『リア王』他、シェイクスピア作品のshakeについて〈前半〉
前回、村上春樹の短編「日々移動する腎臓のかたちをした石」の解釈と感想を書きました。これは風に揺さぶられる綱渡り師のキリエ、に心を揺さぶられる淳平、が書く小説の中で石に揺さぶられる女医の物語でしたね。シェイクスピア作品に登場する未熟者の多くも彼らと同じ。To be, or not to be、生か死か、善か悪か、聖か俗か、右か左か、上か下かと二極で迷い揺らぐ者、心を揺さぶられる者として描かれています。
そして、キリエが風に揺さぶられるように、シェイクスピア作品の登場人物たちの心の揺れも、しばしば風や波、恐怖や寒さなどによる体の揺れや震えとして表現されています。今回は、シェイクスピア作品における揺れや震えの表現について考察したいと思います。
1 『リア王』のshake
1-1 揺さぶられる父王の威厳
『リア王』の序盤、リアは信頼していた長女ゴネリルに裏切られ、衝撃を受けます。以下はそのときの嘆きの言葉。
大の男が貴様の力でこうまで痛めつけられ
That thou hast power to shake my manhood thus
父王としての威厳が傷つけられたこと、リアの心が傷つけられたことが、shake揺さぶられたと表現されています。
1-2 嵐と強風
『リア王』では、「俺の心の大嵐」(130)という言葉のとおり、リアが荒野で嵐に遭い、雷が鳴って強風が吹き荒れるさまが、娘に裏切られて荒れ狂うリアの心の内を表します。以下は紳士がケントに、リアの様子を報告するセリフ。
天気同様、心も荒れている
風よ吹け、大地を海の中へ突き落せ、
さもなくば、逆巻く大波に陸を呑み込ませろ、
天地をひっくり返すのだ、と叫んでは、白髪を
搔きむしる。その髪に、猛り狂う烈風が盲滅法
摑み掛かり、木っ端同然にもてあそぶ。
王は、人間の五体という小宇宙の嵐によって
やみくもに吹きすさぶ外界の風雨を凌ごうとなさっている
シェイクスピア作品では、髪が脳内の状況を示すので、強風によって白髪が乱れていることも、脳内が混乱していることの表現。以下はリア本人の言葉。
風よ、吹け、貴様の頬が裂けるまで! 吹け! 吹き荒れろ!
豪雨よ、竜巻よ、ほとばしれ!
そびえる塔を水没させ、風見の鶏を飲み込め!
稲妻よ、電光石火の硫黄の火、
柏の大木をつんざく落雷の先触れよ、
この白髪頭を焼き焦がせ!
天地を揺るがす雷よ
all-shaking thunder
地球の丸い腹を真っ平らに叩きつぶせ!
この作品では、ケントやグロスター、道化や三人の娘たちが場面によってリアのシャドウ・鏡像として、リアの心情を投影していきます。リアが騎士の言ったことについて「お前は私が感じていたことを思い出させてくれたにすぎない」(47)というのはこれを端的に示す言葉で、上記の紳士も同じ。紳士とリアがほぼ同じことを繰り返しているのも、リアの心が引き裂かれていることの表現なのだと思う。
嵐が巻き起こす大波や強風、雷によって白髪頭=心が弄ばれ、天地が揺らぐイメージに、shakeという言葉が使われていますね。嵐の荒野に海のイメージが入っているのは、『ハムレット』読解でも述べた通り、シェイクスピア作品において、未熟者は波に翻弄される魚や船乗りに例えられるから。『リア王』の海については別の記事でまとめます。
1-3 風見鶏
別の場面には以下のような表現があります。
はいもいいえもご主人の風向き次第、
風見鶏のくちばし同様くるくる変わる。
右も左もわからぬままに尻尾を振って付いて行く。
そのこわばった癲癇面、疫病に取り付かれろ!
俺の話ににやにやしやがって、俺は阿呆か?
鵞鳥め、セアラムの平野で貴様をとっ捕まえたら
ガアガア鳴かせてキャメロットへ追い返してやる
これはケントが、ゴネリルの下劣な臣下オズワルドを罵る言葉。上記の「風見鶏」には注釈がついていて、「原文ではカワセミのくちばし。カワセミを吊り下げておくと、風の方向にくちばしを向けると信じられていた」とのこと。以下は先に引用した、嵐の荒野で狂気のリアがひとり叫ぶセリフ。
そびえる塔を水没させ、風見の鶏を飲み込め!
