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05_シェイクスピア『ハムレット』解釈:したい放題するヘラクレスとは?

Q. したい放題するヘラクレスとは?
シェイクスピアの『ハムレット』の後半、もともとは義兄弟のような関係でありながら、悲劇的な展開によって敵となったレアティーズを前に、ハムレットは以下のようにいいます。

ヘラクレスにはしたい放題させておけ。
猫はニャーニャー、犬はワンワン、そのうちいい目も見るだろう
Let Hercules himself do what he may,
The cat will mew, and dog will have his day.

(242)

ちくま文庫の注釈には「ヘラクレスをハムレット自身に見立てるかレアティーズに見立てるかで解釈は二分される」「いずれにしろ謎めいた台詞」とあります。今回はこのセリフの意味を考察してみたいと思います。

本稿の解釈はこう。
A. ハムレットの鏡像=レアティーズのこと。
  分身がしたい放題するとき、ハムレットは破滅する。

以下に理由を述べます。




シェイクスピア『ハムレット』読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。

1 狂気に陥ることは、獣になること

『冬物語』には以下のような表現があります。

神々だって
恋に落ちるときは身を落として
けだものの姿をおとりになった。ジュピターは
雄牛になってモーモー鳴いたし、紺碧の神ネプチューンは
羊になってメエメエ鳴いた。炎の衣をまとった
金色の太陽神アポロは、いまの僕と同じように
貧しく卑しい農夫に身をやつした

(132)

『トロイラスとクレシダ』でも喧嘩の相手を、犬(67)雌オオカミ、じゃじゃ馬(67)ヤマアラシ(68)ロバ、駄馬、ラクダ(69)とののしり、あるいは、阿呆なロバ、雄牛、犬、猫、イタチ、ヒキガエル、トカゲ、フクロウ、トンビ、しらこ抜きのニシン(208)に変えられても、惨めなメネラオスにだけはなりたくないという。
 
神話の神さまや人間が、恋や戦争などにより、正気を失って狂気に陥ることが、動物に変身することに例えられるんですね。狂気に陥ることは、人間的に考え行動するちからを失って、獣になること。理性的に物事を判断する能力を失って、本能優位になること。他のシェイクスピア作品でも、人が動物になるイメージが多出しますが、基本的にはこの文脈で読み取っていいと思う。オウィディウスの『変身物語』の影響とされる、神話から受け継がれた伝統的な表現のようです。古くから儀式・祭祀で獣の真似をして踊ったり歌ったりされてきたこととも結びついているでしょう。カーニバル化することは獣になることなわけです。
 
垂れ耳のスパニエルになることは、自分の都合の悪い現実の音、事象に耳や目をふさぐことなのだという解釈については以下で述べました。これも獣になることのひとつの例ですね。

2 狂気の世界で犬は吠え、猫は鳴く

『テンペスト』では、精霊エアリエルによって音楽が奏でられるのが、カーニバルのはじまりの合図。これを聞いた者たちは、みな正気を失って、狂気の世界へ引き込まれていきます。それと同時に「あちこちから囃し声」というト書きとともに「ワンワンワン/番犬たちが吠えている/ワンワンワン」(42)と犬の鳴き声が聞こえてくる。
 
「決して人間業ではない、あの調べも/この世のものではない」(44)「この島はいろんな音や、いい音色や歌でいっぱいなんだ、楽しいだけで害はない、/ときには、何千もの楽器の糸を弾くような調べが/耳元に響く。ときには歌声が聞こえてきて、/ぐっすり眠ったあとでも/また眠くなったりする。そのまま夢を見ると(略)目が覚めたときは/夢の続きが見たくて泣いたもんだ」(106)と語られるように、それは現実ではなく、夢の世界、虚構世界にだけ響く音。それは、お酒による酩酊とも結びついていて、「飲めば猫でも口をきくってしろものだ、にゃあ」(81)という言い方もされています。
 
シェイクスピア作品においては、夢を見ること、酩酊することもまた、正気を失って狂気に陥ること、カーニバルに引き込まれること、日常を離れて、非日常化することと結びつく。『ハムレット』には、光と闇のパラレルワールドの感覚があって、それが〈黙劇〉の意味を理解するハムレットと、理解できないクローディアスの対比で描かれているのだという解釈については、以下でも述べました。この光と闇のパラレルワールドが、正気と狂気、現実と虚構(夢)、此岸と彼岸の並行世界と重なりあう。狂気に陥ると、闇に堕ちて。犬の吠える声が聞こえ、猫が口をききはじめるんですね。

3 『リア王』本音をいう犬、悪魔の猫

『リア王』にも熊や虎といった動物のイメージが多出します。それが、リアをはじめとする登場人物たちの狂気を表現していくわけですね。そして、この作品でも犬と猫がとりわけ印象的な描かれ方をしています。
 
