【小説】冷凍みかん 第4話
真夜中散歩
『テイカカズラ』の香りが、梅雨の重たい湿気に煽られて、そこかしこで湧き立っている。蔓性の常緑種で生命力が強く、仕切りや目隠しとして、歩道の脇や玄関先に植えられているのをよく見かける。香りの強い小花を一斉に咲かせる姿は、ハゴロモジャスミンに似ているが、花びらは、白地に少々黄み掛かった色をしている。
鼻先から喉の奥まで、ギトギトの花粉をぎっしり詰め込まれたような、息苦しいあの匂いは、どうしても好きになれない。かつて 『はだ色』 とされていたクレヨンの、中身が空洞のプラスチック人形を思わせる不自然な色を、顔中に塗りたくられたような異物感が纏わりつく。
辺りが暗くなってからの散歩は、同じ道でも、昼間とはまったく違った顔を見せてくれる。駅から離れた住宅地なので、平日でも21時を過ぎれば、人とすれ違うことがほぼなくなる。窓からこぼれる明かりが、道端をぼんやり照らし、静けさは、いよいよ格別なものとなっていく。
草木の根元に置かれた間接照明も、幻想的な雰囲気を演出するのに不可欠な存在だ。日光を浴びているときよりも、際立って映し出された木々の影は、枝葉と交じり合いながら広がって、壁を這っていく。
夜のわた雲は、色の変化の少ない景色に、奥行きを与える。ある程度の厚みがあれば、月が照らしていなくても、モコモコの輪郭がおぼろげに現れる。
塀に水槽をはめ込んでいる庭も、明るい時間とは別ものの雰囲気を作り上げていた。
塀を覆う山葡萄の葉は、夜になっても太陽を探して、一心に上を向いている。葉の裏側は影が深くなり、葉脈も判別できない。立体感がなく、のっぺりして見えるので、見上げる位置にある葉などは、1枚1枚が、空に開けられた『穴』のような気がした。
水槽の向こう側には、小綺麗に手入れされた庭が広がっているはずだった。しかし、2枚のガラスを通して、いや、1枚を介したその先には、静まり返った庭に、水面下の葉や根の影が複雑に交差して、始まりも終わりも混ぜこぜになった空間が繰り広げられていた。何も見えないガラスに鼻を押しつけ、目を凝らしていると、暗闇の方から、首の後ろに両腕をまわして、そっと引き寄せてくるような幻想が湧き出てきた。時折、真っ暗な中を、絵の具を溶いたような濁りが、行ったりきたりしているようだった。
目が慣れてくると、何かが穏やかに呼吸している気配を感じた。それは、あまりにも大きすぎて、30cmやそこらの窓では、せいぜい『歯茎』しか見えなかった。
──漠然とした、大きなものが好きだ。
アスファルトを押し上げ、ガードレールをも歪ませてそそり立つ巨木。
人が捌けて、非常口の明かりだけが律儀に灯っている、窓のない工場。
稲光を孕ませながら密に膨らんで、みるみる空を覆っていく入道雲。
有無を言わさぬ圧倒的な存在感は、何もかも押し潰してしまうほどの『抱擁力』さえ思わせる。
夜は、この感覚を、まさに極限まで研ぎ澄ませてくれる。
街灯の届かない茂みの闇は、ただただ深さを追求していき、奥行きという概念を失くして、鮮やかな『黒』一色になる。
真っ暗闇の、ぼっかり開いた大穴へ落ちていくイメージと、真っ黒い何かが満ち満ちた空間へ、じわじわ埋め込まれていく錯覚。
いずれ、どの方角にも進めなくなったら、この、徹底して無感情で最強の存在に、抱き潰されて、救われたい。