Till you have drenched our steeples, drowned the cocks.
風見鶏のように、周囲からの圧力に揺さぶられて自分の意見をころころ変える人は、シェイクスピア作品では浅はかな愚か者。塔は愚か者が天に挑もうとするバベルの塔を連想させますね。リアはここで、ゴネリルとリーガンを自分に歯向かう傲慢な者、風向きによって態度を変える風見鶏に例えて怒り、罰を与えよといっています。以下もリアが娘たちを呪う言葉。
震えおののけ、恥知らずな卑劣漢
Tremble, thou wretch,
卑怯者、震えに震え、五体がばらばらになってしまえ
Caitiff, to pieces shake,
身体がばらばらになるという表現には、豊饒神話における象徴的な死のイメージがあるという解釈については、『ハムレット』読解で述べたとおり。未熟者はいちど死に、身体がばらばらになるという試練を経て再生することで、成長できるという考え方があります。ここではそれが、恐ろしい呪いの言葉として語られる。そこに、tremble、shakeといった震えを意味する言葉が使われています。
1-4 風を抱きしめて
荒野で王と別れた後、エドガーは独り以下のように呟きます。
人生の悲哀は絶頂からの転落にある
最悪の状況から帰るところは笑いしかない。だとすれば、
風よ、お前を歓んで抱きしめよう。
お前に吹き飛ばされてどん底まで落ちた惨めな俺だが、
どれほど吹きまくってももう怖くはない。
エドガーはグロスターの嫡子として何不自由なく生きてきた上流階級の青年。ですが庶子であるエドマンドの策略によって邸を追い出され、狂った乞食の振りをして荒野を彷徨う身となってしまった。自分は何も悪いことをしていないのに、突然の突風、外部からの悪意ある攻撃によって悲惨な状況へと転落してしまう。己の惨めな状況を、王座から転落し、狂気に陥ったリアの姿を鏡映しに見て、もはや笑うしかないと悟る。そして、どん底に落ちた苦境のなかで、こうなったら悪意ある風さえ抱きしめて進むしかないのだと腹をくくる。苦難に負けない強さを手にします。
これ、前回読んだ村上春樹の綱渡り師の言葉にも似ていますね。
風は意思を持っている(中略)風はひとつのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。(中略)それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく
(166)
風が私を包み、私を揺さぶります。風が私というものを理解します。同時に、私は風を理解します。そして私たちはお互いを受け入れ、ともに生きていくことに決めるのです。(177)
外部から吹き付けて心身を揺さぶる風に、抗うのではなく受け入れてこそ、二つの高層ビルの間に渡された一本のワイヤーの上を渡り切ることができる。それは、困難に満ちた予測不可能な人生を、いかに渡り切るかについての教えなのかもしれません。
下記の『ハムレット』読解で、フォーティンブラス、相手を赦し抱きしめられる強い腕こそが聖杯なのだと述べました。エドガーがいっているのも同じですね。エドマンドのような悪を憎むのではなく、自分よりエドマンドを信じた父を恨むのではなく、苦難を受容して乗り越えようとする意志を持つこと。この直前には、エドガー自身がかつての自分は未熟だったと認めるセリフもあります。過去の自分の愚かさや弱さを認めて受容することもまた、風を抱きしめることの一部に含まれるのでしょう。試練を潜り抜けることで、風を抱きしめられる強い腕=強い心を持てたからこそ、この後エドガーは、両目を失った父グロスターと再会したとき、和解できるのではないでしょうか。
外からの圧力によって心が揺さぶられやすいのは愚か者。もちろん、自分ではどうにもならない不運やめぐりあわせによって心が揺さぶられることはあるけれど、それをどう受け入れ、いかに乗り越えていくかが成長のポイント。『リア王』では、嵐や強風を通して、そんなテーマが語られているように思います。
1-5 国務を振り落とす
物語の序盤、リアが娘たちに領土と権力を分け与えることに決めたと宣言する場面で、王は以下のような言い方をします。
煩わしい国務はすべてこの老体から振り落とし、
若い世代の力に委ね