エドマンドの策略によって、宮廷を追われ、乞食のような身なりで嵐の荒野を彷徨い、気違いの振りをしているエドガーは、「悪魔が俺の背中に噛みつくんだ」(144)「悪魔のホップダンスが、生ま鰊を二匹くれってトムのお腹で喚いてる。ゴロゴロ言うな、黒悪魔」「化け猫がゴロゴロ喉を鳴らしてる」(145)とつぶやきます。上記の『トロイラスとクレシダ』の引用にも出てきましたが、鰊を食べて息が臭くなるのは、腹の中に地獄を抱えていることの表現。『十二夜』でも使われていますね(詳しくはサリンジャーの『キャッチャー』読解参照)。『リア王』では、背中に悪魔が取り付いているイメージ、腹の中が地獄と化しているイメージ、身体の中に化け猫がいるイメージが重なりあいます。ここでは、猫は悪魔の表象なのですね。
 
さらにこの後、狂気のリアは荒野の小屋で、エドガーを判事に見立て、空想の中で自分を裏切った長女ゴネリルを召喚し、彼女を罰する裁判の茶番劇を繰り広げます。そこでリアが「可愛がっていた犬までが、寄ってたかって、/トレイ、ブランチ、スウィートハート、見ろ、吠えかかってくる」といい、娘の裏切りを飼い犬に手を噛まれることに例えてみせる。これにエドガーは以下のように応じます。

野良犬め、寄るな!
 鼻面黒でも白くても
 噛めば牙には毒がある。
 番犬、猟犬、雑種犬、
 大型、小型、雌に雄、
 尻尾を切ったやつ、巻いたやつ、
 トムが頭突きを食らわせば
 キャンキャン悲鳴を上げながら
 垣根を越えて逃げていく。
ブル、ブル、ブル。さあ! さっさと出かけよう。村祭りへ、市へ、町の市場へ。

(147)

実はこの前に、エドガーが「悪魔のフリバーティジベット」(136)「スマルキン! 悪魔め」(137)「悪魔のフラテレット」(143)と三人の悪魔の名前を挙げるセリフがあります。注釈によれば、上記の猫と語られる「悪魔のホップダンス」とあわせて、シェイクスピアはこれらの悪魔の名前を、別の作家の著作から採ったといわれているとのこと。ホップダンスは猫、他の三人の悪魔は、リアが飼い犬としてあげるトレイ、ブランチ、スウィートハートの三匹と呼応するようにも思えますね。
 
つまり、猫と犬はここで、いずれも人間の心の内側に潜んでいて、狂気の中で顔をのぞかせる悪魔を象徴しているのかもしれない。鼻面黒でも白でも、という表現にある黒は悪、白は純粋さの表現で、これが混ざり合うことも狂気の表現。ブル、ブル、ブル、と震えるのも、弱い者が狂気にとりつかれるしるし。村祭りや市場はカーニバルの言い換えで、日常が非日常化すること、正気が失われて狂気状態になることと同義です。

また別の場面では、オールバニーが、父王リアを裏切り、夫である自分を差し置いて浮気をした性悪な妻ゴネリルに対して、「悪魔は醜いが、その醜さも/女の皮をかぶったときほど恐ろしくはない」(171)といい、ゴネリルは戦争に向かない優男の夫に「まあ、なんて男らしい——ニャーオ!(mew!)」と言い返します。注釈によれば、この猫の鳴き声は、「男らしさも猫なみだ」と相手を馬鹿にする意味とのこと。それと同時に、私はこれも、ゴネリルの中にいる悪魔的な部分が猫の鳴き声として表面に現れていると読めると思うんですね。

さらに別の場面では、本当のことをいった三女コーディリアを追い払い、性悪で嘘つきな長女と次女に裏切られたリアをからかって、リアに「口のきき方に気をつけろ、鞭だぞ」と脅された道化が、「真実ってやつは犬だ。犬小屋に追いやられる、鞭で叩き出される」(50)と憎まれ口をいう。また中盤では、リーガンがグロスターの目をえぐろうとする、その悪魔的な所業を止めようとした忠実な召使いを、リーガンが「犬!」(157)とののしる。いずれも、心のなかに押し殺して黙っているべきだけれど、どうしても我慢できずに口に出てしまう本音が、犬に例えられているんですね。
 
犬には、心の奥深くに隠されている、純粋でまっとうな真実のイメージが重ねられている。対する猫には、狡猾な悪魔のイメージがある。そんな対比がありつつ、犬も猫も、普段は深層心理のなかに隠され、理性の力で抑え込まれていながら、狂気のさなかに表面に浮上し、暴れて場を掻き乱す獣のイメージがあるように思います。

4 『終わりよければすべてよし』猫は自分の中の悪魔

『終わりよければすべてよし』の中心人物のひとりバートラムは、ふだんは伯爵として人々から尊敬を集めている、表面的には立派な好青年。だけれどまだ若く、人を身分など上辺の価値観で判断し、真実が見えない未熟な部分を持っています。彼の付き人として行動を共にするパローレスは、流行の服に身を包み、軍での自身の活躍をことあるごとに大げさに吹聴するなど、浅はかで見栄っ張りな人物。でも内心は小心者で、ひどい嘘つき。敵軍(実は嘘)に捕まると、味方をあっさり裏切って敵に取り入ろうとする、臆病で卑怯なキャラクター。

周りの人々は、バートラムのような好青年が、なぜパローレスのような浅薄な人物をそばに置いているのだろうといぶかしんでいるのですが、パローレスのような人物と付き合っているという事実にこそ、バートラムの未熟さがにじみ出ているという設定になっています。作品の後半、パローレスの浅はかさや罪が露呈して浄化され、改心する姿と、バートラムが真実を悟って成長する姿が呼応することから、パローレスはバートラムの中にある未熟さや負の性質を誇張して見せる、バートラムの影(シャドウ)的な役割を担っていると、私は思うんですね。

