻のソフィーアは、ハンガリー王ベーラ一世(一〇一六年~)とポーランドのリグザの娘です。
そして二人の娘の一人、ヴルフヒルトは、黒公ハインリヒ九世と結婚しました。狭い世界です。
黒公ハインリヒとヴルフヒルトの息子、尊大公ハインリヒ十世は、神聖ローマ皇帝ロタール三世の娘ゲルトルート・フォン・ザクセンと結婚しました。
尊大公とゲルトルートの息子は獅子公ハインリヒ(一一二九年ごろ~)で、このハインリヒはマティルダ・オブ・イングランドと結婚しました。

マティルダ・オブ・イングランドは、イングランド王ヘンリー二世とアリエノール・ダキテーヌの娘です。
ライオンの紋章
プランタジネット家の紋章には、獅子(ライオン)が描かれています。

十二世紀に紋章としてライオンを用いた例は、ホーエンシュタウフェン家とヴィッテルスバッハ家が挙げられます。


このライオンたちはどれも、獅子公ハインリヒに由来します。
のちに確立される紋章制度の最も初期の例の一つは、アンジュー伯ジョフロワ五世(ジョフロワ・プランタジネット)の墓に見られます。

このエナメル細工は、妻のマティルダ(モード)が発注したものと思われます。
青い盾には六頭のライオンが配され、青い兜にもライオンがあしらわれています。
一一七五年の年代記によると、ジョフロワ五世は一一二八年に義父のヘンリー一世から騎士叙任を受けた際、この青い盾をもらったとのことです。
ライオンとイングランドの王冠、聖エドワード王冠との関連を示す最古の証拠は、未来のジョン失地王が使用した、二頭の歩行するライオンを刻んだ印章です。


このジョンはヘンリー二世の息子で、ヘンリー二世はジョフロワ・プランタジネットの息子です。
ヘンリー二世のあとを継いだジョンの兄、獅子心王リチャード一世(一一五七年~)は、三頭の歩くライオンをはじめて採用した人物とされています。

この三頭のライオンは、現在もイングランドの紋章として使用されています。
獅子心王リチャードは以前、立ち上がって戦う二頭のライオンを用いていましたが、この紋章はリチャードの父のヘンリー二世の紋章だった可能性もあります。
リチャードはまた、イングランドの紋章における立ち姿(statant)のライオンをモチーフとするイングランドの紋章を考案したともされています。

現在は立ち姿で前方(カメラ目線)を向く姿(statant-guardant)が用いられています。

このstatantやstatant-guardantというのは、紋章学における「動物や生物の姿勢」を表現する用語です。
スコットランド王室の紋章は、スコットランド王デイヴィッド一世(一〇八四年ごろ~)の孫、スコットランド王ウイリアム一世(一一四三年~)に帰せられます。

ウイリアム一世の祖父のデイヴィッド一世は、スコットランド王マルカム三世と聖マーガレット・オブ・スコットランドの息子です。
聖マーガレット・オブ・スコットランドの母は、ブルガリアのアガサです。このアガサは南フランスのギレム家、ハザール人の血を引く東欧の一族、そしてスペイン貴族たちの婚姻関係を象徴する人物です。
ウイリアム一世は、スコットランド王としてはじめて後ろ足で立ち上がったライオンを用いたので、獅子王とも呼ばれていました。

この後ろ足で立ち上がった姿勢を、紋章学ではrampantといいます。このままカメラ目線になるとrampant-guardantになります。
そしてウイリアムは、テンプル騎士団の保護者でした。
デンマークの紋章は、クヌート六世(一一六三年ごろ~)が最初に使用しました。


フランドルの紋章は、アンジュー家のシビーユの息子、フランドル伯フィリップ一世(一一四三年~)が最初に使用しました。

シビーユはアンジュー伯フルク五世の娘で、フルク五世の母はエルサレム女王メリザンドです。
このメリザンドはメリュジーヌの伝説と結びつけられている人です。語感が似ているといえば似ています。
ボヘミアの紋章を最初に授与されたのは、ボヘミア公で初代ボヘミア王のヴラチスラフ二世(一〇三五年ごろ~)です。