To shake all cares and business from our age,
Conferring them on younger strengths
私はいま、権力、
領土、煩わしい政務という衣一切を脱ぎ捨てるつもりだ
Since now we will divest us both of rule,
Interest of territory, cares of state
国務を譲り渡す、放棄することを伝えるのに〈shake 振り落とす〉という言葉を使うのは、やはり独特だと思う。後半に使われている〈divest〉には、義務などを取り除く、信念などを捨てるの他に、服を脱がせるという意味もあるんですね。これが『リア王』で複数回描かれている、服を脱ぐという行為と結びついていきます。
1-6 服を脱ぐ
リアは、嵐の荒野で乞食のなりをしたエドガーと出会う。「派手な衣装は欲しがるな。寒いよ、トムは」(134)といいながら、粗末な身なりで震えるエドガーを見て、リアも「人間、衣装を剥ぎ取れば、お前のように哀れな、赤裸の、二本脚の動物にすぎない。脱げ、脱げ、こんな借り物!おい、ボタンをはずせ」(135)と着ているものを無理やり脱ごうとします。
エドガーと別れたあと、狂気のリアは身につけていた服を脱ぎ、植物で出来た王冠を被り、草木を身にまとう。「仕立屋が人間を作る?」(83)という言葉のとおり、シェイクスピア作品では、身にまとっている服がその人の地位やアイデンティティを示します。リアが身につけていた王冠や服は、リアが王であることの象徴で、リアが服を脱ぐ行為は、彼が王位を追われたことを意味する。エドガーの「昔はお仕着せ三着とシャツを六枚持ってたし」(137)という言葉は、今はそれを失ったリアとエドガーの境遇を暗示するものですね。長年王として生きてきたリアは、王ではなくなったことで、同時に自分自身をも見失ってしまう。これが、「俺は誰だ?」というリアの問い、リアの自分探しのテーマへと結びついていく。
さらに、死の間際、リアは「頼む、このボタンをはずしてくれ」(246)といって果てる。嵐の荒野で服を脱いで植物を纏うことが、王ではなくなったこと、狂気へ足を踏み入れたことの表現だとしたら、死の間際に服を脱ぐのは、人間としての生を終え、死者になること、自然に還ることを意味するのだと思う。
下記で、前半にある「ああ、リア、リア、リア! O Lear, Lear, Lear!」というセリフと、終盤にある「咆えろ、咆えろ、咆えろ! おお! Howl, howl, howl! O」というセリフが鏡像関係になっているのではないか、「O ああ/おお」という感嘆詞は地獄の口であり、前半の「O」で地獄の口が開き、リアは嵐の荒野へ旅にでて、地獄めぐりをする。これは此岸と彼岸、正気と狂気に半分ずつ足を踏み入れたあわいのひととき。後半の「O」で本当の冥界の口が開き、死の世界へ導かれるのではないかと述べました。リアが二度、荒野と死の間際にボタンをはずせといい、服を脱ごうとするのもこれに呼応していますね。
1-7 包帯としての法服・マント・毛布
また、荒野でリアはエドガーに「法服をまとった判事殿」(145)「ペルシャ風と言いたいのだろうが、着替えてもらうぞ」(147)という。このセリフには注釈がついていて、「エドガーがたった一枚の布を纏っているのがリアにはペルシャ風のマントに見えるのだろう」とのこと。ペルシャ風という言葉は手織りの壁掛けや絨毯のような、豪華なマントを思わせますね。『ハムレット』読解で述べた通り、縦と横の糸で編まれた壁掛けや絨毯はひとつの世界観の象徴。乞食が纏うあさましい布が、豪華なペルシャ風のマントや、地位の高い法曹が纏う服と重ねられる表現には、貧富の価値の反転、あるいは対立物の一致の思想も読み取れます。
後半では、コーディリアがリアの「お召しものは?」と問い、紳士が「お着替えをすませました。新しい服をお召しです」(208)と着替えを気にしますね。シェイクスピア作品の基本にオシリス神話や聖書のイエス・キリストの受難のイメージがあることは以下で述べました。この文脈では主人公は神話の英雄オシリスと重ねられる。そして、女神は傷ついたり象徴的に死んだりした英雄を布や包帯で包み込み、癒して再生へ導くイシスと重ねられます。コーディリアが「妙薬がわたし(コーディリア)の唇にやどり、この口づけで、/二人の姉が貴いお父様に加えた深い傷が/癒えますよう!」(208)というのはその表現ですね。