そんな作品のなかで、バートラムは、パローレスが自分たち味方の情報を敵に軽々しく暴露する様子を盗み見しながら、「俺はこれまで猫以外のものならなんでも我慢できた、だがいまはあいつ(パローレス)がその猫だ」(160)「ますますあいつは猫だ」(161)「あれはやっぱり猫だ」(162)と繰り返します。別の場面でも、道化のラヴァッチがパローレスについて、「ここに運命の女神のゴロニャンが、ていうか運命の女神の飼い猫が来てます——でも麝香猫じゃありません」(180)という。
 
パローレスの中にある狡さや浅はかさを、バートラムは猫だといって嫌悪し、道化も同じ言葉でからかう。だけれど、バートラムが嫌悪するパローレスの負の要素は、実はバートラム自身の中にもともとあるもの。だからこそ、バートラムはそれを目の当たりにすることを嫌がる。だけれどその苦痛のひとときを通して、自らの過ちに気づいていく。ここでも、猫はバートラムの中にある悪の要素の表現として使われているように思います。

シェイクスピア作品において、犬や猫は、いずれも心の奥深くに押し隠した本音や、悪魔的な欲望の象徴。普段、正気を保っているあいだは、理性の力で押さえつけられ、巧みに隠されているけれど、狂気に陥り、箍がはずれると、とたんに表に出てきて暴れ出す。『ハムレット』で王子がいうニャーニャー鳴く猫、ワンワン吠える犬たちもこれらの犬や猫のイメージと重ねて読めるのではないでしょうか。

これらシェイクスピア作品から影響を受けていると思われるサリンジャー作品の犬と猫の表現については、以下でも考察していますので、ぜひ合わせてご覧ください。

5 父との闘いから、自分との闘いへ

前々回(下記)、『ハムレット』では、ヘラクレス神話を重ねながら、父と息子の対決が描かれているのではないかと述べました。はじめは偉大な英雄ヘラクレスが、偉大な父と重ねられ、ハムレットはヘラクレスに挑むネメアの獅子に例えられる。その後、子供劇団がヘラクレスに表象される大人劇団を倒すという記述を挟んで、若いころの狂気のヘラクレスが、ハムレット王子自身と重ねられていく。

上記でも触れたのですが、一時的に激高して、ポローニアスを殺してしまったことを、ハムレットは以下のように釈明します。

僕はひどい精神錯乱に悩まされてきた。
僕のしたことは
君の父上に対する情愛や名誉をふみにじり、不快感を
掻き立てたことだろう。だがそれはすべて狂気のなせるわざ。
レアティーズに害を加えたのはハムレットか? 決してハムレットではない。
もしもハムレットが正気を奪われ
己をなくした時にレアティーズに害を加えたとすれば
それはハムレットの仕業ではない。ハムレットがそれを否定する。
では誰の仕業か? ハムレットの狂気だ。とすれば
ハムレットも被害者の一人。
彼の狂気は哀れなハムレットの敵だ

(257)

ここでは、ハムレットの心が正気と狂気に分裂し、正気と狂気が敵となって闘い、正気が狂気の被害者になるイメージが示されている。父と息子の対決(象徴的父=先王・クローディアス・ポローニアスと王子の対決)が、ハムレット自身のなかにある正気と狂気の闘いへとスライドしている。それは、ヘラクレスの偉大な英雄としての一面と、若く未熟な一面との対決。ヘラクレスという一人のキャラクターの中にある、強さと弱さ、大人的側面と子供的側面、理性と本能の闘いとも言い換えられると思う。
 
ハムレットははじめ、現王で義父のクローディアスへいかに復讐するかで悩んでいた。敵はクローディアスだった。けれど、ハムレットが現王と間違えてポローニアスを殺し、国外追放になるあたりから、闘いの対象がずれていくんですね。
 
ハムレットに変わって、ポローニアス殺しの犯人を誤解したレアティーズがクローディアスに復讐を試みる。この思い違いによる殺人未遂は、ハムレットが勘違いからポローニアスを殺した出来事の鏡映しとも取れます。ハムレットが狂気と誤解で間違った相手を殺した出来事の繰り返しとして、レアティーズも同じ間違いを犯しそうになる。

このころ、ハムレットは国外追放になって船上にいた。そのときの苦悩を、後に以下のように回想します。

心の中で何かが闘っているようで
まんじりともできなかった。反乱を起こして捕まり
足枷をはめられた水夫より惨めな気分だ
Sir, in my heart there was a kind of fighting
That would not let me sleep. Methought I lay
Worse than the mutines in the bilboes.