レオンの紋章は、アルフォンソ七世(一一〇五年~)に由来するとされています。文字どおりのライオン(レオン)です。

アルフォンソ七世の二番目の妻は、ポーランド大公のヴワディスワフ二世とアグネスの娘、ポーランドのリクサ・シロンスカでした。
このように挙げていくと、いかにごく一部の血統がヨーロッパを支配していたかがわかります。
そしてこの連中のキャラと行動をどれだけ知っても、中世ヨーロッパの「歴史」を知ったことにはなりません。少し厳密にいうと人類史、人類の行動パターンとその理由を知ることにはなりますが、その頭(前提)があってはじめて理解できる話です。
二十世紀に影響力を持ったアナール学派は、これまで見過ごされていた民衆の生活文化などを研究し、知見を広めました。
邦訳もありかなりおもしろいので、華々しいキャラたちに飽きた向きは、エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリやマルク・ブロックなどをおすすめします(ル=ロワ=ラデュリの気候の本はおもしろくありません)。
コンラート三世
一一三七年にロタール三世が死ぬと、諸侯は再び王の権利を抑制しようとしました。
諸侯たちはロタールが推した後継者、婿でヴェルフ家の尊大公ハインリヒ十世を選ばず、ホーエンシュタウフェン家のコンラート三世(一〇九三年ごろ~)を選びました。

これによって、ゲルフとギベリンの一世紀以上に渡る抗争がはじまることになりました。
この抗争で、ヴェルフ派はヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派はウィーベリンと呼ばれるようになり、これがイタリアに伝わって教皇派と皇帝派(ゲルフ対ギベリン)となったわけです。
コンラート三世は、皇帝ハインリヒ四世(一〇五〇年~)の孫で、皇帝ハインリヒ五世(一〇八六年~)の甥にあたります。
ハインリヒ四世といえば「カノッサの屈辱」で有名な人です。
コンラート三世は、ホーエンシュタウフェン家で初のドイツ王になりました。
このホーエンシュタウフェン家については起源がわかっていないのですが、結局シュヴァーベン公国を支配するまでに台頭しました。
コンラート三世の父親は、フリードリヒ一世(一〇五〇年ごろ~)です。
このフリードリヒ一世は、フリードリヒ・フォン・ビューレン(一〇二〇年ごろ~)とヒルデガルト・フォン・エギスハイムの子供です。
このヒルデガルトは、のちの教皇レオ九世、ブルーノ・フォン・エギスハイムの姪です。

このレオ九世は、アナクレトゥス二世の曾祖父、金貸しバルークの息子レオ・デ・ベネディクト・クリスティアーノに洗礼を与えた教皇です。
フリードリヒ一世は、一〇七九年にホーエンシュタウフェン城でハインリヒ四世によってシュヴァーベン公に任命されました。
そしてフリードリヒ一世は、ハインリヒ四世とベルタ・フォン・ザヴォイエンの娘アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンと結婚し、コンラート三世をもうけました。
コンラート三世の弟、シュヴァーベン公フリードリヒ二世(一〇九〇年~)は、黒公ハインリヒの娘で尊大公ハインリヒの妹であるユーディト・フォン・バイエルンと結婚しました。
一一四六年、コンラート三世は、クレルヴォーの聖ベルナールの感動的な説教を聞き、フランス王ルイ七世とともに第二回十字軍の大遠征に参加することに同意しました。
その後コンラートたちは、一一四七年のドリュラエウムの戦いで、セルジューク・トルコ軍に敗北しました。
ちなみにこのドリュラエウムの戦いは、第一回十字軍のドリュラエウムの戦いとは別の戦いです。
コンラート三世と甥のホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ一世(一一二二年~)は、クレルヴォーの聖ベルナールから十字架を授けられました。
そしてコンラートは死の床で、甥のフリードリヒ一世を後継者に指名したとされています。
じつはコンラート三世には当時、フリードリヒ四世という息子がいました。息子が無能だったのかというとそうでもなく、当時は六歳でした。
バルバロッサ
シュヴァーベン公フリードリヒ二世の妻で黒公ハインリヒ九世の娘ユーディトは、フリードリヒ一世(一一二二年~)の母親です。