『リア王』において、コーディリアは、リアの傷を癒す女神イシスの役割を担っている。だから彼女はフランス軍のテントにリアをかくまい、リアの着替えを気にかけるのだと思う。『アントニーとクレオパトラ』でクレオパトラがアントニーの着替えを手伝うのと同じ。『リア王』の法服もペルシャ風のマントも、道化が「毛布一枚は取っといた」(133)という毛布も、リアやエドガーの傷を癒すイシスの包帯のイメージへと結びつくように思います。コーディリアはケントにも「着替えをなさい」「脱ぎ捨てて」(206)とすすめるのですが、ケントは断る。これはケントの正体が明かされるのはもう少し後であるべきだから。
『アントニーとクレオパトラ』では着替えが蛇の脱皮と結びついており、脱皮は宗教的には精神の変容の象徴ともいわれます。『リア王』でリアが王という身分を振り捨て、植物を纏って野生へ還り、自分は誰なのかをもう一度見つめ直す。この精神的な変化と成長が、服を脱ぎ着する行為で表現されていく。そこに、職務をshake振り落とすイメージが重ねられています。
1-8 恐怖と寒さの震え
王というアイデンティティを振るい落とすことが、服を脱ぐことで表され、これが人間らしい理性をなくして野生へ還ること、狂気へおちいることへと結びつく。『リア王』ではこれがさらに、恐怖や寒さによる震えとも重ねられています。
荒野で狂人の振りをするエドガーは「しっしっ! 悪魔が追っかけてくる! 棘だらけのサンザシの茂み、冷たい風が吹き抜ける。ぶるる! 寝床にもぐってあったまってな」(132)という。棘に刺されて血を流すのもシェイクスピア作品にしばしば登場する、主人公が心に傷を負うことの表現。冷たい風は前述のとおりで、これが悪魔にとりつかれるイメージとつながる。
道化の「冬はまだまだ居座るな」(97)は注釈によれば「状況はますます悪くなるということ」。エドガーはさらに、「寒いよ、トムは。おお! ぶる、ぶる、ぶる。O, do de, do de, do de あんたもどうかつむじ風に当たったり(中略)悪魔にとっつかれたりしませんように!」(133)とつづけます。注釈によれば、寒さによる震えを表す擬声語。歯がガチガチいう音を表しているのかもしれない、とのこと。ここでも風と寒さによる震えが、悪魔にとりつかれることと重ねられています。さらに、「こんな寒い晩は、みんな阿呆か気違いになるんだな」(134)というセリフで、震えが精神的な狂気とも結びつく。先に述べた「毛布一枚」はこの寒さから身を守るアイテムですね。
これが「可愛がっていた犬までが、寄ってたかって、/トレイ、ブランチ、スウィートハート、見ろ、吠えかかってくる。(中略)キャンキャン悲鳴を上げながら/垣根を越えて逃げていく。/ブル、ブル、ブルDo de, de, de.」(147)とも対になる。この犬たちが心の奥深くに秘めた本音や悪魔と重ねられることは、以下で考察した通り。
オールバニーは、ゴネリルとリーガンが因果応報的に死んだことを聞いて「これが天の裁きだ、恐ろしさに震えおののきはするが/憐みの情は起こらない This judgment of the heavens, that makes us tremble, Touches us not with pity.」(240)という。これから国を任されるオールバニーも完ぺきではなく、人智の及ばない天の采配には恐れをなしている。ここにも震えおののくtrembleがありますね。
1-9 余分なものを振り捨てる
嵐の荒野を彷徨うリアは、乞食の振りをしたエドガーが身を寄せる小屋にたどり着く。そこで王は、貧しいものを憐れんで以下のようにいう。
今日まで俺は
こういうことにあまりにも無関心だった。栄華に奢る者にはいい薬だ。
悲惨な者たちが感じていることを、生身をさらして感じ取れ。
そうすれば余分なものは振り捨て、貧乏人に分け与え、
神々の正しさを世に示すことになる。
That thou may’st shake the superflux to them
And show the heavens more just.