(243)

そしてハムレットは「水夫のコートを羽織り」(244)、海賊船に乗り移って帰国したのだという。水夫になるのは魂を彷徨わせること、足枷をはめられるのは、象徴的父(ここではクローディアス)の支配によって自分の思い通りに動けなくなる息子の苦悩を示す表現(詳細下記参照)。

そして、ここではハムレットが自分の心のなかで何かが闘っているといっている点に注目したい。ハムレットは戯曲の序盤から憂鬱に苦しみ、何とか正気を保とうとしながら、復讐のために狂気を演じ続けていた。ハムレットの中では正気と狂気がずっと闘い続けていた。そして、劇中劇を見たクローディアスは怒って席を立った。ハムレットはその後、義父が罪を悔いて神に祈りを捧げている場面を目撃し、クローディアスが先王を殺害したことを確信している。先王の無念を晴らすには復讐すべき。だけれど、人としてそれが本当に正しい行いなのか決めかねて悩んでいる。
 
「To be, or not to be」生きるべきか死ぬべきか、復讐すべきか否か、迷い揺らぐハムレットはここで、自分が闘わなければならない相手が自分の中にいることに気づき始めている。クローディアスを敵とし、復讐をたくらんできたハムレットは、船に乗り、国を離れ、それまで敵だと思っていた人物から距離を置くことで、真の敵が自分の内側にいることに思い至る。自分が倒さなければならないのは、心の奥深くに押し込めていた自分の中の狂気や悪意なのだと悟る。それが上記のような、心のなかで何かが闘っている、ハムレット自身もハムレットの狂気の被害者だといった表現になって現れているのではないでしょうか。

レアティーズがクローディアスに剣を向け、ハムレットと同じ過ちを繰り返そうとしている間、ハムレットは船上で、自分自身との対決をはじめているわけですね。

以下はクローディアスが兄殺しを悔いてつぶやく言葉。

人類最初の罪の呪いを受けて——
兄弟殺し。祈ることもできない。
祈りたいのは山々だが、その強い思いも
さらに大きな罪に打ちのめされ、
同時にふたつの事をしようとする者のように
出発点で立ち尽くし、
どちらも果たせない

(157)

前回、クローディアスもハムレットも、恋人に贈り物をして愛を伝える行動が同じであると述べましたが、上記のように、自分の心のなかで相反する感情が闘っているところも似た者同士。この相反する価値観が心の中で闘っている、葛藤を抱えているというのは、シェイクスピア作品にしばしば見られる言い回し。『尺には尺を』にある以下のセリフにはこれが端的に現れていますね。

いま私のなかでは
「する」と「しない」とが戦っております(59)
こうしたいと思いながら、そうしたくないとも思うのだ(156)

『尺には尺を』

登場人物たちは、相反する感情に揺らぎ迷うことを繰り返すうちに、心が徐々に壊れて、狂気へと陥っていく。未熟者は相反する価値観に心が引き裂かれて分裂し、自分自身と闘うことになる。漫画なんかでときどき、頭のなかに天使と悪魔が出てきて、葛藤している様子が描かれたりしますが、まさにあの状況なのだと思います。

6 自分との闘いは、兄弟との闘いへ

この戯曲において、ホレイショーはハムレットの理想像を体現するキャラクター。周囲の出来事に一喜一憂することなく、常に落ち着いた振る舞いができる大人びた性格の友人。対するレアティーズは、ハムレットの中にある若者らしい性質を体現するキャラクター。前半では父ポローニアスによって、賭け事や女遊びをするような若者のイメージを付与され、後半ではクローディアスを父殺しの犯人と勘違いして、王に剣を向ける、血気盛んで激高しやすい若者です。
 
後半、クローディアスは、レアティーズを使ってハムレットの命を奪おうと企む。船上で自分自身と闘ったハムレットは、デンマークへ帰国したあと、自分の中の未熟な部分を体現する敵としてレアティーズと決闘することになります。ハムレットがレアティーズに「自分の兄弟」(258)「兄弟として闘おう」(259)といように、ハムレットがレアティーズの妹オフィーリアの恋人であったことから、二人は義弟・義兄になるかもしれなかった関係。
 
前半、ハムレットが闘っていたのは象徴的父(実父・義父クローディアス・義父ポローニアス)でした。それが、船上で自分自身との闘いへと移る。デンマークへの帰国後、ハムレットの敵は、義兄弟レアティーズへとさらにスライドする。そして、前半、先王と現王の間で起こった兄弟対決が、後半、ハムレットとレアティーズの息子世代の義兄弟対決として繰り返されるんですね。

主人公が子供の頃は、敵は象徴的父として現れる。主人公が成長するのに従って、倒すべき相手は、自分の分身やそれが外在化した兄弟のようなものへと変化していく。そうして、常に葛藤し、ライバルと闘い、倒すのと同時に包摂し、乗り越えながら自分の心の器や世界観を押し広げていく。というのは一般的に考えても腑に落ちる変化だと思う。(話はそれますが、サリンジャーが初期には父と息子の物語を書いていたのが、コールフィールド家ものの途中から兄と弟の物語へ移っていき、グラス家ものでは完全に長兄シーモアとその下の弟妹たちとの闘いの物語へと移っていく過程がこれと呼応しているんですよね。天然なのか、意識的になされたものなのか分かりませんが、これ、個人的にすごく面白いと思うんです)

7 ハムレットとレアティーズ

ハムレットとレアティーズは義兄弟で、作中には二人が鏡像関係であることを示す記述がいくつも描きこまれています。まずは前述のとおり、ハムレットもレアティーズも、現王クローディアスに向かって父の復讐を果たそうとすること。そして、ハムレットは間違った相手を殺してしまう。レアティーズも間違えてクローディアスに剣を向ける。
 
