見出し画像

【小説】冷凍みかん 第5話

床下の化石

 “それ” が初めて現れたのは、3年前の冬だった。

 11月の終わりには、ダウンコートを出してしまうほど、長く長く、厳しい寒さだった。カサカサに乾いた空気からは、温度と共に、一切の匂いが失せた。常に緊張している身体は、ギシギシに強ばって、思うように動かない。殊にその年は、心身ともに、とことん打ちのめされた。


 日付が変わろうとしていた。上着も脱がないまま突っ伏したソファの上で、ようやく室内の寒さに気づき、とりあえず、蹴散らしていた膝掛けを手繰り寄せた。今夜はもう、ここから出られない。風呂に入るのも、寝室へ移るのも、部屋の明かりを点けることすら諦めて、何を見るでもなく、フローリングに視線を投げていた。

 楓の葉が1枚、落ちている。

 おそらく、駅前の並木道で、靴裏にでも引っかけてきたのだろう。楓は、シャープな印象の紅葉よりも葉の切れ込みが浅く、ふくふくと愛嬌のある形をしている。並木に植えられている楓の葉は、ぽってりした3つ指で、日の光を柔らかく透かして、大らかに揺らめく姿は、肌に触れる空気さえ軽やかに思わせた。

 ──はたと、床の葉に、再び目をやる。
 あの楓は、こんなに尖った形だっただろうか。

 そこに落ちているのは、むしろ、紅葉の指を3本残して、他をすべて捥ぎ取ったような鋭さをしている。葉脈も、随分くっきりと浮き出ている。
 目を凝らしていると、3つ指は、ひそと浮き上がった。いや、床下から1本の細い枝が生えてきて、ヒュルヒュルと押し上げていったのだ。

 天井へ届くかという所まで伸びると、真っ二つにコッキリと折れ曲がり、枝と共にまた下りてきた葉は、ぐんっと床を踏みしめた。その勢いに乗って、もう一方の枝の端が、これまた音も立てずにフローリングの底から、半円を描いて持ち上げられた。

 枝の先には、ずんぐりむっくりの胴体が刺さっていた。私の頭よりもひと回り大きな胴は、きちんと同じ方向へ撫でつけられた羽毛で覆われていた。おまけのような小ぶりの手羽が、胴の両側に、お上品に『くの字』 に収まっている。大きな目玉をなぞるように吊り上がった、幅の広いくちばし。もう一方の足も抜き出すと、バランスの悪い体型の割に、風船のような軽やかさで、ふわりと床に降り立った。
 影を落とすほどではないが、全体の輪郭をぼんやり捉えられるほどに、羽の1枚1枚が、淡く、ターコイズブルーの光を放っている。ひょろりと長い右足の、さらに細くのびた爪の先で、チリッと光を反射したものがあった。小豆ほどの金色の鈴がひとつ、括りつけられている。

 リン──

 余韻が、微かだが鋭く、空気を割いた。
 パタリと、家の中の、すべての気配が消えた。見つかるまいと、ひっそり身を潜めているかのように。
 暗闇には、とっくに目が慣れているはずなのに、足元が、何やらぼわぁと滲み始めた。
 床から次々と湧き出てくる、じっとり濁った『あぶく』。これが何なのか、見当はついていた。


 毎日毎日、家の扉を閉めて、ようやく呼吸ができる。分厚くなってしまった燻りを、深く息を吐きながら、少しずつ剥がしていく。ついこぼれ出る、不安や焦り、許されない感情の欠片。それらの余熱に包まれながら、一日の出来事を投影し、丁寧に咀嚼を繰り返す。

 明日もまた表へ出るには、自分を、分かりきった嘘で言い包めなければならない。ちんけな建前で誤魔化さなければならない。そんなものを、毎日毎日、壁へ、床へ、天井へ擦りつけておきながら、いつまでも何も起こらないと思っている方がおかしいのだ。


 ターコイズブルーの毛玉は、そんな汚らしい泡を、踊るような足取りで、器用に踏み潰していった。まるで、鍵盤をたたくような軽やかさで、1粒ずつ、的確に。足元に目をやる素振りもなく、ふわりふわりと緩やかな調子で、丁寧に舞いながら。

 爪先の繊細な動きを、凛々しく響く鈴の音が、光の線を絡めて追いかける。泡は、ぱちん、ぷちん、と、小気味よい音をたてて弾け、何も残さず消えていった。


 ──表にはびこる 『汚れ』 の一種。
 奴らは、好んで不幸に浸りたがる。『弱者』という立場に、抗い難い甘美な魅力を感じているらしい。解決の糸口になど見向きもせず、新たな不幸を求め、血まなこになって嗅ぎまわる。一定量のそれを集めれば、誰かに押っ被さる権利を得られるとでも思っているようだ。(すなわち、個々の不幸は大したものではないと、自供していることにもなるのだが)

 一方で、苦しんでいる人を蔑み、踏み躙って、自分こそが誰よりも不幸な存在なのだと、大股で闊歩し、これ見よがしに触れ回る。そんな戯言をかます輩が、至る所にうじゃうじゃのさばっているのだから、なんとも滑稽だ。

 人間は、真っ黒の穴だ。
 何かと触れ合うことで、慈しみを重ね、怒り、悩み、力の加減を知る。感情が豊かに培われることで、果てしない穴の中に、光が、色が、乗せられていく。穴は、いずれ、それらの形を示す輪郭となって、その人の奥行きを作り上げていく。

 長いこと真っ直ぐ向き合っているのに、いつまで経っても目が合わないと思ったら、そいつはただの、2つの穴ぼこだった。

 『オイシイ』皮を見つけては、サイズも合わないのにひたすら重ねて着込み、ブヨブヨにふやけた『汚れ』は、周囲もろとも澱ませて、中身が空っぽのまま過ごしてきたのだろう。お手製の劣悪な権利を振りかざし、与えられることにあぐらをかいて、グブグブに膨れ上がった腹を掻きながら、恥ずかしげもなく愚鈍を晒して生きている。

 その穴ぼこは、もはや、清々しい一色の闇ではない。垢の浮いたどぶ水に似た、いや、どんな色の名前だって、耳障りな鳴き声と凝縮された悪臭を、だらしなく垂れ流し続けるそれに、与えてやりたくはない。


 ──相変わらず、毛玉以外の気配がない。
 静かに美しく輝く彼を、表立って迎えてはいけないということには、何となく気づいていた。それでも、『悪』を自覚し、大っぴらに発散させたいという本音が、いよいよ色濃く支配していく。曖昧な毒の甘ったるさにどっぷり浸って、全身に染み込んでくる痺れを受け入れながら、何も考えずに、だらりと寝そべっていたい。

 ぱちん。

 ぷちん。

 火照った頬で、両手のひらを温めながら、いつまでも続く心地よいリズムに、うっとり聴き惚れていた。

青いパネル(2023年/アクリル画)




いいなと思ったら応援しよう!