自ら王権や領地を手放すと宣言し、娘たちに騙されて王冠を奪われ、宮廷を追われ、何もかもを失ったリアは、はじめてこれまで自分が誇ってきた栄華が奢りだったのだと気づく。これまで見てきたきらびやかな宮廷生活は、世界のほんの一部であり、貧しい者の暮らしに関心を持ってこなかったことに思い至る。
これまで自分が当たり前だと思ってきたこと、豪華な衣服や贅沢な暮らし、財産や領地、王としての権力を〈余分なものsuperflux〉といい、これを〈振り捨てshake〉、持たざる者へ分け与えることで、世を正せると考える。それが服を脱いで生身を世界にさらして感じ取る、という行為と結びついていく。
以前、リアは今まで心の中に築いてきた価値観が娘の裏切りによってゼロになった後、嵐の荒野に出て、いちから世界の成り立ちを学んでいるのだと述べました(詳細[シェイクスピア『リア王 King Lear』はlearnしきれなかった王?](上記リンク)参照)。
とするなら、序盤からリアがshake振り落とす、脱ぎ捨てると繰り返し言及しているのは、王としての役割に加え、自分がいままで身につけてきた知識や知恵、心の中に蓄積してきた考え方やものの見方(これも『リア王』の重要なテーマですよね)価値観や世界観そのもののこと、ともいえるかもしれない。まずは身につけてしまった中途半端な規範を捨てる、本作のキーワードであるnothingに戻るところから、リアの新しい学びがはじまるのだと思うのです。
1-10 苦しみを振るい落とす
この戯曲で、リアと鏡像関係にあるグロスターもまた、性悪な息子エドマンドを信じて心優しい息子エドガーを追い出してしまい、後に己の過ちに気づいたうえ、リーガンらに両目をえぐられるという仕打ちを受け、絶望の底にあります。もう自分には生きる資格もない、ドーヴァーの崖から飛び降りようと考えて、目から血を流しながら荒野を彷徨う。いよいよ崖にたどり着いて、飛び降りようとする際、以下のようにいいます。
ああ、全能の神々よ!
私はこの世を棄て、御前にぬかずき
大いなる苦しみを心静かに振り落とします。
O you mighty gods!
This world I do renounce, and in your sights
Shake patiently my great affliction off.
ここでは苦しみを振り落とす、という意味でshakeが使われていますね。このあとグロスターは死ぬ覚悟で飛び降りる。けれど実は、途中で会ったエドガーが目の見えないグロスターにさほど段差のない場所から飛び降りさせただけ。グロスターは崖から飛び降りたあと、自分が生きていることに驚く。エドガーはグロスターが飛び降りたあと、別人の振りをして駆け寄り「本当に死んでしまうかもしれない。いや、息を吹き返された」「命があるのは奇跡だ」(189)と呼びかけます。ここには神話的な死と再生のテーマが読み取れる。苦しみを振り落として、いちど象徴的に死ぬ。試練を経て蘇ることで、苦しみが浄化されて、新しい人生がはじまる。グロスターの人生において最大の試練がshakeという言葉で表現されています。
1-11 心を粉々に砕く
以下はエドマンドがグロスターにいう言葉。
父上の名誉に大きな傷がつき、親思いの兄上の心を粉々に砕いてしまう。
it would make a great gap in your own
honor and shake in pieces the heart of his obedience.