また、ハムレットはかつて「貞淑の鑑と見えた妃(母)」を、いまは娼婦のようだといって嘆く。レアティーズも若者特有の激情が簡単に抑えられるなら「貞節な母の/清らかな額には娼婦の烙印が/押されることになる」(202)と述べ、本来は貞淑な母に娼婦のイメージを重ねています。

これを受けて、ハムレットはレアティーズについて、「彼の立場も(自分と)瓜二つだ」(248)「彼に匹敵するのは鏡に映ったその姿だけ、ぴたりと付いて行けるのは彼自身の影しかいない」(251)と鏡像だけが彼と互角に戦うことができると述べる。この直後に決闘を承諾するのだから、ハムレット自身がレアティーズの鏡像・分身といっているのと同じと読んでよいでしょう。ハムレットがレアティーズにいう「未熟な僕が闇夜なら/君の腕前は輝く星だ」(259)には、二人が光と影の関係であることが示されています。

この戯曲の主人公はデンマーク王子ハムレットなので、読者からすると一見、ハムレットが星(光)、王族に仕える身分のレアティーズが闇夜(影)に思えます。けれど、ここでハムレットはその逆をいう。前半ではクローディアスが光、ハムレットが闇の世界にいたことは、下記で確認しました。ハムレットは依然として自分が闇の世界にいることを認めているわけですね。そして、ハムレットとレアティーズは、互いが互いの光と影、その役割は常に反転可能であり、同時にどちらでもあるのだと思う。

墓掘りとの会話の後、ハムレットとレアティーズに向かって、王妃は「金色の双子の雛(golden couplets)をかえそうと/じっと卵を暖めている母鳩のように」一連の狂気は収まるだろうと語っています。「金色の双子の雛」は、潜在的に義兄弟であるハムレットとレアティーズを指すものとして読んでいいのではないでしょうか。とすると、ハムレットとレアティーズはここで、完全に対等な分身として語られている。彼らは鏡像、レアティーズはもう一人のハムレット、ハムレットはもう一人のレアティーズなのだと思うのです。

8 カインとアベル

戯曲の序盤、クローディアスが口にする「人類最初の死者」(28)という言葉は、注釈によれば、旧約聖書でカインに殺されたアベルを指すとのこと。カインとアベルは楽園を追放されたアダムとエヴァの子供。大人になると、兄カインは農耕民に、弟アベルは羊飼いになった。ある日、カインは自らが耕して得た農作物を、アベルは羊の群れから肥えた初子を神への捧げものとして持って行った。しかし神はアベルの捧げもののみを受け入れた。激怒したカインはアベルを殺してしまった。というエピソードで、これが人類最初の殺人といわれているのだそう(参考『キリスト教とは何か。』pen 2010年5月15日号別冊、阪急コミュニケーションズ)。

先に引用したクローディアスの言葉「人類最初の罪」「兄弟殺し」(157)という言葉も、カインとアベルへの言及。現王は自らが犯した兄殺しの罪を、聖書の兄弟殺しのエピソードと重ねています。聖書で神がアベルの捧げものだけを受け入れた理由には、さまざまな解釈があるようですが、明確な理由は記されていない。理由がわからないことがカインの怒りに火をつけ、殺人という最悪の罪を犯させたのだ、という考え方もできるかもしれません。
 
例えば、アベルが勤勉な羊飼いだったのに対し、カインが怠け者だったというのなら、神の振舞いにも納得がいく。だけれど、カインもアベルと同じように汗を流して畑を耕し、収穫した作物を持って行った。にもかかわらず、自分の捧げものだけが理由も分からないまま拒否された。このことがカインの嫉妬心を燃え上がらせた。
 
『ハムレット』のクローディアスもこれと似ているのかもしれない。もともと、兄(先王)とクローディアスの生まれ持った資質や育ち、成長の過程でなされた努力にはそれほど差がなかったのかもしれない。だけれど、兄は単に先に生まれたという理由だけで王になり、美しい妃を娶った。自分も兄と同じだけ努力をしてきたのに、自分は常に二番目にされてしまう。自分ではどうにもならない運のめぐりあわせのようなもので、人生が違うものになってしまう。弟クローディアスにはそれが理不尽なことに思えた。そこで芽生えた嫉妬心が、クローディアスの性格を悪魔のように歪ませ、兄殺しの罪を犯させた。そんな解釈もできるように思います。
 
『ハムレット』の墓掘りの場面では、掘り出された頭蓋骨を見て、ハムレットが「弟殺しのカインが凶器に使ったロバの骨みたい」(229)だという。注釈によれば、中世イギリスでは、カインの弟殺しの凶器はロバの顎の骨だと考えられていた、とのこと。シェイクスピア作品において、人の口は地獄への入り口の象徴(下記参考)。顎がはずれることは地獄への入り口が開いたこと、地獄へ堕ちることの表現だと思うのですが、これも聖書や神話から取られたものなのかもしれません。カインは顎の骨で殺人を犯した瞬間、地獄堕ちが決定的になってしまった、生きながら罪悪感に苛まれ続けるという精神的な地獄に堕ちたということですね。