フリードリヒ一世は、支配しようとした北イタリアの都市群によって、「赤い髭」を意味するバルバロッサという愛称をつけられた人です。
赤髭といえば、嫌われ者の「赤いユダヤ人」を想起させます。
ユダヤ人はともかく、歴史家たちはフリードリヒ・バルバロッサを、神聖ローマ帝国における中世最高の皇帝の一人と見なしています。
「sacrum(聖なる、奉献された)」という用語が中世ローマ帝国に関連して用いられたのは、一一五七年のフリードリヒ・バルバロッサの治世からでした。
「Holy Empire(神聖帝国)」は、当時イタリアと教皇庁を支配しようとしていたフリードリヒの野心を反映するために付け加えられたものでした。
ちなみに「神聖ローマ帝国」という正確な呼称が用いられるようになったのは十三世紀以降で、一二五四年以降に確認されています。
それ以前は、この帝国は「universum regnum(全王国、地域王国と対比して)」、「imperium christianum(キリスト教帝国)」、または「Imperium Romanum(ローマ帝国)」など、様々な呼称で呼ばれていました。
「聖なる」の意味合いが元々は異なっていたわけです。
コンラート三世はヴェルフ家を領地から追放しましたが、一一五二年にコンラートが死ぬと、あとを継いだフリードリヒ・バルバロッサはヴェルフ家と和解し、従兄弟の獅子公フリードリヒを領地に復帰させました。
フリードリヒ・バルバロッサが帝国勢力を拡大するためイタリアに軍事遠征を行った際、この軍事行動の支持者はギベリン派として知られるようになりました。
中世イタリアの都市国家では、ゲルフ派とギベリン派が、それぞれ教皇と神聖ローマ帝国を支持していました。
そういう経緯で、ギベリン派は帝国派、ゲルフ派は教皇派となりました。
フリードリヒ・バルバロッサは、ブルゴーニュ伯ギヨーム四世(一一〇二年~)の姪にして後継者のブルゴーニュ女伯ベアトリス一世と結婚することで影響力を拡大しました。

このベアトリスは、フリードリヒの兄弟ブルゴーニュ伯ルノー三世(一〇八七年~)の娘でした。
ブルゴーニュ伯ギヨーム四世は、教皇カリストゥス二世とレーモン・ド・ブルゴーニュの兄弟、エティエンヌ一世(一〇六五年~)の次男でした。

教皇カリストゥス二世の一族は、ヨーロッパで最も有力な貴族ネットワークを形成していました。
ベアトリス一世の母は、クレルヴォーの聖ベルナールと親交のあったロレーヌ公シモン一世(一〇七六年~)の娘、アガタ・ド・ロレーヌです。
エティエンヌ一世のあとを継いだのは長男のルノー三世でしたが、ルノーの死後、ギヨーム四世はベアトリスの名においてブルゴーニュ伯領を掌握しました。
ギヨーム四世は一一五六年に聖地での十字軍遠征中に死亡し、フリードリヒ・バルバロッサはベアトリス一世と結婚した際、ブルゴーニュ伯領を引き継ぎました。
十三世紀初頭、ホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ一世バルバロッサの息子シュヴァーベン公フィリップ(一一七七年~)と、ヴェルフ家の獅子公ハインリヒ三世の息子で神聖ローマ皇帝オットー四世(一一七五年~)が皇帝位を巡って対立しました。


このオットー四世は、フィリップの娘婿です。繰り返しになりますが、いかに狭い世界で大河ドラマが行われていたかがわかります。
そして十字軍時代の歴史が人名ばかりでダイナミズムに欠けるのも、ある意味必然といえます。ユダヤ由来の「攻略本」が出まわり、「知る者」以外は蚊帳の外、という状況に変化したからです。
この流れでグノーシス主義について読まれるのもいいかもしれません。
フィリップはフリードリヒ・バルバロッサの親族としてギベリン派の支持を得た一方、オットーはヴェルフ派の支持を得ました。
フィリップの後継者、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(一一九四年~)は、オットー四世と教皇庁の双方の敵でした。

フリードリヒ二世の治世中、ヴェルフ派は教皇庁との結びつきを強めましたが、ギベリン派は帝国、とくにフリードリヒの支持者になりました。
今回はヴェルフやフリードリヒが多すぎて混乱したかもしれませんが、お伝えしたような貴人たちの婚姻や諍いは現在も同じように行われています。いまも使われている紋章たちがその証拠の一つです。
つまり現在に生きるわたしたち庶民も、「歴史」の一部にはなり得ない、ということです。
そしてこのころの「歴史」と呼ばれるものは、極端にいえばハリウッドのゴシップのようなものでした。
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