ここでは、心が傷つき粉々になるイメージにshakeが使われています。上記のグロスターの死と再生のイメージとあわせるなら、粉々になるのは、『ハムレット』読解で見た豊饒神話で、神話の英雄が切り刻まれて、生贄として大地に撒かれるイメージにも結びつくように思います。
1-12 浄化としてのshake
以下はフランスにいるコーディリアの嘆き。
星のような目からあふれる聖水で
激しいお嘆きを清め鎮め
There she shook
The holy water from her heavenly eyes,
涙の聖水を流して、振るい清めた。ここではshakeが非常に分かりやすい浄化のイメージとともに使われています。
[シェイクスピア『リア王 King Lear』はlearnしきれなかった王?](上記リンク)で、グロスターやリアの苦しみの根本には、彼らが身につけ、娘ゴネリルやリーガン、息子エドマンドらに受け継がれた世俗的な浅知恵があると述べました。愛情よりも損得勘定を優先するような価値観が、グロスターやリアを苦しめる元凶。リアは中途半端にしか学ぶことができなかった王であり、娘に裏切られ、既存の価値観がすべて崩壊したところから、リアの本当の学びがはじまります。荒野でグロスターに会った狂気のリアは、以下のようにいいますね。
我々は泣きながらここへやってきた。
知っているな、生まれて初めて空気を吸うと、
おぎゃあおぎゃあと泣くものだ(略)
生まれ落ちると泣くのはな、この阿呆の檜舞台に
引き出されたのが悲しいからだ。
ここには、中途半端なlearningで浅はかな知恵や知識だけを身につけ、損得勘定に囚われながら生きる苦しみ、そのことに老齢になって気づく絶望と、象徴的に死んで生まれ変わることへの希望、精神的な再生への願いが込められているようにも思える。『リア王』の〈shake 震える〉には、この苦しみの元凶、世の中を要領よく賢く、自分が少しでも得するように立ち回りたいという気持ち、登場人物たちの中にある世俗的な考え方や悪魔的な発想を浄化する、根本から揺さぶって、いったんリセットするような意味があると思うのです。
ここまで見てきたことをまとめると、『リア王』においては、強風に揺さぶられること、恐怖や寒さで震えることが、悪魔的な考えに震えることや、外からの悪意に心が動揺することと結びつく。同時に、王としての職務や責任を振るい落とすこと、これまで身につけてきた知識や価値観を振り捨てること、苦しみから解放されること、悲しみを浄化することも、shakeという言葉で語られる。それが服を脱ぐこと、人間的な理性を手放して野生へ還るイメージへと結びつく。最後には善悪の区別を超えて、服を着るといった人としてごく当たり前の知恵や常識のようなものまでも、すべて振るい落として死んでいく。生まれる前の世界へ還っていくような感覚がある。
戯曲の最後はリアの死で終わりますが、先に見た、グロスターの飛び降りの場面や心が粉々になるという表現、生まれたばかりの赤ん坊が泣き叫ぶイメージは、神話的な死と再生の考え方とも重ねられます。未熟者が悪や欲、弱さや汚れ、悲しみや苦しみなど負の感情にとりつかれ、試練を経て、負の感情を浄化し、象徴的に死んで再生、成長するというのが神話の典型的なストーリー。shakeをはじめとした心身の震えは、『リア王』において、未熟者を象徴的な死へと導くキーワードとして使われているように思います。
1-13 常識を揺さぶるshake
以下はリーガンがグロスターの目をえぐれと命じるのを、召使いの一人が止めに入るときのセリフ。いくらあなたがご主人様で、私が召使いという立場でも、主人がそんなむごいことをしようとすれば、人として心を持った者ならば、主人に逆らってでも止めに入らないわけにはいきません、という気持ちが込められた言葉。
もしもあなた(リーガン)が顎に髭を生やした男なら、
それを掴んで揺さぶってやるのに。
If you did wear a beard upon your chin,
I’d shake it on this quarrel
上記はいつも引用しているちくま文庫の訳とは違い、直訳したものですが、本稿ではこちらの解釈を取りたい。『リア王』では、ゴネリルが夫オールバニーに「私はここで武器の取り換えっこをしなくては。夫の手には/糸巻き棒を持ってもらう」(168)という場面が有名ですよね。伝統的に糸巻き棒は女性の仕事や家庭内の役割を象徴する道具であり、ここでは糸巻き棒を夫に渡して、妻が代わりに武器を取って戦争をすると宣言することで、夫婦間の権力関係や男女の役割を逆転しようとしているというのが一般的な解釈。シェイクスピア作品は、重要なモチーフやイメージが二度ずつ描きこまれて、対句や鏡像関係が作られていることが多い。上記の髭のセリフもこの意味にとることで、男女の役割の逆転と融合のテーマが、ゴネリルとリーガン姉妹で対になり自然かと思う。