ハムレットの上記のセリフは、表面的には現王による先王殺しを皮肉ったものと読めます。けれど、その後の展開を鑑みれば、これに義兄弟的関係でありながら決闘することになる自分とレアティーズの姿を重ねているとも取れます。

9 分身としてのヘラクレス

『ハムレット』では、ヘラクレス神話と重ねながら、父と息子の対決、父から息子へ似た資質や性格が受け継がれ、歴史が繰り返される、そんな宿命が描かれているという解釈については前々回、前回の記事で示しました(上記リンク)。兄弟対決も、繰り返される宿命のひとつですね。

そして、船上でハムレットが闘っていたのは、ハムレットの中にある狂気や未熟さ、ヘラクレスが担いでいる狂った頭(globe)、ハムレットの内なるヘラクレスなのだと思う。

『ハムレット』におけるここまでのヘラクレスの意味をまとめると、以下のようになるでしょうか。

そして、墓掘りたちとの会話のあと、墓地にいるハムレットとホレイショーのもとに、レアティーズ、王、王妃らがオフィーリアを納めた棺とともにやってくる。そこで恋人の死を知ったハムレットは激高し、ハムレットこそ父を殺した真犯人と知るレアティーズと争いになる。そこでハムレットはレアティーズに向かって件のセリフをいいます。

なぜ僕(ハムレット)をこんな目にあわせるんだ?
君(レアティーズ)にはずっと好意を持ってたのに。だが、そんなことはどうでもいい。
ヘラクレスにはしたい放題させておけ。
猫はニャーニャー、犬はワンワン、そのうちいい目も見るだろう
Let Hercules himself do what he may,
The cat will mew, and dog will have his day.

(242_カッコ内引用者追記)

訳者・松岡氏の注釈によれば、ここで言われているヘラクレスをハムレットととるか、レアティーズととるかで、解釈は二分する。「いずれにしろ謎めいた台詞」だとのこと。本稿では、ここでヘラクレスに例えられているのは、ハムレットとレアティーズの二人ともと解釈したい。
 
ハムレットとレアティーズはもともと義兄弟のような関係であり、さまざまな場面で鏡像のように描かれている。ハムレットは父との対決、船上での自分自身との対決を経て帰国し、後半、レアティーズと再会する。以前は友人だったレアティーズが、運命のいたずらとハムレットの過ち、クローディアスの策略によって、ここでは敵になってしまっている。ハムレットはレアティーズについて、「彼の立場も(自分と)瓜二つだ」(248)といっている。そのうえで、上記のセリフをいうんですね。

だから、ここでのヘラクレスは、第一にハムレットの中の狂気を指すのではないでしょうか。第二に、それは鏡映しで、父と妹を失い、ハムレットと同じように我を失っている、レアティーズの中の狂気を指す。そして、オフィーリアの墓の前で向かい合ったハムレットとレアティーズは、互いの中に自分の倒すべき相手、敵としての狂気、反転した自分を見ているのではないでしょうか。ハムレットとレアティーズは、最後にヘラクレスを通して、自分自身に剣を向けたのではないでしょうか。
 
『ハムレット』は「誰だ?」という誰何の言葉から始まる戯曲。このセリフが、ハムレット王子の自分探しという戯曲全体のテーマを象徴しているといわれますね。しかも、冒頭のセリフは、本来なら歩哨から訪問者へ向けられるべきなのに、訪問者から歩哨へ向かっていわれる。役割が反転している、つまり鏡映しになっている。
 
これが、ヘラクレスを間に置いた父と息子、自分の分身や兄弟同士の鏡像関係を経由して、最後のハムレットとレアティーズとの決闘の場面へと結びついてく。ハムレットはレアティーズとの決闘をとおして、自分が何者であるかに気づいていく。鏡を覗き込むようにして、自分が乗り越えるべき、心の奥深くにある狂気、未熟なヘラクレス的性質や、犬や猫に代表される獣のような部分、本能的な欲求のようなものを発見していくのだと思うんですね。
 
『ハムレット』における最後のヘラクレスの意味は、以下のようなイメージでとらえられるのではないでしょうか。

ダブル文学では、正反対、あるいは瓜二つの性質を持つ分身同士が、互いに激しい愛憎をいだき、相打ちとなって破滅するのが基本ですよね。ハムレットは最後に、義兄弟でありながら敵となったレアティーズと決闘し、自分自身の鏡像と自分自身を同時に殺してしまいます。
 
そして、ダブル文学で相打ちとなった分身同士は、死ぬことで一体化するともいえますね。互いの死を確信したとき、ハムレットとレアティーズは「お互いに許しあおう」(265)といって和解する。同時に、ハムレットは先王と、レアティーズはポローニアスと、それぞれが息子として、父とも神話的な一体化を果たす。そうして二重の分身関係が母なる大地へと還っていく。そんな解釈も可能だと思う。
 
王妃のいう「金色の双子の雛」は、鏡像関係にある二人が一体化することでもたらされる、黄金に輝く聖杯を思わせますね。それは、ヘラクレスが手に入れた黄金のりんご。錬金術における精神的な黄金。英雄神話における究極の恵み。『ハムレット』の悲劇の深層には、そんな意味も描きこまれているのかもしれません。