ここまで見てきた内容と照らし合わせれば、ここでのshakeは、リーガンの中にある悪魔的な性質を揺さぶって懲らしめ、浄化してやる、リーガンの中から追い出してやるという意味で解釈できますね。リーガンがグロスターの目をえぐれと命じる、そんなひどい悪魔的な所業を、何の悪気もなく涼しい顔で行ってしまうのは、自分が王の娘であり、今や権力も領土も手に入れて、この国で自分に逆らえる者は誰もおらず、身分が下のグロスターを拷問しても構わないという奢りのせい。その根本には、身分や権力、財産などで人の上下を決めようとする間違った価値観がある。髭を掴んで揺さぶることで、その間違った考え方、浅はかな知恵や知識、中途半端なlearningをshake振るい落としてしまいたいという気持ちが込められていると解釈できます。
さらに、女性であるリーガンに髭があったら、というあえて奇妙な言い方をすることで、男女の性別という考え方、世間の常識にも揺さぶりをかけている。『リア王』には、道化がリアに「あんたが娘二人をお袋にしちまってからさ」(54)というように、三人の娘が母に、父リアが息子に、親子関係が反転するイメージも出てきますね。また、王として栄華を極めたリアが、狂気の乞食へと転落するという現象も貴賤や貧富の反転や一致のテーマといえるでしょう。男女、親子、生死、聖俗、善悪、貴賤、貧富といった、いつもあたりまえだと思っている社会通念や一般的な認識をひっくり返し、リセットするために、あえて違和感のある表現を使うということを、シェイクスピアはときどき行う。
これはシェイクスピアの発明ではなく、神話として太古から語られているテーマ。例えば『リア王』や『ハムレット』と重なる部分も多い『オイディプス王』に登場する予言者ティーレシアスも、男女両方の性別を経験した者として語られていますよね。ソポクレス版『オイディプス王』の後日譚「アンティゴネ」には、男性が女性に「私が男とはいえまい、この娘こそ男だろうよ」(『ギリシャ悲劇Ⅱ』ちくま文庫_174)というセリフがあり、『リア王』の男女の役割の交換の考え方と近い。神話には両性具有のキャラクターも少なくない。
太古から、世間の常識や、一般に信じられている価値観、凝り固まった思考に揺さぶりをかけ、再考を促すのが神話の役割。その例として性別の反転や融合が使われることも多い。シェイクスピアはその伝統を受け継ぎ、観客が違和感を抱くような表現をあえて入れているのではないかと思う。なぜ、女性のリーガンに髭があったらという変な言い方がされるのだろう? そんな疑問について、両眼をえぐられたグロスターのように、目には見えない領域に立ち返って考えなおせと促しているのではないでしょうか。この場面のshakeはリーガンを通して、観客の心まで揺さぶるという意味へと結びついていく。舞台を観た人、物語を読んだ人の心を揺さぶり、驚かせ、感動させて価値観を塗りかえる。太古から伝えられてきた神話の役割、作者が戯曲を通して表現したいこと。シェイクスピア作品におけるshakeは、物語るという行為の根幹にかかわる言葉だと思うのです。
1-14 再生の震え
寒さや恐れ、役割や常識、悪魔的な考えや悲しみ、苦しみなどを振るい落として浄化する意味で使われ、死と再生のテーマにもつながる震えは、物語の終盤、下記の記述へと結びつきます。リアがコーディリアの亡骸の口元に鏡をあてて、以下のように叫ぶ。
羽根が震えた。生きている! もしそうなら、
今日までなめてきた辛い思いの数々が
すべて一度に償われる。
This feather stirs. She lives. If it be so,
It is a chance which does redeem all sorrows
That ever I have felt.
shakeよりももっと微かな、羽根のstir震え。震えるのは生きていることの証でもある。楽しみ、喜び、苦しみ、悲しみ、怒り、良いことにも悪いことにも、心や身体を震わせること、呼吸をして空気を震わせることが、生きるということと結びつく。リアはこのあと、コーディリアの死を認識し、絶望のうちに死ぬ。リアはコーディリアが生きていると思い込んだまま死ぬという解釈もあるようですが、私はリアはコーディリアの死を悟っていると思う。けれど同時に、リアの上記のセリフの深層には、死の後により良い形での再生が待っているという神話的発想があるとも思う。コーディリア、リアは絶望のうちに死んでしまう。これは悲劇で、死んだ者はもちろん生き返らない。けれど、それを見た観客、戯曲を読んだ読者の世界観は揺さぶられ、更新される。そこから新しい希望が生まれる。この作品の随所に、再生のイメージが散りばめられているのは、そのためではないでしょうか。
コーディリアはリアの娘であり、比喩的にはリアの阿呆、象徴的母、女神など、場面によりさまざまな役割が与えられていますが、荒野から救出され、フランス軍のテントにかくまわれたときには、リアはコーディリアに対し、「お前は天国の聖霊だな。Thou art a soul in bliss」(209)「聖霊だ、分かっている You are a spirit, I know.」(210)といいます。上記の「羽根」というのはこの聖霊のイメージで、聖書のイエス・キリストの受難のエピソードでは、三位一体と復活を実現させる者であり、命の息吹、呼吸を象徴する存在です。
1-15 振るい落としたものを背負う
『リア王』は、リアをはじめとする登場人物たちが、中途半端なlearning学習の成果、王としての地位やプライド、浅はかな知恵や世俗的な価値観、悪意や恐怖、愚かさや弱さ、苦悩のもととなる考え方、人間としての理性さえをも、振るい落としていく物語。最終的にはそれらを身につけたまま、浄化のための生贄として、リアやコーディリア、ゴネリルやリーガン、コーンウォールやエドマンドは亡くなる。
だけれど、呼吸すれば聖霊の羽根が震えるように、生きることは震えること。前回、村上春樹の「日々移動する腎臓のかたちをした石」でも考察したように、生きている限り、外からは常にさまざまな風が吹きつける。ときには心地よいそよ風として、ときには悪意に満ちた強風として、私たちの心身を揺さぶり、かき乱す。風に吹かれず、何にも震えず、揺らがずにいることは不可能。同時に、息をし、歩き、身体を曲げ、言葉を話したり歌ったりすることで、私たちもまた、つねに風をおこし、周囲の空気を、何かを、誰かを震わせている。物理的にも、精神的にも。生きるとは、周囲の人々や物事と互いに震わせあうこと。
だから、コーディリアのように頑なすぎる心でいたら、ガラスのように、ほんの少しの衝撃で、脆く崩れて粉々になってしまう(『尺には尺を』のガラス、サリンジャーが描いたシーモア・グラスについては以下ご参照ください)。
外部からの風を『リア王』のエドガーや「日々移動する腎臓のかたちをした石」のキリエのように受け止め、両腕で抱きしめ、風と一体となって、しなやかに、柔軟に、前に進んでいくしかない。それが出来るようになることが成熟だというのが神話の教えであり、シェイクスピアが表現しようとしたことではないかと思う。
リア亡きあと、この戯曲の最後は以下のような言葉で締めくくられます。
この悲しい時代の重荷は、我々が背負って行かねばならない。
言うべきことではなく、感じたままを語り合おう。
The weight of this sad time we must obey,
Speak what we feel, not what we ought to say.
注釈によれば、版によってエドガーまたはオールバニーのセリフとされているそうで、いずれにせよ次世代を担う者が最後にこれをいうのが重要なのですね。物語を通してリアやグロスターら年長者が振るい落としてきたものを、最後にこれからの時代を生き、創り上げていく若者がすべて背負う覚悟を見せる。ここには希望と皮肉の両方の意味を読み取りたい。良くも悪くも生きている以上、さまざまな重荷を背負っては振るい落とし、また別のものを背負うことを繰り返すしかない。できるだけ悪いものは振るい落とし、正しいものを背負うべきだけれど、それがなかなか難しい。
「言うべきこと」というのは、物語のはじめに、ゴネリルとリーガンが父王から財産や権力を奪うため、おべっかをいって取り入ったときの言葉のこと。世俗的な価値観の操り人形になって(『ハムレット』読解参照)、learning学習によって習得した浅知恵に基づいて、言うべきだとされていることを口にするということ。「感じたまま」というのは、コーディリアが父を心配し、真心から話したこと。一人ひとりが自分の良心に照らして、心の奥深くから納得したことを語るということ。本作における一連の悲劇のおおもとは、世俗的な損得勘定から「言うべきこと」をいった者たちの浅はかさ。場の空気を読んだという意味では、正当化されかねないような振る舞いだけれど、それが不幸のもとになることもある。表面的な正解を求めるのではなく、思いやりや愛情のような感覚を大切にするべきだというのが、この戯曲の教訓のひとつ。
解説するとあまりに陳腐だけれど、これはシェイクスピア作品で一貫して語られていること。learn学習すればするほど、人は感情ではなく理屈でものを考え行動し始める。これが悲劇につながることもある。浅はかな知恵は振るい落として、心の奥底にある感覚を大切にしながら、本当に学ぶべきことを学ばなければならない。そんなことが語られているのではないかと思います。
前半はここまで。後半は他の作品のshakeについて考察します。後半もぜひご覧ください。
シェイクスピア『ハムレット』読解はこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん/アンクル・ウィギリー」読解はこちらから。ぜひご覧ください。
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