10 ヘラクレスが倒した怪獣の正体

前回、『アントニーとクレオパトラ』でも、アントニーがヘラクレスと重ねられながら、英雄の強い面と未熟な面が描かれていると述べました。この戯曲で、戦争での負けが濃厚になったアントニーは、「ヘラクレスよ、お前の怒りを授けてくれ。/肌着を届けに来たリカスを月まで投げ飛ばさせてくれ」(215)と狂気にかられたときのヘラクレスの力を求めます。
 
この次の場面では、自暴自棄になったアントニーについて、クレオパトラが「あの人は狂ってしまった」「テッサリアの猪もあれほど/荒れ狂いはしなかった」(216)という。テッサリアの猪は、神話の中でヘラクレスが退治した獣。狂気のアントニーを、ヘラクレスの敵の方に例えているんですね。これは『ハムレット』の前半で、ハムレット王子が自らをヘラクレスに退治されたネメアの獅子に例えていたのと同じ。
 
これらのセリフから感じられるのは、もしかするとシェイクスピアは、神話のなかでヘラクレスが闘った怪獣たちを、ヘラクレスの中にもともとあった狂気の現れと捉えていたのかもしれない、ということ。ならば、『ハムレット』のヘラクレスについても、このことを念頭に置いて読んでみたい。
 
自分がポローニアスを殺したのがもとで、愛するオフィーリアも発狂して死んでしまったことを知ったハムレットは、狂気に陥って兄弟妻子を殺してしまったあと、正気に返って絶望するヘラクレスと同じ。正気に戻った後、ヘラクレスは十二の功業を通して、自分の中にある怪獣のような狂気と闘っていくことになった。ならば、ハムレットが闘うべき相手もまた、ハムレット自身の中にもともといたものなのだ。そんな解釈もしてみたくなってきます。

11 『ジュリアス・シーザー』父との闘いから、鏡像との闘いへ

前回、墓掘りの場面でハムレットはジュリアス・シーザーについて言及しており、シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』も『ハムレット』と同じように、象徴的父と息子の闘いを描いているのだと述べました。この作品のなかで、シーザーへの謀反を起こすか悩んでいるブルータスは、「自分と折り合いがつかなくて往生している」(19)「自分相手に戦ってい」(20)るような気分だと告白しています。ハムレットと同じように、父との闘いが、自分自身との闘い、内面的な葛藤と重ねられているんですね。

また別の場面で、キャシアスはブルータスに、「俺が鏡になって/君が自分でも気づかない/ありのままの姿をみせてやる」(21)という。そして後半、仲間であるキャシアスとブルータスは、ちょっとした言いがかりから一時的に仲たがいし、ひどい言い争いをします。文庫本で約八ページにわたって(140-148)激しい口論をした後、あっさり仲直りする姿が描かれているんですね。
 
シェイクスピア作品では、相反する感情の葛藤がテニスの試合に例えられることがあるのですが、この口論はまさにテニスの打ち合いのような感じ。鏡像同士が互いに球を打ち合い、さんざん罵りあう姿を長々と見せておいて、試合が終われば笑顔で握手、さくっと許し合い、また味方同士として一緒に行動し始める。ここだけ読むと、仲間同士のちょっとした口論をなぜこれほど長々と書く必要があるのか、外では敵と命がけの闘い、一国の運命を左右する政権争いを繰り広げていながら、身内の余りにもちっぽけな口喧嘩になぜこれほど紙幅を割くのか、少々不思議に思える場面。なのですが、これも分身同士の葛藤と和解の表現として、あえて誇張されているのだとすると腑に落ちる。
 
そして、父と息子の闘いが、自分自身との闘いへとスライドし、それがさらに、目の前にいる友人を鏡像としての闘いと和解へと移っていく。この流れは『ハムレット』とほとんど同じ。Wikipediaによると、『ジュリアス・シーザー』が書かれた翌年に、『ハムレット』が書かれている。だからこそ、ハムレットは墓掘りの場面で、シーザーに言及する。そんな風に考えてみるのも面白いですね。

12 父の亡霊に屈する息子

『ジュリアス・シーザー』のあとがきによれば、この戯曲には〈spirit〉という語が23回もでてくるのだそう。ブルータスは、「俺たちが立ち上がるのはシーザーの精神に対してだ」、「ああ、できればシーザーの精神だけを捕え、/シーザーの五体は無傷のままにしておきたい!」(61)と願いながらシーザーを殺害する。シーザーの死後も、ブルータスは「ジュリアス・シーザー、相変わらず強大だな。/霊となって出没し、我々の剣を/我と我がはらわたに向けさせる」(182)といい、シーザーの亡霊につきまとわれ、最後はそれに屈するようにシーザーの養子に追い詰められて命を落とします。
 
シーザーの〈亡霊 spirit〉を、あえてブルータスの記憶の中にあるシーザー、ブルータスが内面化した象徴的父と言い換えることもできるのではないでしょうか。ブルータスは肉体を持った現実のシーザーを倒した。けれど、ブルータスは最後まで、自分の内側に君臨する記憶の中のシーザーと闘い続け、結局それに打ち勝つことができなかった。

そんな風に読むと、ブルータスが見るシーザーの〈亡霊 spirit〉と、ハムレットが見る先王の〈亡霊 spirit〉が重なってくる。息子は父の死後も、記憶の中の父、内面化した父親像と闘い続ける。ある意味では、目の前に父がいないからこそ、記憶の中で父の弱さや脆さといった負の要素は忘れられ、実際以上に美化されて、その偉大さばかりが肥大し息子を威圧する。それがハムレット自身の中にある未熟さや弱さをよけいに惨めに見せる。そして、ハムレットは自分の中の狂気と闘いはじめる。ハムレットもまた、ブルータス同様、自分の記憶の中の偉大な父を乗り越えようともがきながら、結局父と似たような道をたどって命を落としてしまう。シェイクスピアは、ヘラクレス神話を巧みに使いながら、そんなことを表現しようとしているのかもしれません。

13 したい放題するヘラクレス

『ハムレット』の悲劇が未熟者の「若い血のいたずら」(39)のせいであることは下記で考察しました。

また、この戯曲ではヘラクレスを通して、父世代と息子世代の対決が描かれていることも、前述の通り。それは、大人と子供の対決ともいえます。大人か子供かは、実年齢ではなく精神年齢の問題であり、精神年齢もまた、時と場合によって移り変わる。ポローニアスはオフィーリアに、「自分は赤ん坊だと心得ろ」(46)という。そんなポローニアスを、ハムレットは、「後ろ向きに這えれば」(91)ちょっとは若返るかも、「大きな赤ん坊は、まだおむつが取れていない」とばかにし、ローゼンクランツも「たぶん二度目のおむつでしょう。年寄りは子供にかえると申しますから」(101)という。
 
シェイクスピア作品では、狂気に陥ることが精神的に幼児返りすることとも結びつく(『リア王』などでも同様の表現がありますね、これについては改めて)。獣になることと同様、大人社会のルールを忘れて、本能優位になることが、しばしば子供に返ることとして表されます。

「ヘラクレスにはしたい放題させておけ Let Hercules himself do what he may」と語られるときの〈したい放題するヘラクレス〉とは、分別や良識、我慢など知らず、我がまま放題に振舞っていた幼いころの自分のことという言い方もできるかもしれません。大人になるときに、無意識の奥深くに押し込めて忘れたことにしたはずの、自分の中の子どもっぽさや未熟さ。

大人になるほど、理性の力で抑制できるようになり、自分の意志でコントロールしてきたはずの本能的な欲求や、人に知られたら恥ずかしいような子供っぽい感情。それは、人間社会のルールなど知らず、本能のままに行動する獣にも通じるところがある。それが、「猫はニャーニャー、犬はワンワン」というセリフに現れているのだと思う。

ハムレットは先王の亡霊の命令に従ってクローディアスへの復讐を企み、役者たちに劇中劇を演じさせて真実を探りもしたけれど、たぶん道徳的な迷いから(これについては改めて)、決定的な場面で復讐を先送りにしてしまう。同時に、クローディアスの真似をして言葉を尽くしたり、贈り物を贈ったりしてオフィーリアに愛を伝えたものの、失恋。母の罪を指摘し、心を入れ替えさせようと試みたけれど、母を傷つけ、最後は誤ってポローニアスを殺してしまう。結果、オフィーリアも狂って死んでしまった。

ハムレットなりに、自分の頭で、自分が持っている語彙を使って、理性的に考え、作戦を練り、先人たちの真似をしながら、どうにか状況を良くしようと必死に立ち回っているのだけれど、空回りばかりして、彼が頑張って考え、行動するほど、状況は悪くなるばかり。

父王のように、最大の英雄といわれる成熟したヘラクレスのように、大人になろうと背伸びしながら努力してみた、一国の王子として立派な人間になろうと努めてきたものの、結局はうまくいかなかった。どうやら、ハムレットにはまだ荷が重すぎたらしい。もう手に負えない。ならば、やけっぱち。本能の赴くままに、我がまま放題に子供っぽく振舞ってやろうじゃないか。

今まで、押さえつけていたけれど、ハムレットの心の奥深くには、先王から受け継がれた、今にも暴れ出したいとうごめく若いころのヘラクレス的な狂気が潜んでいる。それを隠しておく意味を、彼はもう見出せなくなっている。自分が築き上げてきた世界に対する希望を無くし、今まで我慢していた彼のなかの狂暴なヘラクレスが解き放たれて「したい放題」したとき、その先にあるのは破滅・死に違いない。ハムレットはそれを予感しながら、むしろその時を待ちわびるかのように、「ヘラクレスにはしたい放題させておけ」といっているのではないでしょうか。

そして、「そのうちいい目も見るだろう  dog will have his day.」という言い方は、それでもわずかに残るハムレットの希望を表現したものかもしれない。この戯曲で語られる理想は、「何よりも肝心なのは、己に誠実であること。/そうすれば、(中略)誰に対しても誠実にならざるをえない」(44)といわれる状態。デンマーク国民の望む王子になるため、本心を隠して空気を読み、無理して大人っぽく振舞うのではなく(父の復讐のために望まない殺人を犯すのではなく)、自分の心のままに話し、行動しつつ(つまり復讐を諦め)、世界が平和で豊かであるのが理想(これはシェイクスピア作品全体に通底するテーマ、詳しくは改めて)。そんな日が来ればいいのにというハムレットの切実な願いがにじみ出ているのかも。そんな風に思うのです。
 
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。

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